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写真の中の青年

 その日の夕食が終わっても、潤はライカのことが気になっていた。

 食卓を片づける祖母の横で、何度もカメラを手に取っては眺める。

「壊さんといてや」

「触ってるだけや」

「古いもんやからな」

「これ、まだ写るんかな」

「さあ。私に聞かれても分からんよ」

 革ケースから取り出し、底を見たり、上から覗いたりする。

 父親の一眼レフなら触ったことがあるが、これは勝手が違った。

 レンズの周囲には数字がびっしり並び、上部にも小さなダイヤルがある。シャッターボタンらしいものを押してみたが、動かなかった。

「壊れてる?」

「知らんて」

「昭吾朗さん、これで写真撮ってたんやろ?」

「そう聞いてるけど」

 祖母は湯呑みに茶を注いだ。

「じいちゃんは?」

「お風呂」

「じいちゃんなら詳しいかな」

「本人の弟なんやから、私よりは知ってるやろ」

 潤はライカを机に置き、アルバムを開いた。

 昼間に里美と見たページだ。

 軍服姿の昭吾朗。

 その横で笑う三つ編みの少女。

 見れば見るほど、戦争中に撮られた写真という感じがしない。

 二人とも若い。

 当たり前のことなのだが、それが妙に気になった。

 教科書に出てくる戦争の写真では、人々はたいてい深刻な顔をしている。

 兵隊は整列し、学生はもんぺ姿で働き、町は焼けている。

 けれど、この写真の二人は笑っていた。

 戦争中でも、人は笑っていたのだ。

 そんな当たり前のことを、潤は初めて実感した。

「何見てるんや」

 風呂から上がった祖父が居間へ入ってきた。

「あ、じいちゃん。これ」

 潤がアルバムを向ける。

 祖父は眼鏡をかけ直した。

 そして写真を見た。

「……懐かしいもん出してきたな」

「この人、じいちゃんの弟?」

「そうや。昭吾朗や」

「飛行機乗りだったん?」

「ああ」

 祖父は潤の向かいに座った。

「海軍の?」

「そうや」

「どこにいたん?」

 祖父は少し考えた。

「宇佐におったことがある」

「宇佐?」

「大分や」

「九州?」

「そう」

 潤は地理を頭の中で思い浮かべた。

 大分県なら分かる。

 別府や大分市も分かる。

 けれど宇佐という地名は、宇佐神宮くらいしか知らなかった。

「海軍の飛行場があったん?」

「あった。大きな航空隊やったそうや」

「へえ」

「私は行ったことないけどな」

 祖父は写真を指差した。

「昭吾朗は家におらんことの方が多かった。私も子供やったし、詳しいことまでは知らん」

「何の飛行機に乗ってたん?」

「そこまでは覚えてへんなあ」

「沖縄で死んだって、ばあちゃんが」

 祖父の指が止まった。

「ああ」

 短い返事だった。

 潤は、それ以上聞いていいものか迷った。

 祖父にとっては実の弟だ。

 戦争が終わって三十年近く経っているとはいえ、死んだ人が戻ってくるわけではない。

「この女の人は?」

 潤は話題を変えた。

 三つ編みの少女を指す。

 祖父は写真に顔を近づけた。

「さあ」

「知らんの?」

「顔は見たことあるような気もするけど……」

「昭吾朗さんの彼女とか?」

「昔はそんな言い方せん」

「じゃあ恋人」

「ませたこと言うな」

「俺じゃなくて昭吾朗さんの話や」

 祖父が笑った。

「どうやったかな。そういう人がおったという話は、聞いたような気もする」

「名前は?」

「覚えてへん」

「何や、肝心なところ全部知らんやん」

「五十年近く前の話やぞ」

「三十年くらいやろ」

「昭吾朗が家を出たころから数えたら、それくらいや」

「ああ、そっか」

 昭吾朗が生きていたころ、祖父はまだ少年だった。

 弟ではなく兄だったらしい。

 潤は家族関係を頭の中で組み直した。

「じいちゃんより昭吾朗さんの方が年上?」

「いや、私の弟や」

「じゃあ、じいちゃんも結構大きかったんじゃ」

「昭吾朗が死んだころにはな」

「だったらもうちょっと覚えててもよさそうやけど」

「お前なあ」

 祖父が苦笑した。

「兄弟いうても、何でも知ってるわけやない」

「そんなもん?」

「そんなもんや」

 祖父はライカを手に取った。

「これも昭吾朗がどこで手に入れたんか、私は知らん」

「高かったんちゃう?」

「そら高かったやろ。外国のカメラや」

「ドイツ?」

「たしかな」

 祖父はカメラを何度か動かした。

「巻き上げてへんのと違うか」

「巻き上げ?」

「ここや」

 上部の部品を操作する。

 かちり、と小さな音がした。

「押してみ」

 潤がシャッターボタンを押した。

 ――カシャ。

「あっ」

 驚くほど小さな音だった。

「動いた」

「機械は使わんでも案外動くもんや」

「すげえ」

 もう一度やってみる。

 巻き上げる。

 押す。

 カシャ。

 何十年も蔵の中に眠っていたとは思えない。

「フィルム入れたら撮れるかな」

「カメラ屋へ持っていって見てもろたらええ」

「そうする」

 潤はライカを両手で持った。

 ファインダーを覗く。

 四角い小さな窓の中に、居間が見えた。

 祖父。

 祖母。

 ちゃぶ台。

 扇風機。

 テレビ。

 見慣れた家の中が、四角い枠に切り取られるだけで少し違って見える。

 潤はカメラを祖父へ向けた。

「撮るなよ」

「フィルム入ってへん」

「そういう問題やない」

