第4話 千年鍋と、ひとつきりの味
詠唱料理は、誰も食べたことのない味を生みます。言霊縄は、食べたことのある味しか生みません。どちらが上等かは、宮廷の人たちに決めてもらいましょう。これは、縄のほうの話です。
一
夕暮れの野営地に、千本の縄が切られる音が響いていた。
兵たちは腰に巻いた言霊縄を一尺ずつ切り、湯を張った飯盒に落とす。そしてそれぞれ、好きな料理の名を唱える。「豚汁」「けんちん」「あんこ鍋」。そのたびに湯気の色が変わり、一日じゅう歩いた男たちの顔が少しだけ緩んだ。
トウマだけは、何も唱えなかった。唱えても同じだからだ。
霞谷という山奥の村で育った彼は、生まれてから十九年、母が作る霊芋の汁しか食べたことがなかった。言霊縄は、唱える者が食べたことのある味しか生まない。だから彼の飯盒は、何を唱えようと毎晩、塩と芋だけの薄い汁になる。
「またあの地味なやつか」
隣にどっかりと腰を下ろしたのは、港町出身のガルドだった。熊のような大男で、笑うと前歯が一本ない。彼はトウマの飯盒をひょいと取り上げると、代わりに自分のものを押し付けた。
「飲め。潮麺だ」
口に含んだ瞬間、トウマはむせた。濃い塩と、海の匂いと、何か小さな生き物の脚のようなもの。知らない味だった。ただ、知らないということが、妙においしかった。
「よし、これでお前も明日から潮麺が唱えられる」ガルドは満足そうに言った。「味ってのは、人から分けてもらえるもんなんだよ」
そう言って返してよこしたトウマの飯盒は、いつの間にか底まで空になっていた。
その夜から、焚き火の周りは小さな市場のようになった。砂漠の傭兵が嘆き果の塩漬けを一粒くれて、トウマは泣きながらそれを食べた。ドワーフの工兵は石パンの欠片を寄こしたが、これは歯が立たず、結局剣を研ぐのに使った。ひとつ味を覚えるたびに、トウマの縄から生まれる汁は、少しずつ豊かになっていった。
二
本陣の天幕からは、夜ごとに詩を詠む声が流れてきた。
将軍が都から連れてきた専属の詩人が、詠唱料理を作っているのだ。風に乗って届く香りは、兵たちの誰もが名前を知らないものだった。それも当然で、詠唱料理はこの世の誰も食べたことのない味を生む。
「羨ましいか?」とガルドが訊いた。
トウマは少し考えて、首を振った。誰も食べたことのない味を、人はどうやって懐かしがるのだろう。彼の飯盒にある潮麺にはガルドの欠けた前歯が、嘆き果にはあの傭兵の笑い声が、わずかに溶けているような気がした。
「そうかい」ガルドは嬉しそうに笑った。「なあトウマ。戦が終わったら、俺の町に来い。港の外れに『鯨のよだれ亭』って宿がある。三百年続く千年鍋だ」
「三百年なのに千年鍋なのか」
「そういうもんなんだよ。あの鍋には、町の人間全部の味が入ってる。俺の親父の分もな」
それが、ガルドと交わした最後の約束になった。
三日後の河原の戦で、彼は敵の騎竜に踏み潰された部隊を庇って倒れた。トウマが駆け寄ったとき、ガルドはもう声が出せなかった。ただ腰の言霊縄をほどいて、トウマの手に握らせた。大きな手はもう冷えはじめているのに、縄には、腰に巻かれていたぬくもりがまだ残っていた。
縄は、残り一尺しかなかった。
その夜、本陣では勝利を祝う詠唱料理が振る舞われ、詩人の声はいつもより長く続いた。トウマはその声を聞きながら、一尺の縄を湯に落とさず、ただ懐にしまった。
三
『鯨のよだれ亭』は、港の外れの坂道に傾いで建っていた。
戦が終わって半年が過ぎていた。霞谷は戦火で焼け、母の消息は今もわからない。帰る場所をなくしたトウマには、懐の一尺の縄と、この宿の名前だけが残っていた。
店の奥では、人が一人入れそうな大鍋が、暖炉の火にかかっていた。焼け焦げた取っ手には数えきれないほどの紐が結ばれ、どれも端が短く切れている。
「それは縄の切れ端だよ」と、帳場の老婆が言った。「この町の兵は、最後の縄をこの鍋に入れるんだ。帰ってきた者も、帰ってこなかった者の分も。あんたもその口だろう」
トウマはうなずき、懐からガルドの縄を取り出した。
「何と唱えればいいんですか」
「何も。千年鍋に入れる縄には、名前を唱えない決まりだ。鍋のほうが、その縄の持ち主がいちばん覚えていた味を選ぶんだよ」
縄は音もなく、褐色の湯のなかに沈んでいった。老婆は紐を一本、取っ手に結び足してから、大きな木の椀で鍋をゆっくりとかき回した。
差し出された椀に口をつけた瞬間、トウマは息を止めた。
潮麺の濃い塩と、海の匂いがした。三百年、港の人間の味を継ぎ足してきた、この鍋そのものの味だ。そしてその奥に、もうひとつ、よく知った味があった。鍋がガルドの縄から選び出した、ひとつきりの味。塩と芋だけの、薄くて地味な、霞谷の汁。
初めて会った夜、ガルドが無造作に取り上げた飯盒のことを、トウマは思い出した。あの男はあのとき、母の芋汁を飲んでいたのだ。そして最後まで、それを覚えていた。
「……地味なやつだって、言ったくせに」
声が震えた。老婆は何も訊かず、空になった椀にもう一杯、汁を注いだ。
「この鍋は、一度覚えた味を忘れないよ」と彼女は言った。「あんたの母さんの汁も、もうここの味だ。千年だって続くさ」
窓の外で、潮が満ちはじめていた。トウマはその夜、生まれて初めて、何杯もおかわりをした。
あの宿の暖炉には、今も、取っ手に数えきれないほどの紐を結んだ鍋がかかっています。世界じゅうを見ている私が、いちばんよく眺めているのは、たぶんあの鍋です。食べ物の話は、ここまでにしましょう。帳面の頁が、また少し減りました。次は、食べ物ではないものの話を。




