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昭吾朗大叔父

 宇佐へ行く。

 その思いつきは、家に帰るころにはずいぶん現実味を帯びていた。

 潤はカブを庭に入れ、エンジンを止めた。

 急に蝉の声が戻ってくる。

「ただいま」

「おかえり」

 台所から祖母の声がした。

「カメラ、どうやった?」

「使えるって」

「ほんまに?」

「フィルムも入れてもろた」

 潤は首から下げたライカを持ち上げてみせた。

「高いもんなんやろ。落とさんようにし」

「それ、みんな言うな」

「みんな?」

「カメラ屋のおっちゃん」

 冷蔵庫を開け、麦茶を取り出す。

 コップに注いで一気に飲んだ。

「ばあちゃん」

「何?」

「宇佐って行ったことある?」

 包丁の音が止まった。

「大分の?」

「うん」

「ないよ」

「昭吾朗さんがいたところ」

「ああ」

 祖母はまた野菜を切り始めた。

「行くん?」

「まだ決めてへん」

「その顔は行く顔や」

「どんな顔やねん」

「おじいちゃんに似て、思いついたら止まらん顔」

「じいちゃん、そんな人なん?」

「若いころはな」

 意外だった。

 今の祖父からは想像できない。

「カブで行けるかな」

「大分まで?」

「うん」

「知らんよ。私はバイク乗らへんもん」

「神戸から船あるやろ」

「あるやろけど」

 祖母が振り返った。

「一人で?」

「たぶん」

「里美ちゃんは?」

「何で里美が出てくるん」

「いつも一緒やん」

「旅行まで一緒とは限らんやろ」

「ふうん」

 何だ、その返事は。

 潤は麦茶をもう一杯注いだ。

     *

 夕方、潤は自分の部屋で道路地図を広げた。

 京都から神戸。

 神戸から船で別府。

 別府から宇佐。

 地図の上を指でたどる。

「行けるな」

 問題は金だった。

 財布を開ける。

 夏休みに使うつもりで貯めていた金はある。

 ガソリン代。

 フェリー代。

 食費。

 宿泊費。

 高校生の財布には、それなりに大きな出費になる。

 だが、何週間も旅行するわけではない。

 安い宿を使えば何とかなる気がした。

 机の上にはライカがある。

 その横にアルバム。

 潤はまた例の写真を開いた。

 昭吾朗と女学生。

 写真の中では二人とも笑っている。

 この女学生は誰なのだろう。

 なぜ昭吾朗の写真と一緒に、これほど何枚も残っているのだろう。

 宇佐まで行ったところで分かる保証などない。

 三十年も前の話だ。

 昭吾朗を知っている人が今もいるかどうかさえ分からない。

 そもそも、どこへ行けばいいのかも分からない。

 それでも――。

 行ってみたい。

 潤自身、なぜそこまで気になるのか説明できなかった。

「潤ー」

 階下から母の声。

「電話ー」

「誰?」

「里美ちゃん」

 潤は階段を下りた。

 廊下の黒電話の受話器を取る。

「もしもし」

『何してた?』

「地図見てた」

『どこの?』

「九州」

 少し間があった。

『九州?』

「うん」

『何で?』

「宇佐に行こうかなと思って」

『宇佐って、大分の?』

「知ってるん?」

『宇佐神宮くらい知ってるよ』

「俺もそれしか知らん」

『何しに行くの?』

「昨日の写真あったやろ」

『ああ、あのかわいい女の子』

 妙に「かわいい」を強調した。

「まだ言うてんのか」

『別に』

「昭吾朗さん、宇佐にいたらしいんや」

『へえ』

「写真も宇佐で撮ったみたいで」

『それで?』

「行ってみようかなって」

 電話の向こうが静かになった。

「里美?」

『一人で?』

「うん」

『カブで?』

「神戸から別府は船」

『そうじゃなくて』

「何?」

『……何でもない』

 声が少し不機嫌になった。

 潤には理由が分からない。

『いつ行くの?』

「まだ決めてない。親にも言ってへんし」

『反対されるんじゃない?』

「どうやろ」

『うちだったら絶対反対される』

「里美は女の子やからやろ」

『何それ』

「いや、普通に」

『潤だって高校生じゃない』

「そうやけど」

『事故したらどうするの』

「気をつける」

『カブ壊れたら?』

「直す」

『雨降ったら?』

「カッパ着る」

『道に迷ったら?』

