伯爵様は特別ボーナス。
二人が連れ立っていなくなると。
ピアは空のグラスを飲み物担当の使用人に預けて、そのまま使用人室に向かった。
中には誰もおらず、ヴェールを上げた後、無駄になった湯冷しのグラスを自分で飲み干して、ホッと一息つく。
客に持ってきた飲み物に手をつけるのはちょっとルール違反気味だけれど、流石に喉が渇いたし、グラスは間違って持ってきてしまったことにしたらいいだろう。
どうせ一度誰かが手にしたグラスの中身は捨ててしまうし、生水を沸かすのも燃料代が掛かっているのだ。
どうしても『勿体無い』と感じてしまうのである。
その辺りは、貧乏育ち故の悲しい性だ。
しばらくしてから、家令の伝言を預かった使用人が呼びに来た。
思ったよりは早かったので、大した用ではなかったのかもしれない。
そう思いつつ、ピアは部屋を出てフォルト卿の元に向かったのだけれど……。
―――どう見ても、様子がおかしいわね。
フォルト卿は元通り、柱の陰の椅子に座っていたが……顔が明らかに火照っていて、どうやら耳まで赤い。
肌が白いので、そうした変化がよく目立った。
目も、涼やかで聡明な色を浮かべた澄んだ紫だったはずなのに、どこかとろんとしている。
姿勢こそ保とうとしているようだけれど、先ほどまでとは違い、背もたれに背中が軽く当たっていた。
―――お酒、もしかして弱いのかしら?
しかし、先ほどまで特に何もなく話をしていて肌色も普通だったのに、一気に酔いが回るなんてことがあるだろうか。
あるいは、パーティー参加当初から具合が悪く、お酒がトドメになった可能性もあるけれど。
「フォルト卿、どうなさいましたか? お加減が悪そうですが」
あまりにも急激な変化に、ピアは少々訝しみつつ、そう問いかけた。
ピアは、お手製の酔い止めや解熱剤などをポケットの中に常備している。
薬は買うと高いので、男爵家の菜園では薬草も育てており、そうした知識の方が貴族社会の諸々よりも詳しいくらいなのだ。
「ああ、すまない……いや、具合が悪いわけではないのだが、どうも、侯爵と会う少し前から急に暑くなってな……」
「では、涼まれますか?」
お屋敷には、秘密の部屋だけでなく、当然ながら来賓の休憩室もある。
「お手を失礼致します」
時期的には、今はそこまで暑くも寒くもないのだけれど、と思いつつ、一人で立つのは辛そうな様子なので、手に触れる。
やはり熱い。
と、同時に、スッと鼻に、お酒とは別の甘い匂いが香り、ピアは息を呑んだ。
―――え、嘘。
香り自体は、特別なものではなかった。
カカウと呼ばれる木から取れる苦い実の香りであり、ピア自身はあまり食したことはないけれど、貴族社会では飲み物やお菓子などにも使われるごく一般的なものだ。
―――でも、この香りでこの症状って、もしかして……。
カカウの実は、普通に加工するだけなら特に害がない。
けれどこの実には、菓子の他に薬としての用途もあった。
薬の中でも特に『魔薬』と呼ばれる、魔力を用いて精製する薬物の主要な材料の一つなのである。
―――【神の悪戯】。
惚れ薬……もっと正確に言うと、その中でも特に性欲に強く作用する媚薬の類いだ。
流石に作り方までは知らないけれど、症状や効能だけは知っている。
発熱、発汗、理性の薄れ、とピアが症状の一致を考えたところで、フォルト卿に強く手を握られ、熱っぽい視線を向けられる。
―――まずいわ。
このままだと、フォルト卿が理性を失った獣になる。
パーティーの場でそんな状態になったら、突然女性に……あるいは男色であれば男性に……襲いかかってもおかしくない。
「お部屋をご用意致します。それと、これをどうぞ」
ピアは『急がなければ』と思いつつ、常備している薬の中から、とりあえず一枚の葉っぱを差し出した。
「これは、ペルメント……か?」
「ええ。強めの清涼感を感じられるので、少し頭がスッキリすると思いますわ」
この手の薬物の影響を抜くのは、即座には無理である。
そもそも魔薬は、普通の薬よりも影響が強いし、解毒だけでなく解呪が必要になることもあった。
一般的な対処としては、大量の水を飲み、利尿や排泄促進作用のある解毒薬を口にして、水を絞った布で体を冷やすこと。
要は体に作用している薬の濃度を少しでも薄めて、体が安静な状態になるように保った上で、素早く体外に排出するのだ。
風邪同様、そのくらいしか対処法がない、とも言える。
優れた魔術士であれば、即座に影響を消す魔術なども使えるのかもしれないけれど。
今日この場で大々的に『フォルト卿が媚薬を盛られた』などと喧伝する訳にもいかないし、侯爵家でそんな魔術士を抱えているのかどうかも、ピアは知らなかった。
フォルト卿をとりあえず休ませ、その間にご当主様に報告しよう、と考えつつ、彼の手を引いた。
