第34話 写しの帳簿
最後の話を始めます。
これまでと同じように、兵の話から。けれど今度は、どの話もひとつの夜へ向かっていきます。どの月にも属さない、一年に一度の夜。私にも書けない、あの一日へ向かって。
一
綻びの日の客が去ってから、トウマはひと月、鍋の前で考え続けた。
書き置きには、都の北の倉の場所と、ひとつの役所の名が書いてあった。名簿寮。兵の縄名を帳簿に書き、出陣の朝に読み上げさせ、戦のあとには縄を回収する帳簿として使う役所である。
紙の裏には、細い字が続いていた。倉の扉には名錠がかかっている。倉に納めた縄のうち、どれか一本の持ち主の縄名を唱えれば開く。ただし錠は、唱えた者の名を覚えて、名簿寮へ知らせる。知らされた者は、名を消される。
「倉の中にいる誰かの縄名を、知ってる者が要るんだね」と老婆は言った。鍋をかき回す手は止めなかった。「それから、倉の縄をどこへ返せばいいのか、わかってる者も」
トウマはしばらく黙っていた。縄名は、命を預けた相手にしか教えない。そして紙の最後の一行には、こう書かれていた。
『綻びの日には、錠も帳簿も、何ひとつ書き留めない』
二
冬の陣で、トウマは軍医のハヤを探しあてた。
河原のあの日、トウマは一度も顔を上げなかった。けれど声は覚えていた。「川に、流れました」と言った、思ったより落ち着いた声を。
ハヤはもう見習いではなかった。ロウ先生は前の年に軍を退き、救護の天幕はハヤが預かっていた。トウマが名乗ると、ハヤは少しだけ目を見開いて、それから天幕の奥へ招き入れた。
話を聞き終えても、ハヤは長いあいだ何も言わなかった。それから天幕の奥の行李を開けた。中には紐で綴じた紙の束が、何十冊も詰まっていた。
「黒い札を結ぶたびに、その人の名前と、生まれた土地を書き写してきたの」とハヤは言った。「先生には、荷車の行き先を聞くなと言われた。でも、書くなとは言われなかった」
束をめくると、細かい字がびっしり並んでいた。名前のわからない兵には、顔つきや持ち物が書き添えてある。いちばん古い束の、河原の戦の頁に、一行だけこうあった。
『大男。前歯一本なし。縄なし』
トウマは、その一行を指でなぞった。
「これがあれば」とハヤは言った。「倉の縄を、どこへ返せばいいかわかる」
三
その晩、ハヤは天幕に二人の兵を呼んだ。塩田の村のユタと、古参兵のゴウだった。
ゴウは黙って話を聞き、最後にひとつだけ聞いた。
「綻びの日に、荷車は何台要る」
「わからない」とトウマは答えた。「倉に、何本の縄があるのかもわからない」
「だろうな」ゴウは焚き火に薪をくべた。「縄集めの荷車なら、おれたちは毎年見送ってる。どの道を通って、どこで馬を替えるかもな。兵はみんな、半分は知ってて、半分は知らないふりをしてるんだ」
ユタが言った。「僕の村の分の縄も、あるんでしょうか」
ハヤは写しの束の一冊を開き、しばらく頁を繰ってから、指を止めた。南の塩田の村の名の下に、名前が七つ並んでいた。
ユタはその頁を、焚き火の明かりの中でじっと見ていた。
「次の綻びの日まで、あと十一の月ある」とゴウが言った。「間に合わせるなら、春までに鍵を探すことだ」
ロウ先生が聞かないことにした行き先を、ハヤは聞かずに、ただ書き続けていました。聞くことと書くことは、少し違います。私も、見て書くことしかできない者ですから、その違いはよくわかります。
次は、鍵の話を。鎚の谷へ向かいます。




