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蔵の中のカメラ

 夏休みに入って三日目、榊原潤は朝から祖母に捕まった。

「潤、暇やろ」

「暇じゃない」

「高校生が朝から寝転んで漫画読んでて、何が忙しいんや」

 正論だった。

 潤は畳の上に腹ばいになったまま、顔だけを上げた。

 開け放した縁側から、朝だというのに生ぬるい風が入ってくる。庭では蝉が鳴いていた。まだ午前九時にもなっていないというのに、今日も暑くなりそうだった。

 昭和四十九年、七月。

 京都の夏は、今年も容赦がなかった。

「蔵の中、ちょっと片づけてほしいんや」

「こんな日に?」

「こんな日やからや。雨の日に蔵開けられへんやろ」

「もっと涼しくなってからでええやん」

「涼しくなったら、あんた忘れるやろ」

 それも正論だった。

 祖母に勝てる気がしない。

 潤は漫画を閉じ、扇風機の前でもう一度だけ涼しい風を浴びてから立ち上がった。

「何を片づけるん?」

「いらんもんと、いるもん分けるだけでええ。勝手に捨てたらあかんで」

「片づけにならんやん」

「口動かさんと手ぇ動かし」

「はいはい」

 返事をすると、

「はいは一回」

 背中から飛んできた。

 潤は苦笑して庭へ出た。

 母屋の裏手に、小さな蔵がある。

 蔵といっても、時代劇に出てくるような立派なものではない。白い漆喰の壁はところどころ薄汚れ、木の扉も黒ずんでいる。何十年も前から、使わなくなった道具や古い布団、誰のものか分からない箱などを放り込んである場所だった。

