第20話 なかった縄
薬の話の終わりに、ひとりの見習い軍医の話をします。以前お話しした、河原の戦の日のことです。
一
ハヤが軍医の見習いになって、ふた月が過ぎていた。
河原の戦は、昼すぎに終わった。敵の騎竜が川を越えて突っこんできて、ひとつの部隊がまるごと踏みつぶされかけた。けれど誰かが前に出て、それを食い止めたらしい。勝ち戦だ、と伝令は触れ回ったが、救護の天幕の前には、運びこまれた兵が三列に並んでいた。
「札を結べ」と軍医長のロウ先生は言った。「結んだら、色だけを見ろ。顔は見るな」
ハヤは兵の手首に、ひとりずつ選り札を結んでいった。息を三つ数えるほどのあいだに、灰色だった札がじわりと色づく。赤。黄。黄。白。赤。
三列目の端に、ハヤと年の変わらない兵がいた。痛い、痛いと泣いていた。札は黄だった。その隣で、声も出さずに目を閉じている年かさの兵の札は、赤だった。
ハヤは黄の札の兵を見た。泣いている顔を、見てしまった。
「色だけを見ろ」
ロウ先生の声がして、ハヤは赤い札の兵を先生のほうへ運ぶよう、運び手に合図した。
二
日が傾くころ、ハヤは河原へ送られた。倒れたまま運ばれてこない兵に、札を結んでくるのが役目だった。
河原では、もう誰も泣いていなかった。ハヤは石のあいだを歩き、ひとりずつ手首に札を結んだ。結ぶそばから、札は黒くなった。黒くなった札は手首から外し、兵の腰の縄に結び直す。そう教わっていた。
川べりで、若い兵がひとり、膝をついていた。その前に、熊のように大きな男が仰向けに倒れていた。口が少し開いていて、前歯が一本ないのが見えた。
ハヤは大男の手首に札を結んだ。札は、結んだとたんに黒くなった。
腰の縄に結び直そうとして、ハヤの手が止まった。大男の腰には、縄がなかった。
顔を上げると、若い兵が胸もとに縄を一本、握りしめていた。両手で、つぶれるほど強く。
「これは」と若い兵は言った。かすれた声に、山の奥の訛りがあった。「もらったんです」
ハヤは黒い札を持ったまま、しばらく黙っていた。
三
河原の上の道で、荷車の音がした。
縄集めの役人だった。荷車には、黒い札のついた縄が束になって積まれていた。役人は帳簿を開き、河原に倒れた兵の数と、縄の数を照らし合わせていく。
「そこの大男のは」と役人は言った。
若い兵の背中が固くなるのを、ハヤは見た。
「川に、流れました」とハヤは言った。
自分の声は、思ったより落ち着いていた。
「倒れたとき、腰の縄がほどけて、流れていくのを見ました」
役人は大男の腰と、川と、ハヤの顔を順に見た。それから舌打ちをして、帳簿に何か書きつけた。
「一本足りないと、都がうるさいんだ」
荷車はまた動きだした。縄の束の上で、黒い札がいくつも揺れていた。
ハヤは手の中に残った黒い札を、大男の手首に結び直した。若い兵は最後まで顔を上げなかった。
四
その夜は満月だった。
天幕に入りきらない兵たちが、外に並べて寝かされていた。月寝かせだ。月の光の下で、深手の兵の傷は、少しだけゆっくり悪くなる。
ハヤが水を配っていると、ロウ先生が隣に来た。
「河原で、嘘をついたな」
ハヤは答えなかった。先生は見ていたのだ。
「札は、順番を決める」とロウ先生は言った。「誰を先に生かすかは、札が決める。おれたちは決めない。そう決めておかないと、この仕事は続けられない」
先生は、月の下に並んだ兵たちを見わたした。
「だが、死んだ者の縄をどうするかは、札は決めない。お前が決めた」
「いけなかったですか」
先生はしばらく黙っていた。それから懐から正竜丸の瓶を出して、一粒飲んだ。先生の右手がときどき震えるのを、ハヤは知っていた。
「おれは四十年、黒い札を結んできた」と先生は言った。「あの荷車がどこへ行くのか、一度も聞いたことがない。聞かないことにしてきた」
先生は月を見上げた。
「お前は、聞くなよ。聞いたら、きっと札を結べなくなる」
月明かりの中で、先生はひどく年をとって見えた。
翌朝、あの若い兵の姿は、もう河原になかった。
その日、荷車は都へ向けて発った。帳簿には、一本だけ「川に流れた」と書かれた縄があった。
あの縄が半年後にどこへ行ったかは、第四話でお話ししたとおりです。
黒い札のついた縄の荷車が、どこへ運ばれていったのか。ロウ先生が聞かないことにしたその行き先を、私はずっと見ています。けれど、それをお話しするのは、もう少し先にします。
薬の話は、ここまでです。帳面の頁が、また少し減りました。
次は、眠りの話を。




