↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/27

京都を出る

 目覚まし時計が鳴る少し前に、潤は目を覚ました。

 午前四時半。

 窓の外はまだ薄暗い。

 いつもの朝なら、こんな時間に目が覚めても間違いなくもう一度布団をかぶる。

 けれど今日は違った。

 ――九州へ行く。

 そう思っただけで、眠気は消えた。

 顔を洗い、昨夜用意しておいた服に着替える。

 財布。

 地図。

 フェリーの切符。

 免許証。

 工具。

 雨具。

 着替え。

 一つずつ確認する。

 最後に机の上のライカを手に取った。

 革ケースに入れようとして、やめた。

 今日は首から下げていくことにした。

 昭吾朗が使っていたカメラを持って、昭吾朗がいた土地へ行く。

 そんなことを考えると、ケースの中へしまってしまうのが惜しい気がした。

 封筒に入れた写真は、バッグの一番濡れにくい場所へ入れた。

「よし」

 部屋を出る。

 階下では、もう祖母が起きていた。

「早いな」

「ばあちゃんこそ」

「見送る言うたやろ」

 台所から握り飯の包みを持ってくる。

「昼に食べ」

「昨日ももろた気がする」

「昨日のは昨日。今日のは今日」

「ありがとう」

「梅干し入ってるから」

「うん」

「暑いから、早よ食べや」

「分かった」

 母も起きてきた。

 そして、出発までに同じ注意を三回された。

「無理しない」

「うん」

「夜は走らない」

「うん」

「着いたら電話」

「分かってるって」

「分かってても言うの」

「はい」

 父は眠そうな顔で煙草をくわえていた。

「神戸までは焦るなよ。船は逃しても次がある」

「切符買ってるのに」

「事故するよりましや」

「分かってる」

 祖父は玄関先まで出てきた。

「宇佐へ行ったらな」

「うん」

「昔の飛行場のこと、年寄りに聞いてみ」

「年寄り?」

「若い人に聞いても分からんやろ」

「なるほど」

「昭吾朗いう名前を覚えてる人がおるとは思わんけど」

「写真見せてみる」

「それがええ」

 祖父はそこで少し考えた。

「安心院も忘れるなよ」

「分かってる」

「何か分かるかもしれん」

「じいちゃん、何か知ってるんと違う?」

「知らんよ」

「ほんまに?」

「知ってたら言う」

 そう言って笑った。

 午前五時前。

 潤はカブを門の外へ出した。

 まだ眠っている町に、小さなエンジン音が響いた。

 そして、昨日の約束どおり里美が走ってきた。

「潤!」

「おはよう」

「ほんとに早い……」

「だから寝てろ言うたやろ」

「見送りに来たかったの」

 髪はいつもの三つ編みだったが、少しだけ乱れている。

 本当に起きてすぐ来たらしい。

「忘れ物ない?」

「たぶん」

「たぶんじゃ駄目でしょ」

「財布と切符と免許あったら何とかなる」

「ライカは?」

「ここ」

 胸元を示す。

「写真は?」

「入れた」

「地図」

「ある」

「雨具」

「ある」

「お金」

「ある」

「私のお土産」

「それはまだない」

「忘れないでよ」

「はいはい」

 里美が頬を膨らませる。

「はいは一回」

「ばあちゃんと同じこと言うな」

 家族が笑った。

 里美も笑った。

 けれど、潤がカブに跨ると、その顔が少しだけ真面目になった。

「潤」

「ん?」

「気をつけてね」

「うん」

「絶対帰ってきてね」

「何回言うねん」

「いいから」

「帰ってくるって」

「……うん」

 潤はヘルメットをかぶった。

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 カブが動き出す。

 バックミラーを見る。

 父。

 母。

 祖父母。

 そして里美。

 みんなが小さくなっていく。

 角を曲がる直前、里美が大きく手を振った。

 潤も左手を上げた。

 それで家が見えなくなった。

     *

 早朝の京都は、昼間とは別の町だった。

 店のシャッターは閉まり、道路を走る車も少ない。

 新聞配達のバイク。

 犬を連れた老人。

 店先を掃く人。

 夏の日が昇る前の空気には、まだ少し涼しさが残っている。

 潤はゆっくり走った。

 急ぐ必要はない。

 今日の目的は神戸までたどり着き、夜の船に乗ることだけだ。

 町を抜けていく。

 見慣れた風景が後ろへ流れる。

 普段なら何とも思わない道なのに、今日は一つ一つが違って見えた。

 旅行というのは、目的地へ着いてから始まるのではない。

 家を出た瞬間から始まっている。

 そんなことを初めて知った。

 信号待ちで、潤は胸元のライカに触れた。

 ふと思いついてカブを道路脇へ停めた。

 朝の町へレンズを向ける。

 誰もいない交差点。

 長く伸びる電柱の影。

 遠くを走る市電。

 ピントを合わせる。

 ――カシャ。

「二枚目」

 いや。

 最初にカブを撮ったから三枚目か。

 昨夜、勝手に切れた一枚も数えるなら四枚目。

