第3話 火の呼吸
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魔力というものを知ってから、ルクスの世界は少しだけ広くなった。
それまで、彼にとって世界とは音と匂いと触れるものだった。
川の音がする場所に水がある。
甘い匂いがする場所に果実がある。
風が冷たければ、洞窟の外が開けている。
そうやって、見えない世界の形を組み立てていた。
だが、魔力はそれらとは違った。
音のない場所にも存在する。
触れられない距離にも流れている。
火の中にも、水の中にも、そして自分の体の中にもあった。
「魔力は、世界を巡る血液のようなものだ」
グラウスは教えた。
「木々も、獣も、石も、すべてがわずかな魔力を持っている。魔法とは、その流れを一時的に変える技術だ」
「グラウスも魔法を使えるの?」
「私を誰だと思っている」
「古竜」
「そうだ」
グラウスは満足そうに答えた。
ルクスは首を傾げる。
「古竜は、魔法が得意?」
「古竜は、魔法そのものに近い存在だ」
そう言うと、グラウスは大きく息を吸い込んだ。
空気が震えた。
森の音が一斉に遠ざかる。
ルクスの周囲にあった魔力が、グラウスの口元へ集まっていく。
右から来ていた風が止まった。
川の上を流れていた水の魔力が、わずかに乱れた。
そして次の瞬間――。
轟音が響いた。
熱い風が頬を叩く。
洞窟の外にあった大岩が、炎に包まれた。
「火だ」
グラウスが言った。
「これが火の魔法?」
「今のは、ただの息だ」
「息?」
「魔法を使った息だ」
ルクスには、その違いが分からなかった。
ただ、炎の中にある魔力は、今まで感じたどの魔力よりも強かった。
赤く燃える炎の中心に、渦のような流れがある。
炎は一つの塊ではない。
無数の小さな力が、互いに絡み合いながら燃えている。
熱の流れ。
空気の流れ。
魔力の流れ。
それぞれが別々に動き、しかし炎という一つの形を作っていた。
「見えるか?」
グラウスが尋ねた。
「うん」
「……そうか」
「赤くはないけど、動いてる」
グラウスは黙った。
それから、ルクスの前に手を伸ばした。
大きな爪の先に、小さな火が灯る。
ぱち、と音を立てて揺れた。
「この火を消してみろ」
ルクスは手を伸ばした。
炎に触れようとした瞬間、熱が指先を刺す。
反射的に手を引っ込めた。
「熱い」
「火だからな」
「どうすれば消えるの?」
「魔力の流れを止めろ」
ルクスはもう一度、炎へ手を近づけた。
熱い。
炎の周りには、細かな魔力が渦巻いている。
中心から外へ。
外から中心へ。
行ったり来たりしながら、火を保っていた。
ルクスは右手を伸ばし、その流れに指を入れた。
触れた瞬間、頭の中に強い熱が流れ込んできた。
「っ……!」
ルクスは手を引いた。
炎が大きく揺れる。
「無理に掴むな」
グラウスの声が鋭くなった。
「魔力は生き物と同じだ。力ずくで押さえれば、必ず反発する」
「でも、止めるんでしょ?」
「止めるのではない。帰すのだ」
「帰す?」
「流れを本来の場所へ戻す」
グラウスは炎を見つめた。
「火は、燃えるために生まれた。燃える力を奪うのではなく、炎を生み出している魔力を地面へ返せ」
ルクスは黙って炎に向き合った。
目には何も映っていない。
それでも、炎の動きは感じられた。
熱が外へ広がる。
空気が炎を支える。
魔力が中心で回る。
その一部を掴み、地面へ流す。
ルクスはそう考えた。
魔力へ手を伸ばす。
今度は、掴まない。
流れに沿って、指先を添える。
炎の中心から溢れた力が、ゆっくりと下へ向かう。
すると、火が小さくなった。
「そのままだ」
グラウスが言う。
ルクスは集中した。
炎の力が、少しずつ地面へ戻っていく。
最後に小さな火の粉が弾けて――。
火は消えた。
森に静寂が戻る。
ルクスは息を吐いた。
「できた?」
「ああ」
「魔法、使えた?」
「それは魔法ではない」
グラウスは答えた。
「ただの魔力操作だ」
ルクスは少しだけ落ち込んだ。
「魔法じゃないんだ」
「勘違いするな。普通の魔法使いは、三歳で他人の魔力を正確に読み取ることなどできない」
グラウスの声は、いつになく真剣だった。
