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宇佐という地名

 旅行の計画は、思っていたより面倒だった。

 潤は翌日も朝から机に向かっていた。

 道路地図の横には、時刻を書き写した紙、宿泊費の計算、ガソリン代の見積もり。

 父親から、

「遊びに行くんやったら、自分で全部調べろ」

 と言われた以上、適当な計画を出すわけにはいかない。

 京都から神戸まではカブで走る。

 神戸から夜のフェリー。

 翌朝、別府。

 そこから国道を北へ走って宇佐。

 宇佐で一泊。

 翌日は安心院。

 その後、別府へ戻ってフェリーで神戸。

 神戸から京都。

「……行けるやろ」

 紙の上では、きれいにつながった。

 問題は、紙の上では坂道も暑さも疲労もないことだった。

 潤は窓の外を見た。

 今日も晴れている。

 庭のカブが夏の日差しを浴びている。

 あれで九州まで行く。

 そう思うと、急に大旅行のような気がしてきた。

 いや、高校一年の潤にとっては、十分に大旅行だった。

     *

「これでどうや」

 夕食後、潤は父の前に一枚の紙を置いた。

 父は新聞を脇へ置いた。

「何や」

「旅行計画」

「もうできたんか」

「言うたやろ。行きたいって」

 父は紙を手に取った。

 母も横から覗く。

「本当に行くつもりなの?」

「許可が出たら」

「出なかったら?」

「説得する」

「同じじゃない」

 父が計画を見る。

「京都から神戸……これは一日で行けるな」

「朝出る」

「フェリーに遅れたら?」

「余裕持って着く」

「パンクしたら?」

「修理道具持ってく」

「自分でできるんか」

「一応」

「一応は危ないぞ」

「出る前にバイク屋で見てもらう」

 父が頷いた。

「それはしとけ」

 紙をめくる。

 一枚しかないので裏は白い。

「宿は?」

「宇佐で安いところ探す」

「予約は?」

「これから」

「決まってへんやないか」

「だから計画やん」

「完成してから持ってこい」

「厳しいなあ」

「九州まで一人で行く言うてる人間が何言うてんねん」

 母が横から口を挟む。

「そもそも、どうしてそこまでして行きたいの?」

 潤は答えようとして、少し困った。

 どうして。

 自分でもよく分からない。

「昭吾朗さんのこと、知りたいから」

「今まで名前も知らなかったのに?」

「だからや」

「だから?」

「家族やのに、何も知らんかった」

 母が黙った。

 潤は続けた。

「二十歳くらいで死んだんやろ。じいちゃんの弟で、この家に住んでて、あのライカ使ってた。それやのに俺、三日前まで存在も知らんかった」

 父が潤を見る。

「それが気になるんか」

「うん」

「宇佐へ行ったら分かると思う?」

「分からんかもしれん」

「なら――」

「でも行かな、分からんやろ」

 父が少し笑った。

「そこまで言うなら、まあええんと違うか」

「あなた」

「条件付きや」

 母が父を見る。

「どんな条件?」

「毎日家に電話する。無茶せん。夜は走らん。カブは出発前に点検。宿は先に決める」

「全部やる」

「あと」

「まだあるん?」

「帰る日を勝手に延ばすな」

「分かった」

「金がなくなっても泣きつくな」

「分かってる」

「事故したら――」

「それはもう里美にもばあちゃんにも言われた」

「なら分かってるな」

 父が計画書を潤へ返した。

「行ってこい」

「ほんまに?」

「ただし母さんがええと言ったらな」

「ずるっ」

 最後に一番高い壁を残した。

 潤は母を見る。

 母はしばらく黙っていた。

「……毎日電話するのよ」

「する」

「絶対よ」

「するって」

「知らないところで無茶しない」

「はい」

「具合が悪くなったら予定を変えてでも休む」

「はい」

「それから――」

「母さん」

 父が笑った。

「もうええやろ」

「あなたは気楽すぎるのよ」

「男の子や。一人で旅行くらいする」

「まだ十六よ」

「十六やからするんや」

 その言葉を聞いて、祖父が新聞の向こうで笑った。

「そうやな」

「おじいちゃんまで」

「私も十六のころは、あちこち行ったもんや」

「自転車でやろ」

 潤が言う。

「今のお前のカブより遅いわ」

「そらそうや」

「せやけど、遠くへ行くときの気持ちは同じや」

 祖父は新聞を畳んだ。

「行ってこい。宇佐へ」

 それで決まった。

     *

 翌日。

 潤はカブをバイク屋へ持っていった。

「九州?」

 店の主人が驚いた。

「はい」

「これで?」

 カブを見る。

「これで」

「若いなあ」

「無理ですか?」

「いや。機械より先に人間がへばるやろ」

「そんなもんですか」

「夏やぞ」

 主人は笑いながら点検を始めた。

 タイヤ。

 チェーン。

 ブレーキ。

 オイル。

 プラグ。

 潤は横で見ていた。

「無茶な走り方せんかったら大丈夫や」

「壊れません?」

「機械やから絶対とは言えん。でもカブは丈夫や」

 その言葉だけで妙に安心した。

「荷物積みすぎるなよ」

「はい」

「雨具持て」

「はい」

「工具」

「あります」

「予備のプラグ」

「あ」

「持っとけ」

「買います」

「あと金」

「それは工具じゃないでしょ」