あいにく道中、人のいない場所で男手とは出会わず、侍女と話し込んでいる暇もなかったので、そのまま空いている休憩室に入った。
彼をベッドに腰掛けさせ、出て行かないように一応鍵を掛けて、ナイトテーブルの上に用意されていたペンと紙を示す。
「申し訳ございませんが、こちらに一応ご署名をお願い出来ますか?」
「サイン……?」
「ええ。お加減が悪い様子なので、治療に必要な同意を、念の為にしていただきたいのです」
記名欄は二つある。
朦朧とした様子で、片方の記入欄に震える字を署名したフォルト卿は、そのままベッドに倒れ込んだ。
ピアももう一枠にサラサラとサインして、利尿作用を含む解毒効果を持つ丸薬と、濡らした布を用意する。
そして、ナイトテーブルのベルで人を呼ぼう、とベッドに近づいた段階で……。
……伸ばした手を無理やり引かれて、そのままフォルト卿に馬乗りになられた。
「っ……!」
薄暗い灯りの中でピアが息苦しさを感じながら見上げると、彼の息がさらに荒くなり、目がギラギラと輝いている。
理性がほとんど残っていないことが、一目で分かった。
―――思った以上に薬の回りが早いわね……でも間に合ったから、よしとしましょう。
多分、お酒を口にしていたのも、回りが早い理由の一つだろう。
ピアは一瞬驚いたものの、特に恐怖は感じなかった。
昔、領地で災害が起こった時に目にした絶望に比べれば、理由や対処法が分かっているだけ、幾分かマシである。
「私を、抱かれますか?」
幸い片手は自由だったので、フォルト卿の頬をペシン、と軽く叩いて、ピアは彼の目を覗き込む。
すると、彼の目が僅かに理性の光を取り戻して、手に籠った力が緩んだ。
「す、まない……私は、何を……」
「いえ、そういう意味ではなく」
そもそも、悪しき影響を与える類いの魔薬は、意思一つで抗えるような生やさしい代物ではないのだと聞いている。
だから、彼が衆人環視の中で醜態を晒すような状況でないのなら、『間に合って』いるのだ。
というか、この段階で僅かなりとも理性を取り戻した辺り、フォルト卿の意思は鋼鉄のように強靭かもしれない。
「そんなにがっつかなくとも抵抗は致しませんし、一つお伝えしたいだけです」
ピアはニッコリと笑みを浮かべて、言葉を重ねる。
「口止め料は弾んで下さいね♪」
先ほどの同意書も、侯爵家のルールの一つだった。
治療の為のもの、と言ったが、説明として正確ではない。
あれは、性交渉の同意書なのである。
侍女を抱く場合、相手が貴族令嬢だと色々と家同士の問題がある。
それで子が出来た場合は家の血統に関わる問題にもなる為に、婚前の貴族令嬢には純潔が求められるのだ。
故に『交渉』がバレるとお互いに不利益となる為、基本的には秘匿される。
侯爵家ではこうした状況でお互いの同意を示すよう、休憩室で事に及ぶ際に、先ほどの同意書に署名するのだ。
そして立場が低い側に金銭かそれに準ずる対価を、ご当主様である侯爵経由で支払うことで、秘密は守られる。
そういうルールである。
下世話な話をするのであれば、その秘密を知ることで、ご当主様も貴族家の弱みを握れてお得だ。
ちなみにこのルールは、ご夫人や令嬢と使用人の場合でも同様である。
可能ならこうしたことが起こらないよう、あらかじめ侍女や使用人は顔を隠すように言われているのだが……起こり得るのなら準備万端なところも、ご当主様は素晴らしいとピアは思う。
まして今回の場合、フォルト卿は媚薬を盛られているのである。
彼としても不本意な状況であり、盛った相手には当然、何らかの狙いがあるだろう。
単純に彼に抱かれたかったのか。
フォルト卿の弱みを握りたかったのか。
あるいは、無差別に人を襲わせて名誉を地に落としたかったか。
侯爵家の中で行われかけていた犯罪を未然に防いで、しかも同意の上でフォルト卿の昂りを鎮めたとなれば、これはもう紛れもなくピアの功績である。
お側を離れた理由も、こちらからの提案とはいえ『フォルト卿の飲み物を持ってくる為』と、全くもってピアの不手際とは言えない話。
つまり。
―――きっと、ご当主様からも多額の報酬が貰えるわ……!
見合いをする為のドレスや化粧品代を稼ぐ、という目的からすると本末転倒な気もするけれど、それはそれである。
一夜抱かれるだけで領地が丸ごと数年潤うかもしれないくらいの報酬を貰えるなら、結婚が多少遅れたところで問題ないし、領民やお父様の為にはそちらの方がいい。
フォルト卿は今回の短いやり取りの間でも、気遣いが出来て聡明で、かつ性格の良い方と分かっているので、ゴネられもしないだろうし、ピアも後腐れを残す気はなかった。
「初めてなので優しく……は、ご期待出来ないでしょうけれど」
付け加えた瞬間に胸元に顔を埋められ、流石に恥ずかしさを覚えながら、口をつぐむ。
そうしてこの日、ピアは純潔を散らした。