「お前がやったのは、魔法を消すための魔法だ。しかも、炎を傷つけずに流れだけを変えた」
「すごい?」
「何度も言わせるな。すごい」
ルクスは、少しだけ笑った。
その時だった。
洞窟の外から、鳥の羽ばたく音が聞こえた。
続いて、木の枝が折れる音。
遠くから、複数の足音が近づいてくる。
ルクスの表情が変わった。
「グラウス」
「分かっている」
グラウスが立ち上がる。
地面が大きく揺れた。
「人間だ」
ルクスは耳を澄ませた。
一人ではない。
三人。
いや、四人。
鉄が擦れる音がする。
革の靴が土を踏む音。
そして、誰かが荒い息を吐いている。
「竜の巣を探しているのかな」
グラウスが呟いた。
「人間は、どうしてここに来るの?」
「竜の鱗や牙を金に換えるためだ」
「グラウスを殺すの?」
「殺せると思っているのだろう」
グラウスは、ルクスを背中へ隠した。
その瞬間、洞窟の外から声が響いた。
「いたぞ! ここだ!」
「古竜の巣に間違いない!」
「子どもがいるぞ!」
ルクスの体が強張った。
聞き覚えのある感情だった。
昨日まで、自分を置き去りにした両親の声に混じっていたもの。
恐怖。
欲望。
そして、自分を必要としていない者の声。
グラウスが翼を広げる。
風圧が洞窟の中を走り抜けた。
「ルクス」
「うん」
「私の後ろから動くな」
「僕も戦える」
「まだ早い」
「でも、魔力が分かる」
「分かることと、戦えることは違う」
グラウスはそう言った。
だが、ルクスの手を掴んだ爪は、わずかに震えていた。
外で金属音が響く。
誰かが剣を抜いたのだ。
「古竜め! 人間の子どもを連れているとはな!」
「その子どもごと捕らえろ!」
ルクスは、洞窟の外にいる人間たちの魔力を感じ取った。
四人。
全員が武器を持っている。
そのうち一人は、体の中に強い魔力を持っていた。
魔力が右腕へ集まっている。
「グラウス」
「どうした」
「一番前の人、右手に魔力を集めてる」
グラウスの気配が変わった。
「……よく感じ取ったな」
「何をするの?」
「火を放つ」
グラウスが息を吸い込む。
洞窟の外から、男の叫び声が響いた。
「今だ! 撃て!」
同時に、グラウスの口から炎が放たれた。
轟音が森を揺らした。
炎と魔法がぶつかり合う。
熱風が吹き荒れ、洞窟の壁が震える。
ルクスはグラウスの背中に手をついた。
ぶつかり合った二つの魔力が、複雑に絡み合っている。
グラウスの炎は圧倒的だった。
けれど、人間の魔法が炎の一部をすり抜けている。
そのままグラウスの翼へ向かっていた。
「グラウス!」
「何だ!」
「左!」
グラウスが翼を動かす。
直後、魔法の刃が翼の横を通り過ぎた。
洞窟の壁が切り裂かれる。
「助かった」
グラウスが低く言った。
「でも、もう一人いる」
ルクスは続けた。
「右の岩の後ろ。魔力を隠してる」
「なに?」
「弓を持ってる」
矢が放たれた。
空気を裂く音が、まっすぐにルクスへ向かってくる。
怖かった。
体が動かない。
けれど、矢の周りの空気が揺れている。
魔力が、矢の先端に集まっている。
ルクスには、その軌道が分かった。
右肩。
少しだけ体を動かせば避けられる。
ルクスは右へ踏み出した。
矢が頬をかすめる。
熱い。
血が流れた。
グラウスが咆哮する。
その声だけで、森の木々が震えた。
「ルクス!」
「大丈夫」
「動くなと言ったはずだ!」
「でも、避けられた」
ルクスは頬の血を指で触れた。
赤いのかどうかは分からない。
けれど、自分はまだ立っている。
そして、外にいる人間たちはまだ動いていた。
ルクスはもう一度、魔力の流れを読む。
人間たちの位置。
武器の形。
魔法の起点。
すべてが、音と揺らぎになって頭の中へ集まっていく。
「グラウス」
「今度は何だ」
「僕にも、できることがある」
グラウスは答えなかった。
ただ、ルクスの前にあった翼を、少しだけ横へ動かした。
その向こうに、人間たちの気配がある。
「一度だけだ」
グラウスが言った。
「私の命令に従え」
「うん」
「お前は攻撃しない。敵の魔力の流れを教えろ」
「分かった」
ルクスは、初めてグラウスの隣に立った。
見えない世界の中で、人間たちの魔力が揺れている。
その揺らぎを、ルクスは一つずつ読み始めた。