「一番役に立つ工具や」

 主人が笑った。

 潤も笑った。

     *

 出発は三日後に決まった。

 宿も取った。

 フェリーの時間も確認した。

 荷物も少しずつ揃えた。

 着替え。

 雨具。

 タオル。

 地図。

 工具。

 カメラ。

 フィルム。

 そしてアルバムから外した数枚の写真。

 祖母に頼んで、昭吾朗と女学生が写ったものだけ持っていくことにした。

「なくさんといてや」

「分かってる」

「それしかない写真やから」

「大事にする」

 写真は封筒に入れた。

 その一枚を、潤はもう一度見る。

 昭吾朗。

 女学生。

 二人の後ろに、夏の木々。

 写真の端に小さく写る文字。

 宇佐。

 この写真が撮られた場所へ行く。

 そう思うと、少し不思議だった。

     *

 出発前日の夕方。

 潤は荷物をカブに載せていた。

 荷台にバッグを固定する。

 一度積んでは外し、また積む。

「そんなに持ってくの?」

 声がした。

 振り返る。

 里美が門のところに立っていた。

「着替えとかあるからな」

「何泊?」

「宇佐で二泊するかもしれん」

「前は一泊って言ってなかった?」

「安心院まで行くから、時間見て決める」

「勝手に延ばしたら駄目なんじゃなかった?」

「帰る日は変えへん。別府に戻る日を調整するだけ」

「ふうん」

 里美はカブの横にしゃがんだ。

 荷物を見ている。

「本当に行くんだ」

「ここまで準備して行かんかったらアホやろ」

「明日の朝?」

「五時くらい」

「早い」

「暑くなる前に京都出たいから」

 里美は立ち上がった。

「見送りに来ようかな」

「寝てろ」

「何で」

「五時やぞ」

「起きられるよ」

「夏休みになって七時まで寝てるやん」

「潤に言われたくない」

「俺は旅行の日は起きる」

「私も起きる」

「好きにしたら」

「またそれ」

 里美が笑った。

 それから少し黙った。

「潤」

「ん?」

「一人で?」

 前にも聞かれた。

「うん」

「ほんとに?」

「何が言いたいねん」

「別に」

「またそれか」

 里美はカブのハンドルに軽く触れた。

「いいな」

「何が?」

「これ」

「カブ?」

「うん」

「免許取ったらええやん」

「……考えてる」

「え?」

 潤は手を止めた。

「本気?」

「悪い?」

「悪くないけど」

「私がバイク乗ったら変?」

「全然」

「じゃあ取ろうかな」

「取ったら?」

「簡単に言うね」

「原付やろ」

「潤は何でも簡単に言う」

「そう?」

「そう」

 里美はカブから手を離した。

「もし私がカブ買ったら」

「うん」

「一緒に走ってくれる?」

「そら走るやろ」

「ほんと?」

「何で嘘つくねん」

 里美が笑った。

 さっきまでとは違う、嬉しそうな顔だった。

「じゃあ考える」

「免許?」

「うん」

「頑張れ」

「まだ取るって決めてない」

「どっちやねん」

 二人で笑った。

 夕方の風が少し涼しくなっていた。

     *

 翌朝。

 まだ空が白み始めたばかりだった。

 潤はカブを家の前へ出した。

 荷物を確認する。

 財布。

 地図。

 フェリーの切符。

 ライカ。

 写真。

 全部ある。

 父と母も起きてきた。

「電話するのよ」

「分かってる」

「気をつけろよ」

「うん」

 祖父は玄関から言った。

「宇佐に着いたら、急がんでええ。ゆっくり見てこい」

「分かった」

 祖母は握り飯を包んで持たせてくれた。

「途中で食べ」

「ありがとう」

 エンジンをかける。

 早朝の静かな住宅地に、小さな音が響いた。

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 潤が走り出そうとした、そのときだった。

「潤ー!」

 道の向こうから声がした。

 里美だった。

「間に合った!」

 息を切らして走ってくる。

「ほんまに来たんか」

「来るって言ったでしょ」

「寝ててよかったのに」

「うるさい」

 里美はカブの横に立った。

 まだ少し息が荒い。

「気をつけてね」

「うん」

「飛ばさないで」

「カブでそんな飛ばせへん」

「雨降ったら無理しない」

「分かった」

「ちゃんと食べる」

「お前は俺の母親か」

「それから」

「まだあるん?」

 里美は何か言おうとして、やめた。

「……お土産」

「かわいいやつな」

「覚えてた?」

「そらな」

 里美が笑った。

 そして、小さく言った。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 潤はアクセルを開けた。

 カブがゆっくり走り出す。

 バックミラーの中で、里美が手を振っていた。

 角を曲がるまで、ずっと。

 京都の朝の町を、潤は西へ向かった。

 荷台には数日分の荷物。

 首からは古いライカ。

 ポケットには、三十年前の写真。

 目指すのは、大分県宇佐。

 そこに何があるのか。

 誰に会えるのか。

 まだ何も知らない。

 昭吾朗と孝子。

 そして、まだ名前さえ知らないもう一人の女。

 潤の夏が、動き始めた。



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