大叔父さん
二人はしばらく、カブを押して歩いた。
エンジンをかければ帰れる。
けれど今は、川の音と風の音だけでよかった。
「潤」
「ん?」
「さっきの声、聞こえたよね」
「聞こえた」
「私だけじゃないよね」
「俺も聞いた」
里美は小さく息を吐いた。
*
「典子さんって、孝子さんだったのかな」
「分からん」
「昭吾朗さんを待ってたんでしょ」
「たぶん」
「潤を代わりにしたかった?」
「……そうかもしれん」
三十年。
十六歳の潤には想像もできない時間だった。
「昭吾朗大叔父は、孝子さんのこと忘れてへんかったんかな」
「忘れてないんじゃない?」
「何で分かる?」
「『孝子はこっちで幸せにする』って言ったでしょ」
潤は黙った。
待っていたのは孝子だけではなかったのかもしれない。
*
カブのところへ戻った。
潤が自分のカブを試す。
キック。
――ブルン。
一発。
「……何やねん」
もう一度止めて試す。
また一発。
里美が笑う。
「直ったね」
「壊れてへんかったんやろ」
「じゃあ何で潤のときだけ?」
「知らん」
潤はハンドルを軽く叩いた。
「ありがとう」
*
帰りは本来の二台。
潤のクリーム色。
里美の青。
信号で並ぶ。
「さっきから何回もミラー見てる」
「おるかなと思って」
「いるよ」
「うん」
「ちゃんといる」
*
家へ戻ると祖父母がいた。
潤と里美は今日あったことを話した。
カブ。
典子。
崖。
声。
祖父は一度も口を挟まなかった。
「最後に何て言った」
「『兄貴じゃない。俺だよ』って」
祖父の手が止まる。
「昭吾朗はな」
「うん」
「私のことをずっと『兄貴』って呼んどった」
部屋が静かになった。
*
「孝ちゃんのこと、知ってたん?」
「顔は知らん。詳しいことも知らん」
祖父は遠くを見る。
「ただ、昭吾朗に好きな娘がおるらしいとは聞いてた」
「何で前に言わへんかったん」
「確かな話やなかったからや」
祖父は少し笑った。
「沖縄へ行く前、一度だけ手紙が来た。帰ってきたら話したいことがあるって」
「それだけ?」
「それだけや。帰ってこんかったからな」
*
翌日。
祖父が蔵から古い封筒を見つけた。
昭吾朗の荷物の底に残っていたもの。
短い文章。
宇佐。
安心院。
そして孝子。
帰ったら、
孝子と一緒になりたい。
潤は長い間、その一文を見つめた。
「帰れへんかったんやな」
「うん」
「孝子さん、待ってた」
「そうやな」
*
潤は机の上のライカを見る。
「フィルム」
「何?」
「まだ現像してへん」
典子を撮ったフィルム。
三条京阪。
河原。
木陰。
「写真屋行ってくる」
潤はライカを手に取った。
今度こそ、
このカメラに何が残っているのか、
確かめたかった。