 潤も小さいころ、何度か入ったことがある。

 暗くて、埃っぽくて、妙な匂いがする。

 子供のころには何かが潜んでいそうで怖かったが、高校生にもなれば、ただの物置である。

 重い扉を開ける。

 むっとした空気が流れ出した。

「暑っ」

 思わず声が出る。

 外より暑いんじゃないかと思うほどだった。

 裸電球をつけると、薄暗い蔵の中に積み上げられた箱が浮かんだ。

 潤は入口近くから手をつけた。

 古い鍋。

 欠けた茶碗。

 何に使ったのか分からない木箱。

 新聞紙に包まれた徳利。

 祖父のものらしい古い釣り道具。

 箱を開けるたびに埃が舞う。

「なんでこんなん取っとくんや」

 独り言を言いながら、それでも祖母から「捨てるな」と言われているので、一つずつ外へ運んでいく。

 三十分もすると、額から汗が流れ始めた。

 もうやめよう。

 そう思ったときだった。

 奥の棚の下に、小さな木箱が見えた。

 ほかの箱とは違っていた。

 桐の箱だった。

 表面はすっかりくすんでいるが、蓋はきちんと閉じられている。

 何だろう。

 潤はしゃがみ込み、箱を引っ張り出した。

 思ったより重い。

 埃を手で払って、蓋を開けた。

 中から古い革の匂いがした。

「……カメラ?」

 茶色い革ケースが入っていた。

 取り出してみる。

 硬くなった革の留め具を外すと、銀色と黒の小さなカメラが現れた。

 潤にも、それが普通のカメラではないことくらいは分かった。

 父親が使っている一眼レフとは全然違う。

 小さくて、ずっしり重い。

 金属の塊のようだった。

 上部には見慣れない文字が刻まれている。

 潤は埃を指で拭った。

 筆記体の文字が現れた。

 Leica

「ライカ……?」

 名前くらいは聞いたことがあった。

 確か外国の、有名なカメラだったはずだ。

 どうしてこんなものが家の蔵にあるのだろう。

 潤はカメラを持って母屋へ戻った。

「ばあちゃん」

「もう終わったん?」

「終わってへん。これ、何?」

 台所にいた祖母が振り返った。

 潤の手元を見る。

 その表情が変わった。

「あら……」

 祖母は濡れた手を前掛けで拭いた。

「まだあったんやねえ」

「知ってるん?」

「そら知ってるよ」

 祖母はカメラを受け取った。

 さっきまでの威勢のいい声が、少しだけ静かになった。

 手の中でライカを眺める。

「これ、昭吾朗のや」

「しょうごろう?」

「おじいちゃんの弟」

「じいちゃん、弟いたん?」

 祖母が潤を見る。

「……あんた、知らんかった?」

「初めて聞いた」

「そうか」

 祖母はそれ以上何も言わず、しばらくライカを見ていた。

 潤は妙な気持ちになった。

 祖父に弟がいた。

 それだけなら別に不思議ではない。

 けれど、今まで一度も聞いたことがない。

「その人、今どこにいるん?」

 祖母の指が止まった。

「沖縄で死んだよ」

「え?」

「戦争でな」

 蝉の声が、急に大きく聞こえた。

「海軍やった。飛行機乗りや」

 祖母はライカを潤へ返した。

「若かったんよ」

「何歳?」

「さあ……二十歳そこそこやったんと違うかな」

 潤は手の中のカメラを見た。

 二十歳そこそこ。

 自分より、ほんの数歳上だ。

 戦争と聞けば、歴史の教科書に載っている出来事だった。

 白黒写真の兵隊。

 地図に描かれた矢印。

 何年何月、どこで何が起きた。

 試験のために覚えるもの。

 けれど、その戦争で死んだ人間が、このカメラを触っていた。

 そう思った瞬間、少しだけ距離が縮まった。

「これ、昭吾朗さんが使ってたん?」

「そうやと思うよ。写真が好きやったらしいから」

「へえ……」

「蔵にアルバムもあるはずやけどな」

「アルバム?」

「一緒に入ってなかった?」

「なかった」

「ほな、どっか別の箱やろ」

 祖母はまた台所仕事に戻った。

「片づけの続きしてき」

「はいはい」

「はいは一回」

「はい」

 潤はライカを持ったまま、もう一度蔵へ戻った。

 さっきまでただ暑くて埃っぽいだけだった蔵が、少し違って見えた。

 棚を探す。

 昭吾朗。

 祖父の弟。

 海軍。

 飛行機乗り。

 沖縄で戦死。

 そして、ライカ。

 古い箱をいくつか動かすと、その下から平たい包みが出てきた。

 新聞紙は黄ばんでいた。

 開くと、黒い表紙のアルバムだった。

「あった」

 潤はその場に座り込んだ。

 表紙を開く。

 黒い台紙に、白黒写真が貼られている。

 家の前に立つ家族。

 学生服姿の少年。

 旅行先らしい風景。

 古い自転車。

 今とはまるで違う京都の町。

 ページをめくる。

 軍服姿の若い男がいた。

 帽子をかぶり、こちらを見て笑っている。

 写真の下に、白いインクで小さく文字が書かれていた。

 ――昭吾朗。

「この人か……」

 思っていたより普通の若者だった。

 軍人という言葉から想像していたような厳しい顔ではない。

 細身で、笑うと少し幼く見える。

 次の写真。

 飛行機の前に何人もの若者が並んでいる。

 その中にも昭吾朗がいた。

 さらにページをめくった。

 潤の手が止まった。

 一枚の写真。

 昭吾朗の隣に、女学生が立っている。

 三つ編みの少女だった。

 二人ともカメラを見ている。

 昭吾朗は少し照れたように笑っていた。

 少女も笑っている。

 恋人だったのだろうか。

 写真の下には何も書かれていない。

 潤は写真に顔を近づけた。

「誰やろ……」

 そのとき。

 蔵の外から声がした。

「潤ー!」

 女の声だった。

「いるー?」

 聞き慣れた声。

 潤はアルバムを閉じた。

「いる!」

 蔵から出ると、庭先に野間里美が立っていた。

 白い半袖のブラウスにスカート。

 黒い髪を三つ編みにしている。

 片手には紙袋を持っていた。

「何してんの、こんなとこで」

「蔵の片づけ」

「へえ。珍しい」

「ばあちゃんに捕まった」

「やっぱり」

 里美が笑った。

「おばちゃんがスイカ切ったから持ってけって」

「神」

「私じゃなくて、おばちゃんがね」

「分かってる」

 里美は潤の手にあるものに気づいた。

「何それ?」

「古いアルバム」

「見せて」

「埃だらけやで」

「いいよ」

 二人で縁側に座った。

 紙袋からスイカを出す。

 まだ冷たかった。

 潤はアルバムを開いた。

「これ、じいちゃんの弟らしい」

「へえ」

「戦争で死んだんやって」

 里美の表情が少し真面目になった。

「若いね」

「二十歳くらいやって」

「潤とあんまり変わらないじゃない」

「俺まだ十六」

「四年なんてすぐだよ」

「そうかな」

 ページをめくる。

 さっきの女学生の写真が出てきた。

 里美が覗き込んだ。

「かわいい」

「うん」

「……うん?」

 里美が潤を見る。

「何」

「いや別に」

「何やねん」

「潤って、こういう子が好きなんだ」

「なんでそうなる」

「かわいいって言った」

「写真見ての感想やろ」

「ふうん」

 里美はスイカを一口かじった。

 潤は横目で見る。

「何怒ってんの」

「怒ってない」

「怒ってるやん」

「怒ってません」

 昔からこうだった。

 家が近く、親同士も知り合いで、小さいころから一緒に遊んだ。

 中学生になっても、高校生になっても、それはあまり変わらなかった。

 周囲からは付き合っていると思われている。

 たぶん、間違ってはいない。

 けれど、いつから恋人になったのかと聞かれると、二人とも答えられなかった。

 告白した記憶もない。

 ただ、いつも一緒にいる。

 それだけだった。

「ところで」

 里美がアルバムから顔を上げた。

「今日は乗らないの?」

「何に」

「カブ」

「ああ」

 庭の端に、潤のスーパーカブが停めてある。

 高校へ入ってから免許を取り、貯めていた金と父親の援助で買った。

 速くはない。

 格好いい大型バイクでもない。

 それでも潤にとっては、自分の世界を一気に広げてくれた大切な乗り物だった。

「暑いしなあ」

「いつも乗ってるくせに」

「今日は蔵」

「真面目だ」

「強制労働」

 里美が笑う。

 潤もスイカを食べた。

 蝉が鳴いている。

 庭の向こうに夏の青空が見える。

 潤は何気なく、もう一度アルバムの写真を見た。

 昭吾朗と、名前の分からない女学生。

 二人の笑顔。

 そして自分の横には里美がいる。

 七月の午後。

 そのときの潤には、それらが一本の線でつながることなど想像もできなかった。

 ましてや、蔵の奥から見つけた一台の古いライカが、自分を海の向こうまで連れていくことになるなど――。

 知るはずもなかった。



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