「人に聞く」

『……もう』

「何やねん」

『知らない』

 電話が切れた。

 潤は受話器を見た。

「何やねん、ほんま」

 横を通った祖母が笑った。

「怒らせたん?」

「知らん。勝手に怒った」

「女の子にそれ言うたらあかんよ」

「何を?」

「『勝手に怒った』」

「本人には言うてへん」

「同じことや」

 何が同じなのか分からなかった。

     *

 夕食のとき、潤は宇佐へ行きたいと話した。

 予想通り、母が最初に反対した。

「一人で九州?」

「神戸から船やで」

「そういう問題じゃないでしょう」

「何日も行かへんよ」

「バイクでしょ?」

「カブ」

「同じです」

「全然違う」

「事故したらどうするの」

 さっき里美にも同じことを言われた。

「気をつける」

「気をつけて事故しないなら、世の中に事故なんかありません」

 これも正論だった。

 今日は正論ばかり飛んでくる。

 父は黙ってビールを飲んでいた。

「父さんからも何か言って」

 母に振られて、父が潤を見る。

「何で宇佐なんや?」

 潤は説明した。

 蔵からライカを見つけたこと。

 昭吾朗が宇佐にいたらしいこと。

 アルバムに宇佐で撮られたらしい写真があったこと。

「それを調べに?」

「調べるいうほど大げさやないけど」

「誰か訪ねる当てはあるんか」

「ない」

「ないんかい」

「行ったら何か分かるかなって」

 父はビールを一口飲んだ。

「まあ、夏休みやしな」

「あなた」

「いや、行かせるとは言うてへん」

 父は潤を見る。

「計画立ててみ」

「計画?」

「フェリーの時間。泊まるところ。金。何日で帰るか。全部調べろ」

「それ出したら行ってええ?」

「見てから決める」

「分かった」

 母は不満そうだった。

 祖父は黙って食事をしていた。

 話が一段落したところで、ぽつりと言った。

「宇佐まで行くんやったら」

 潤が見る。

「安心院にも寄ってみたらええ」

「あじむ?」

 聞き慣れない地名だった。

「安心院って書く」

「何で?」

「昭吾朗が行ったことがあるらしい」

「何しに?」

「知らん」

 また知らない。

 だが今度は、潤も笑わなかった。

「どこにあるん?」

「宇佐から山の方や」

「そこに何かある?」

「さあな」

 祖父は箸を置いた。

「ただ昔、昭吾朗から来た手紙に、安心院いう地名が書いてあったのを覚えてる」

「手紙、残ってへんの?」

「ないと思う」

「何て書いてあった?」

「そこまでは覚えてへん」

「女の人のこととか?」

「知らん」

 祖父は少し考えた。

「ただ……」

「ただ?」

「えらい楽しそうな手紙やった気がする」

 潤はアルバムの女学生を思い出した。

 昭吾朗の隣で笑っていた少女。

「その人と関係あるんかな」

「さあな」

 祖父はそれ以上言わなかった。

     *

 その夜。

 潤は布団に入っても眠れなかった。

 窓は開けてある。

 網戸の向こうから、夏の夜の音が聞こえる。

 遠くを走る車。

 虫の声。

 時折、風が入る。

 机の上にはライカ。

 暗闇の中で、金属の一部が月明かりを反射していた。

 宇佐。

 安心院。

 昭吾朗。

 名前の分からない女学生。

 ただの好奇心だったはずなのに、少しずつ何かに引っ張られているような気がする。

 潤は起き上がった。

 ライカを手に取る。

 暗い部屋の中でファインダーを覗いてみた。

 何も見えない。

「当たり前か」

 苦笑して、カメラを置こうとした。

 そのとき。

 ――カシャ。

 小さな音がした。

 潤の手が止まった。

「……え?」

 ライカを見る。

 シャッターを押した覚えはない。

 いや。

 指が触れたのかもしれない。

 古い機械だ。

 何かの拍子に動くこともあるだろう。

「もったいな」

 フィルムを一枚無駄にした。

 それだけだ。

 潤はライカを机に戻した。

 布団に入る。

 しばらくして眠りについた。

 翌朝には、その小さな出来事のことなどほとんど忘れていた。

 ただ、ライカのフィルムには確かに一枚、

 潤が何も撮った覚えのないコマが残った。



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