 祖父が手で顔を隠す。

「じいちゃん、写真嫌いなん?」

「好きやない」

「昭吾朗さんとは正反対やな」

「かもしれんな」

 潤は笑いながらカメラを下ろした。

 そのとき、祖父がぽつりと言った。

「あいつは、よう写真撮っとった」

「昭吾朗さん?」

「ああ。何でも撮るんや。家とか、道とか、人とか」

「へえ」

「しょうもないもんばっかりな」

「今残ってるなら、しょうもなくないやん」

 祖父が潤を見た。

 少し意外そうな顔だった。

「……そうかもしれんな」

 祖父はアルバムを引き寄せた。

 ページをゆっくりめくる。

「この辺は昭吾朗が撮ったんやろ」

「本人が写ってへんしな」

「これは京都駅かな」

「今と全然違う」

「当たり前や」

 市電。

 木造の家。

 着物姿の女性。

 学生帽をかぶった少年。

 川辺で遊ぶ子供。

 名所でも何でもない写真が続く。

 潤には、それが面白かった。

 歴史の本には載らない風景だった。

 昭吾朗が見ていた日常。

 そしてページをめくると、またあの少女が現れた。

 今度は一人だった。

 川のそばに立っている。

 三つ編み。

 白いブラウス。

 紺色らしいスカート。

 もちろん白黒写真だから、本当の色は分からない。

 少女はカメラを見て、少し困ったように笑っている。

 潤は写真の下を見た。

 文字はない。

「やっぱり、この人の写真多いな」

「そうやな」

「恋人やろ、絶対」

「知らん」

「じいちゃん、興味なかったん?」

「弟の色恋に興味持つ兄貴がおるか」

「まあ、そうか」

 祖父はアルバムを閉じようとした。

「あ、待って」

 潤が止める。

 少女の写真の端に、何か写っていた。

 看板のようなものだった。

 文字がぼやけている。

 潤はアルバムを電灯の下へ持っていった。

「何や?」

「ここ」

 目を凝らす。

 全部は読めない。

 けれど、二文字だけ分かった。

「……宇佐?」

 祖父も覗き込んだ。

「そう見えるな」

「この人も大分にいたんかな」

「かもしれんな」

 宇佐。

 昭吾朗がいた場所。

 名前の分からない少女。

 ライカ。

 潤の中で、それまでばらばらだったものが、ほんの少しだけつながった。

     *

 翌日の昼過ぎ。

 潤はカブを走らせていた。

 後ろの荷台にはライカの入った革ケース。

 向かうのは、以前父親について行ったことのある町のカメラ店だった。

 店内は涼しかった。

「こんにちは」

「いらっしゃい」

 眼鏡をかけた店主が新聞から顔を上げる。

 潤は革ケースをカウンターに置いた。

「これ、見てもらえます?」

「修理?」

「いや、使えるかどうか分からんくて」

 店主がケースを開けた。

 表情が変わる。

「ほう」

「ライカですよね」

「そうやな」

 店主はカメラを持ち上げた。

 巻き上げる。

 シャッターを切る。

 速度を変える。

 また切る。

「古いな」

「戦争前か戦争中のものらしいです」

「なるほど」

 裏蓋を開け、内部を見る。

 レンズも確認する。

「きれいに使ってある」

「写ります?」

「ちゃんと整備した方がええけどな。遊びで撮るくらいなら、一回フィルム入れてみてもええんと違うか」

「フィルムあります?」

「あるよ」

 店主は棚から一本取り出した。

「入れ方分かる?」

「分かりません」

「やろな」

 笑われた。

 店主に教えてもらいながらフィルムを装填する。

 今のカメラのように蓋を開けて簡単に入れるわけではない。

「面倒くさいですね」

「昔のカメラやからな」

「昭吾朗さん、毎回こんなんしてたんか」

「誰?」

「あ、これ使ってた人です」

 店主は頷いた。

「大事にしてたんやろな」

 カメラを返してくれた。

 ずしりとした重さ。

 昨日までただの古道具だったものが、急に生き返ったような気がした。

 店を出る。

 夏の日差しが眩しい。

 潤はカブの横に立ち、ライカを構えた。

 最初の一枚。

 何を撮ろう。

 少し考えて、自分のカブへレンズを向けた。

「これでええか」

 ピントを合わせる。

 シャッターを切る。

 ――カシャ。

 小さな音。

 昭吾朗も、この音を聞いていた。

 そう考えると不思議だった。

 潤はライカを首から下げ、カブに跨った。

 エンジンをかける。

 家へ帰ろうとして――やめた。

 少し走りたくなった。

 理由はない。

 夏休みなのだ。

 急いで帰る必要もない。

 カブは京都の町を抜けていく。

 信号で止まり、また走る。

 古い家並み。

 市電。

 商店。

 自転車。

 歩く人々。

 昨日見たアルバムの写真と、今目の前にある町が、ときどき重なって見えた。

 三十年前、昭吾朗もこの町を歩いていた。

 ライカを持って。

 同じ夏の光を見ていた。

 そして、あの少女を撮った。

 名前も知らない少女。

 宇佐。

 大分。

 潤は赤信号で停まった。

 青空を見上げる。

「宇佐か……」

 カブなら、行けない距離ではない。

 もちろん遠い。

 京都から九州だ。

 けれど、夏休みはまだ始まったばかりだった。

 信号が青になった。

 潤はアクセルを開けた。

 その考えはまだ、ほんの思いつきにすぎなかった。


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