安心院で
翌朝、潤はもう一度宇佐の町を歩いた。
戦争の痕跡は、三十年という時間の中に埋もれていた。
新しい家。
新しい道路。
田んぼ。
それでも年配の人に聞けば、飛行場の話が出てくる。
「ここら一帯、昔は航空隊やった」
慰霊碑の近くで会った老人が言った。
潤は昭吾朗の写真を見せた。
「名前までは分からんなあ」
「そうですか」
「若い人が大勢おったからな」
孝子の写真も見せる。
老人が少し考えた。
「孝ちゃんいう娘がおった話は聞いたことある」
「やっぱり」
「飛行機乗りを待っとった娘やろ」
それだけでも十分だった。
孝子は確かにここにいた。
昭吾朗もいた。
*
昼前、潤は宇佐を離れた。
次は安心院。
山へ向かう道をカブで走る。
空気が少し変わる。
町から離れ、田畑と山が増えた。
祖父はなぜ安心院へ寄れと言ったのだろう。
昭吾朗が行ったことがある。
ただそれだけ。
それでも今は、行ってみる価値があるように思えた。
*
夕方近く、安心院へ着いた。
今夜泊まるのは、旅行者が集まる簡素な宿だった。
カブを停め、荷物を下ろす。
「京都から?」
後ろから声がした。
振り返る。
若い女性が立っていた。
潤より少し年上。
白いワンピース姿で大学生くらいに見えた。
落ち着いた雰囲気だった。
「はい」
「カブで?」
「神戸から船ですけど」
「それでもすごいね」
女性は笑った。
「ここで働いてるんですか?」
潤が聞く。
「まあ、そんな感じ」
曖昧な答えだった。
*
受付を済ませたあとも、その女性は近くにいた。
潤の胸元のライカを見る。
「古いカメラ」
「分かります?」
「ライカでしょ」
「大叔父のなんです」
女性の表情が、ほんの一瞬止まった。
「大叔父さん?」
「戦争中、宇佐にいたらしくて」
「……そう」
声が少し小さくなった。
「俺、榊原潤」
「潤君」
女性は名前を繰り返した。
「私は徳田典子」
「徳田さん」
「典子でいいよ」
「いや、それはちょっと」
彼女が笑う。
「真面目なんだ」
「普通です」
*
その夜。
潤はまだ知らなかった。
目の前の徳田典子が、
これから自分の夏を大きく変えることを。




