里美
翌朝、潤が目を覚ましたのは八時を過ぎてからだった。
夏休みになって、早くも生活が崩れ始めている。
階下へ降りると、祖母が呆れた顔をした。
「よう寝るなあ」
「休みやもん」
「休みいうのは、一日を短くするためにあるんと違うよ」
「朝から難しいこと言わんといて」
冷蔵庫を開ける。
「ご飯は?」
「とっくに終わった」
「俺の分」
「そこ」
食卓にはラップをかけた皿が置いてあった。
目玉焼きとハム。
味噌汁は鍋に残っている。
結局ちゃんと用意してくれている。
「ありがとう」
「聞こえへんなあ」
「ありがとうございます」
「よろしい」
祖母は満足そうに新聞へ目を戻した。
潤は味噌汁を温めながら、昨夜のことを思い出した。
ライカのシャッター。
勝手に切れたような気がした。
でも、たぶん自分の指が触れただけだろう。
それより今日は、父親に見せる旅行計画を作らなければならない。
宇佐。
安心院。
そう考えただけで少し気持ちが弾んだ。
食事を終えて部屋へ戻ろうとしたところで、玄関から声がした。
「おはようございまーす」
聞き慣れた声。
「おはよう、里美ちゃん」
祖母の声が急に明るくなる。
潤は嫌な予感がした。
予感は当たった。
里美が居間へ入ってきた。
「おはよう」
「何しに来た」
「ひどい」
「朝から電話もなしで」
「もう九時前だよ」
「俺にとっては朝や」
「さっき起きたの?」
「八時」
「十分遅い」
里美は祖母を見る。
「おばあちゃん、潤、夏休みになったら駄目ですね」
「ほんまやろ」
「何で二人で組むねん」
「日ごろの行いや」
祖母が笑う。
潤はさっさと二階へ逃げることにした。
ところが里美もついてきた。
「何やねん」
「旅行の計画するんでしょ?」
「何で知ってる」
「昨日言ってたじゃない」
「来るとは聞いてへん」
「暇だから」
「俺は忙しい」
「手伝ってあげる」
「いらん」
「じゃ帰る」
「……好きにしたら」
「じゃ手伝う」
「何でそうなる」
里美は笑った。
*
潤の部屋の床に道路地図を広げた。
里美は正座して覗き込んでいる。
「京都からずっとカブで行くんじゃないんだ」
「しんどいやろ。神戸から船」
「ここ?」
「たぶん」
潤は神戸を指差した。
「それで別府」
「船で一晩?」
「そうなると思う」
「いいなあ」
「何が?」
「船」
「乗ったことない?」
「大きいのはない」
里美は地図の上を指でなぞった。
「別府から宇佐まで、そんなに遠くないんだね」
「地図ではな」
「安心院は?」
「この辺」
「山だ」
「じいちゃんが寄ってみろって」
「どうして?」
「昭吾朗さんが行ったことあるらしい」
「例の女の子?」
「分からん」
「会えるといいね」
「誰に」
「その女の子」
「生きてても六十とか七十やぞ」
「分かってるよ」
里美は少し笑った。
「でも会えたら、昭吾朗さんのこと聞けるじゃない」
「まあな」
「名前も分かるかもしれないし」
「うん」
「……楽しみ?」
「何が」
「その人を探すの」
潤は里美を見る。
また妙な顔をしている。
「何でそんな聞き方するん」
「別に」
「昨日から変やで」
「変じゃない」
「変や」
「変じゃありません」
里美は地図に目を戻した。
潤はしばらく考えた。
そして、ようやく一つ思い当たった。
「もしかして」
「何?」
「写真の女の人に焼きもち焼いてる?」
里美の顔が一瞬で赤くなった。
「はあ?」
「いや、だって」
「何言ってるの!」
「違うん?」
「当たり前でしょ! 何十年前の人に焼きもち焼いてどうするの!」
「そらそうやな」
「馬鹿!」
地図の端で肩を叩かれた。
「痛い」
「知らない」
「昨日もそれ言うた」
「潤が馬鹿だから」
「何やねん」
里美は完全にそっぽを向いた。
潤は首をひねる。
本当に分からない。