「もったいないことしたな」

 フィルムは無限ではない。

 何でも撮るわけにはいかない。

 けれど昭吾朗は、何でも撮っていたらしい。

 家。

 道。

 人。

 今の潤から見れば、それが一番面白かった。

「俺もそうするか」

 名所だけ撮っても仕方がない。

 自分が見たものを撮ろう。

 潤は再び走り出した。

     *

 日が高くなるにつれて暑くなった。

 京都を離れ、神戸を目指して西へ進む。

 大型トラックが横を通るたびに風圧を受ける。

 速い車に抜かれる。

 カブは淡々と走った。

 速くはない。

 だが止まらない。

 潤はこのバイクのそういうところが好きだった。

 派手ではない。

 大きな音もしない。

 ただ、どこまでも行けそうな気がする。

 一時間ほど走って休憩した。

 道路脇の小さな店でラムネを買う。

 店先のベンチに腰を下ろした。

 額から汗が流れる。

「兄ちゃん、どこまで?」

 店の老人が聞いた。

「神戸です」

「京都から?」

「はい」

「その先は?」

「九州」

 老人がカブを見た。

「それで?」

「神戸から船です」

「そらそうやろ。海走ったら沈むわ」

 潤は笑った。

「大分まで行きます」

「何しに?」

「ちょっと、人を探しに」

「親戚か?」

「……昔の親戚みたいなもんです」

 説明が難しい。

 死んだ大叔父と、その写真に写っていた女学生を調べに行く。

 そう言えば、ずいぶん奇妙な旅行に聞こえる。

「若いうちはええな」

 老人が言った。

「思いついたら行ける」

「おじさんも行ったらいいじゃないですか」

「この歳になったら、行く前に考えることが多すぎる」

「そういうもんですか」

「そういうもんや」

 老人は笑った。

「兄ちゃんも、そのうち分かる」

 潤にはまだ分からなかった。

 ラムネを飲み干し、空き瓶を返す。

「ありがとうございました」

「気ぃつけてな」

「はい」

 エンジンをかける。

 また西へ。

     *

 昼前には暑さが本格的になった。

 道路から熱が上がってくる。

 ヘルメットの中も暑い。

 祖母の握り飯を食べるため、木陰を見つけて停まった。

 包みを開く。

 二個。

 梅干し。

 塩気がうまかった。

 水筒の麦茶を飲む。

 ライカを取り出し、カブを撮った。

 荷物を積んだ小さな車体。

 背景には夏の道。

 ――カシャ。

 昭吾朗も旅の途中で、こんなふうに休んだことがあるのだろうか。

 もっとも彼の時代には、今のように気軽に遠出できたわけではない。

 まして戦争中だ。

 それでもアルバムには、笑っている昭吾朗がいた。

 笑っている女学生がいた。

 戦争の中にも、夏はあった。

 恋もあった。

 写真も撮った。

 そのことが、潤には妙に引っかかっていた。

 もし昭吾朗が死ななかったら。

 あの女学生と結婚したのだろうか。

 子供ができていたかもしれない。

 そうすれば今、自分には知らない親戚がいたかもしれない。

 たった一人の人間が死ぬことで、未来から何人もの人間が消える。

 そんなことを考えると、不思議だった。

「……暑さで変なこと考えてるな」

 潤は立ち上がった。

     *

 午後になると、神戸へ近づくにつれて交通量が増えた。

 ここからが疲れた。

 信号。

 車。

 排気ガス。

 道を間違える。

 地図を開く。

 戻る。

 また迷う。

「どっちやねん」

 今なら笑える程度の迷いでも、そのときは必死だった。

 時計を見る。

 まだ余裕はある。

 父の言葉を思い出す。

 船は逃しても次がある。

 事故するよりまし。

「分かってるよ」

 誰にともなく言った。

 焦らず走る。

 やがて潮の匂いがした。

 海だ。

 建物の間から港が見えた。

「着いた……」

 思わず声が出た。

 京都から神戸。

 地図で見れば大した距離ではない。

 それでも、自分一人でカブを走らせてここまで来たというだけで嬉しかった。

 港へ入る。

 大きな船が見えた。

 潤はカブを停めた。

 見上げる。

「でか……」

 これに乗って、海を渡る。

 向こうは九州。

 急に旅が本物になった気がした。

 潤はライカを構えた。

 船と、その手前に停めた自分のカブ。

 ファインダーの中に収める。

 ――カシャ。

 シャッターを切った。

 その瞬間。

 なぜか、誰かに見られているような気がした。

 潤はカメラを下ろした。

 周囲を見る。

 乗船を待つ車。

 荷物を持った家族。

 煙草を吸う男。

 バイクの旅人。

 誰も潤など見ていない。

「……気のせいか」

 ライカを首から下げた。

 海から風が吹いた。

 京都より少しだけ涼しかった。

 潤はまだ知らない。

 この旅で出会うことになる女が、

 もうずっと前から、このライカの中にいたことを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。