第16話 名消しの子守歌
都の下町の、ある夏の話です。この話の中で、ある名前は一度も口にされません。
一
消し役が下町に来たのは、灼け月の、満の三日だった。
白い墨の壺を提げた役人が三人、路地の入り口に立った。宮廷に届いた噂を確かめに来たのだ、と年かさのひとりが言った。このあたりの子守歌に、消された名が混じっている、と。
コトは九つだった。井戸端で、母さんや近所のおばさんたちが役人に囲まれるのを、少し離れたところから見ていた。
「歌ってみろ」と役人は言った。
おばさんのひとりが、赤ん坊を揺すりながら歌った。ねむれ、ねむれ、時をくれたひと……。けれど歌はそこで途切れて、あとは言葉のない節だけが続いた。
「続きは」
「続きなんて、ないんですよ」とおばさんは言った。「昔から、そこは鼻歌なんです」
役人たちは路地の家を一軒ずつ回った。どの家でも、子守歌は同じところで途切れた。
「三日、ここに泊まる」と年かさの役人は言った。「その歌の続きを、誰かが歌うまでな」
二
その夜、コトは熱を出した弟の枕元で、祖母に聞いた。
「ほんとうに、続きはないの」
祖母は弟の額の汗をぬぐいながら、しばらく黙っていた。
弟の熱は三日前から下がらなかった。この夏、下町では同じ熱の子が何人も出ていた。熱が長引くと、子どもの手は少しずつ皺っぽくなっていく。刻熱、と大人たちは呼んでいた。都の蔵に近い町ほど、よく出る熱だった。
「続きはね、あるよ」と祖母はやっと言った。「でも、ひとりじゃ歌えない」
祖母の話はこうだった。あの子守歌には、本当は九つの行がある。けれどこの路地の家は、それぞれ一行ずつしか知らない。うちが知っているのは最初の一行。隣は二行目。そのまた隣は三行目。九つの行の頭の音を拾うと、ひとつの名前と、ひとつの頼みごとになる。
「名前はね、ひとりで持っていると消される。でも、みんなで少しずつ持っていれば、誰にも消せない」
祖母はコトの耳に口を寄せて、うちの一行を教えた。その行は、「り」の音で始まっていた。
三
次の夜も、弟の熱は下がらなかった。
役人たちは路地の真ん中の井戸に腰を下ろし、耳を澄ませていた。
夜が更けたころ、祖母がコトの背中をそっと押した。「窓を開けて、歌いなさい。うちの一行だけ」
コトは窓を開けて、小さな声で、教わった一行を歌った。
歌い終えると、隣の家の窓が開いて、次の一行が聞こえてきた。その次の家から、また次の一行。歌は窓から窓へ、路地を渡っていった。ひとつひとつは、ばらばらの子守歌にしか聞こえない。どの家も、歌うのはたった一行だけだ。
井戸端の役人たちは顔を見合わせたが、白い墨の壺に手を伸ばす者はいなかった。消すべき名前は、どの窓からも聞こえてこなかったからだ。
九つめの行が路地の端の家から聞こえて、歌は終わった。
そのときコトは、井戸の向こうの暗がりに、ひとりの老人が座っているのに気づいた。いつからそこにいたのか、わからない。老人は目を閉じて、歌の最後の一行に合わせて、口だけを動かしていた。
コトが瞬きをすると、老人はもういなかった。
枕元に戻ると、弟が目を開けて、水が欲しいと言った。額に触れると、熱はすっかり引いていた。皺っぽくなりかけていた小さな手は、元のやわらかい手に戻っていた。
三日目の朝、役人たちは何も塗りつぶさずに都へ帰っていった。
その日、コトは近所の誰に聞いても、あの老人を見たという人に会えなかった。けれどコトは覚えていた。月明かりの中で、あの老人の足もとには、ちゃんと影が落ちていた。
英雄の話は、ここまでです。帳面の頁が、また少し減りました。
あの子守歌の九つの行の頭の音を、ここに並べることはしません。けれど第十四話を読んだあなたがたには、もうおわかりでしょう。
名前は、ひとりで持っていると消されます。でも、大勢で少しずつ持っていれば、誰にも消せません。この夜、下町の人たちが教えてくれたことです。覚えておいてください。いずれ、とても大事になりますから。
次は、薬の話を。




