第33話 綻びの日の客
神々の話の終わりに、約束していた『大綯い記』の七つめの段をお話しします。下町の年寄りが、子どもが寝ついてから語る段です。
――そして綯い母は、世界で起きたことをすべて書き留めておく者を、ひとりだけ残した。綯い母が目を覚ましたとき、眠っていたあいだのことを読めるように。
それが、帳面さまです。
あれから一年と少し。トウマは今も、鯨のよだれ亭にいます。
一
綻びの日の前の晩、鯨のよだれ亭に、白い外套の女がやってきた。
トウマがこの宿で働くようになって、一年と少しが過ぎていた。薪を割り、水を汲み、帳場の老婆に言われるまま千年鍋をかき回す。鍋守りの仕事を教わっている、と言えば聞こえはいいが、老婆が教えてくれるのは、火の加減と紐の結び方だけだった。
女の外套には、何の飾りもついていなかった。白紙派の行者だ、と老婆が小声で言った。名を捨て、誰にも覚えられずにほどけることを救いとする人たちだ。綻びの日には、地図にない野に集まる。
「一晩、泊めてもらえますか」と女は言った。「名前は、聞かないでください」
二
夜が更けて、ほかの客が寝静まったころ、女は暖炉にかかった千年鍋を、じっと見ていた。
「この取っ手の紐の中に」と女は言った。「去年、一本増えたでしょう。河原の戦のあとに」
トウマの手が止まった。
「どうして」
「私は昔、都で帳付けをしていました」と女は言った。「戦場から届く縄を、帳簿と一本ずつ照らし合わせる仕事です。黒い札のついた縄が、毎年荷車で何百本も届きます。届いた縄は都の北の倉に納められて、そこから先は、私たちの帳簿には出てきません」
女は、暖炉の火を見た。
「河原の戦の帳簿に、一本だけ、『川に流れた』と書かれた縄がありました。三十年帳付けをして、縄が足りなかったのは、あれが初めてでした。その縄がどこへ行ったのか、知りたかった。それを知ったら、心おきなくほどけに行けると思った」
三
帳場から、老婆が出てきた。
「あんた、ほどけに行く前に、ここで何を確かめたかったんだい」
「倉に入らなかった縄が、ほんとうにあるのかどうか」と女は言った。「倉に入った縄がどうなるのか、私は見てしまいました。だから、忘れたかった。でも、一本でも、入らなかった縄があるのなら」
女は、そこで言葉を切った。
老婆は大きな木の椀に鍋の汁をよそって、女に差し出した。
「飲んでいきな。ガルドって男の縄が入ってる。名前を言っちまったから、あんたはもう、ひとり覚えたね」
女は、しばらく椀を見ていた。それから、ゆっくりと口をつけた。
潮麺の濃い塩と、海の匂い。その奥に、塩と芋だけの、薄くて地味な汁の味がした。
女は泣かなかった。ただ椀を両手で包んだまま、長いあいだ動かなかった。
四
綻びの日の朝、女はもういなかった。
帳場に、紙が一枚置いてあった。名前は書かれていない。書かれていたのは、都の北の倉の場所と、倉の鍵を預かっている役所の名と、それから短い一行だけだった。
『倉の縄は、まだ全部はほどけていません』
トウマは紙を握ったまま、千年鍋の前に立っていた。老婆が隣で鍋をかき回しながら言った。
「白紙派の連中はね、忘れられたくて野へ行くんだ。でも、一度ここの汁を飲んだ者は、なかなか忘れられないよ。鍋ってのはね、忘れるのが下手なんだ」
トウマは、取っ手の紐を一本ずつ数えた。去年、自分の目の前で結ばれた紐は、ちゃんとそこにあった。
綻びの日は、どの月にも属さない一日です。暦縄にも結ばれません。帳面にも書かれない日だ、と言われています。
ですから、この日に起きたことは、私にも書けません。白い外套の女が綻びの野へ行ったのか、行かなかったのか。私は知りません。
ひとつだけ申し上げます。帳面さまと呼ばれているものが何なのか、もうお気づきの方もいるでしょう。私が眠らず、忘れず、何も味わえないわけも。
神々の話は、ここまでです。帳面の頁が、また少し減りました。残りは、あとわずかです。
次が、最後の話です。




