第2話 森の呼吸
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それから、三年が過ぎた。
ルクスは、森の中を一人で歩いていた。
足元には湿った土。
右側には、細い川。
左側には、風に揺れる高い草。
目は見えない。
それでも、ルクスの頭の中には、森の形が浮かんでいた。
水の流れる音。
木の葉が擦れる音。
遠くで鳴く鳥の声。
自分の足が土を踏む音。
それらすべてが、ルクスに周囲の情報を伝えている。
「遅い」
背後からグラウスの声が飛んできた。
声だけで、ルクスはグラウスがどこにいるのか分かる。
十歩ほど後ろ。
大きな体を持つ古竜が、わざと足音を殺して歩いている。
「もっと早く歩け。獲物を追うなら、今の速度では逃げられる」
ルクスは黙って歩く速度を上げた。
しかし、すぐに木の根へ足を引っかけた。
前へ倒れそうになったところで、右手を地面につく。
土の冷たさと、草の匂いが指先に伝わった。
「転んだな」
「転んでない」
ルクスは立ち上がった。
「今のは、地面に手をついただけ」
「それを世間では転んだと言う」
「違う」
「強情になったものだ」
グラウスの声に、わずかな笑いが混じる。
ルクスは唇を尖らせた。
グラウスは、最近よく笑うようになった。
最初の頃は、ルクスが何をしても「人間は弱い」と言っていた。
だが、ルクスが言葉を覚え、棒を振り、森を歩けるようになるにつれて、その声は少しずつ変わっていった。
「止まれ」
突然、グラウスが言った。
ルクスは足を止めた。
森の音が、ゆっくりと耳へ流れ込んでくる。
鳥の声。
川のせせらぎ。
葉を揺らす風。
そこに、ひとつだけ違和感があった。
風が止まっている。
なのに、草むらの奥で何かが動いていた。
ルクスは息を殺した。
「何がいる」
グラウスはすぐには答えなかった。
「お前が言ってみろ」
ルクスは耳を澄ませる。
草が擦れる音。
低い呼吸。
地面を爪で掻く音。
かなり近い。
十歩。
いや、八歩。
正面やや右。
「獣」
「種類は?」
「分からない」
「なら、もっと聞け」
ルクスは目を閉じた。
もともと何も見えない。
それでも、目を閉じると、余計なものが消える気がした。
音だけが残る。
獣の呼吸。
心臓の鼓動。
地面を踏みしめる四本の足。
そして、何かが震えていた。
ルクスは眉を寄せる。
獣の周りの空気が、かすかに揺れている。
音ではない。
風でもない。
もっと小さく、もっと深い揺らぎ。
「……魔力がある」
ルクスが呟いた。
「何?」
「獣の中に、何かが流れてる」
グラウスが黙った。
草むらの奥で、獣が鼻を鳴らした。
次の瞬間、地面が爆発した。
巨大な獣が、草を蹴散らしながら飛び出してくる。
牙の擦れる音。
大地を砕く足音。
風を切り裂く音。
ルクスの体が勝手に動いた。
右。
そう思った瞬間、左へ跳ぶ。
獣の牙が、ルクスの服をかすめた。
布が裂ける。
ルクスは地面を転がり、すぐに立ち上がった。
獣が方向を変える。
四本の足が土を踏む。
低い唸り声。
再び、突っ込んでくる。
ルクスには見えない。
それでも、分かった。
獣が動く直前、体の内側を流れる何かが一瞬だけ強くなる。
胸の奥。
そこから四肢へ向かって、熱のようなものが走る。
その直後に、獣は動く。
ルクスは片足を引いた。
獣が迫る。
魔力が流れる。
ルクスは身を低くした。
頭上を、巨大な爪が通り過ぎる。
風圧で髪が揺れた。
「よく避けた!」
グラウスの声が響く。
だが、まだ終わっていない。
獣は振り返り、今度は横から襲いかかってくる。
ルクスは棒を握った。
これは剣ではない。
獣を倒せるほど強くもない。
けれど、グラウスに教えられたことがある。
力の流れを止めるには、流れの中心を打てばいい。
獣の魔力が、胸の奥で膨らむ。
ルクスは音ではなく、揺らぎを追った。
右前脚。
胸。
喉。
次に来る攻撃は、喉から放たれる。
そう感じた。
獣が口を開く。
唸り声が、叫び声へ変わる。
その瞬間、ルクスは前へ踏み込んだ。
棒を振る。
狙った場所など見えない。
ただ、揺らぎの中心へ向かって、全身の力を叩き込んだ。
ごんっ、と鈍い音がした。
棒が獣の喉に当たった。
獣の動きが止まる。
低い唸り声が消え、巨体が地面へ崩れ落ちた。
森に静寂が戻った。
ルクスは荒い息を吐いていた。
手が震えている。
膝も笑っている。
けれど、生きている。
「……今のは、まぐれか?」
グラウスが尋ねた。
ルクスは首を振った。
「違う」
「では、何をした」
「流れを叩いた」
グラウスが近づいてくる。
大きな足音が、ゆっくりと近づく。
やがて、グラウスの手がルクスの肩に置かれた。
「もう一度、説明しろ」
「獣の中に何かがあった。強くなったり、弱くなったりしていた」
「それを見たのか?」
ルクスは少し考えた。
「見てない」
「では、どうやって分かった」
「分からない。でも、そこにあった」
グラウスは長い間、何も言わなかった。
倒れた獣の体から、少しずつ熱が消えていく。
その熱の流れまで、ルクスには感じ取れた。
まるで、森の中に見えない川が流れているようだった。
「ルクス」
グラウスが、いつになく真剣な声で言った。
「お前が感じたものを、魔力と呼ぶ」
「魔力?」
「生き物にも、炎にも、水にも、森にも流れている。目の見える者は、それを目で見ることはできぬ。だが、魔法使いは訓練によって感じ取る」
グラウスは一度、言葉を切った。
「お前は、まだ三歳だ」
「うん」
「それなのに、私が何年も教えねば届かぬ場所へ、すでに足をかけている」
ルクスには、その言葉の意味がよく分からなかった。
ただ、グラウスの声が少しだけ震えていることは分かった。
「すごいの?」
「すごい」
即答だった。
ルクスは初めて、胸の奥が熱くなるのを感じた。
親に捨てられた理由を、まだ完全には理解していない。
けれど、自分は何もできない子どもではないのだと、初めて思えた。
「じゃあ、もっと教えて」
ルクスは棒を握り直した。
「魔力を、もっと知りたい」
グラウスはしばらく黙っていた。
やがて、低く笑う。
「いいだろう」
古竜は倒れた獣へ視線を向けた。
「ならば今日から、お前は生き残るだけの子どもではない」
風が森を抜けていく。
木々が揺れ、葉が擦れ合う。
そのすべての奥で、目には見えない魔力が静かに流れていた。
「世界の流れを読む者になれ、ルクス」
少年は、まだ知らなかった。
自分が今感じ取った小さな揺らぎが、やがて魔法を打ち消し、剣を避け、世界そのものを視る力へ変わっていくことを。
ただ、この日から。
ルクスは、世界を音だけでなく、魔力の流れでも捉え始めた。