昔から、里美はときどきこうなる。
何かを怒っているのは分かる。
だが、何を怒っているのか分からない。
聞くとさらに怒る。
だから放っておく。
すると、それも怒られる。
難しい。
*
「ねえ」
しばらくして、里美の機嫌が少し直った。
「ん?」
「本当に一人で行くの?」
「そのつもり」
「怖くない?」
「何が?」
「知らないところだよ」
「だから行くんやろ」
「ふうん」
「里美もどっか行ったらええやん」
「一人で?」
「友達と」
「潤は?」
「俺は九州」
「そうじゃなくて」
「何?」
里美は何か言いかけて、やめた。
「もういい」
「またそれか」
潤は地図に書き込みを続けた。
神戸。
フェリー。
別府。
宇佐。
安心院。
往復の日数を考える。
「三泊か四泊かな」
「そんなに?」
「船で二晩やから」
「家にいないんだ」
「旅行やからな」
「……そっか」
妙に寂しそうな声だった。
潤はペンを止めた。
「何?」
「何でもない」
「さっきから何でもないばっかりやな」
「潤には分からないよ」
「言わな分からん」
「言っても分からない」
「理不尽や」
里美は小さく笑った。
「じゃあ、お土産買ってきて」
「何がええ?」
「何でも」
「それ一番困るやつ」
「じゃあ、かわいいもの」
「もっと困る」
「私が喜びそうなもの」
「さらに困る」
「考えて」
「面倒くさ」
また叩かれた。
*
昼近くになって、二人は外へ出た。
潤はカブを庭から押し出す。
「どこ行くの?」
「フェリーの時間調べに」
「私も行く」
「自転車?」
「うん」
「暑いぞ」
「分かってる」
里美は隣の自宅へ戻り、自転車を引いてきた。
潤がカブのエンジンをかける。
里美が横で自転車に跨る。
「ずるい」
「何が」
「そっちだけエンジンついてる」
「自転車やから当たり前や」
「ゆっくり走ってよ」
「分かってる」
二人で走り出した。
潤はアクセルをほとんど開けず、里美の自転車に合わせる。
「もっとゆっくり!」
「これ以上遅かったら倒れる!」
「じゃあ先行って!」
「言われんでも!」
少し先まで走って停まる。
里美が追いつく。
「ずるい」
「だから何がや」
「楽そう」
「免許取ったらええやん」
何気なく言った。
里美が潤を見る。
「免許?」
「原付」
「私が?」
「うん」
「取れるの?」
「十六やから取れるやろ」
里美はしばらく黙った。
そして潤のカブを見る。
「……ふうん」
「何?」
「別に」
またその言葉だった。
潤は気にせず走り出した。
里美も自転車を漕ぐ。
そのとき潤は知らなかった。
自分が何気なく口にしたその一言を、里美がずっと覚えていることを。
*
帰り道、二人は川沿いで休んだ。
木陰にカブと自転車を停める。
里美は額の汗を拭った。
「暑い」
「だから言うたやろ」
「カブだったら涼しい?」
「走ってる間は」
「いいなあ」
自動販売機でジュースを買う。
里美は瓶を両手で持ったまま、川を眺めていた。
「潤」
「ん?」
「九州行ったら、ちゃんと帰ってきてね」
「何やそれ」
「いいから」
「帰ってくるよ」
「絶対?」
「当たり前やろ」
「事故しないでね」
「分かった」
「無茶しないで」
「分かったって」
「知らない人についていかないで」
「子供か」
「女の人でも」
「そこか」
潤が笑う。
里美は笑わなかった。
「何や、本気?」
「……半分」
「半分かい」
ようやく里美も笑った。
潤は瓶のジュースを飲んだ。
夏の川面が眩しい。
隣に里美がいる。
いつもと同じ夏だった。
だから潤は気づかなかった。
自分が宇佐へ行くことで、その「いつも」が少しずつ変わり始めることに。
そして里美もまだ知らなかった。
潤を追いかけるために、自分が本当にバイクの免許を取ることになるとは。




