第1話 古竜の巣
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目を覚ますと、雨の音は消えていた。
代わりに聞こえたのは、ぱちぱちと何かが燃える音だった。
少年――ルクスは、柔らかな毛皮の上で身じろぎした。
背中は温かい。腹は空いている。鼻の奥には、香ばしい匂いが入り込んでいる。
昨日まで感じていた冷たさは、どこにもなかった。
「起きたか」
すぐ近くから、低い声がした。
ルクスは声の方向へ顔を向ける。
もちろん、何も見えない。
ただ、空気の動きだけは分かった。
大きな何かが動いた。床がわずかに沈み、熱を含んだ風が頬を撫でる。
「腹が減っているだろう」
声の主――グラウスが言った。
ルクスの腹が、返事をするように鳴った。
「そう急かすな。人間の赤子は、ずいぶんとせわしない生き物だ」
何かが口元へ運ばれてくる。
甘い匂いがした。
ルクスが唇を開くと、柔らかなものが舌に触れた。
温かい。
少し酸っぱくて、ほんのり甘い。
それが食べ物だと、ルクスは初めて知った。
「森の実を煮たものだ。人間の赤子に竜の肉を食わせるわけにもいかんからな」
グラウスはそう言いながら、ゆっくりと食べ物を与え続けた。
ルクスは夢中で食べた。
食べ終わる頃には、腹の奥に熱が生まれていた。
満たされるという感覚を、ルクスは知らなかった。
だから、それをどう受け止めればいいのか分からなかった。
ただ、もう少しだけ、この声を聞いていたいと思った。
「……変な子どもだ」
グラウスの指が、ルクスの頭に触れた。
人間の手とは比べものにならないほど大きい。爪も硬い。
それでも、触れ方は乱暴ではなかった。
「泣かぬのか」
ルクスは答えられない。
「怖くないのか」
少し考えてから、ルクスは手を伸ばした。
指先が、グラウスの鱗に触れる。
ざらざらしていて、温かい。
昨夜、雨から守ってくれたものと同じ感触だった。
ルクスの指が、鱗の隙間をなぞる。
すると、グラウスの呼吸が一度だけ止まった。
「……そうか」
低い声に、かすかな笑いが混じった。
「お前は、見えない代わりに触れるのだな」
ルクスはその言葉の意味を理解できなかった。
だが、声の響きが柔らかくなったことは分かった。
グラウスはルクスを抱き上げると、巣の中を歩き始めた。
足音が三回響く。
次に、壁へ何かが触れる音。
さらに、遠くで水が流れる音。
ルクスは音を数えた。
右から水の音。
左から火の音。
正面から、グラウスの重い足音。
音の距離が変わるたびに、ルクスの頭の中へ、見えない地図が少しずつ形を作っていく。
「ここが私の巣だ。外には出るな」
グラウスが言った。
「この森には、お前を一口で食える獣がいくらでもいる。牙のあるもの、毒を持つもの、姿を消すもの。人間の子どもが一人で歩けば、朝まで生きられぬ」
ルクスは静かに聞いていた。
「だが、私がいる間は心配するな」
その言葉だけは、はっきり理解できた。
グラウスがいる間は、死なない。
その日の夜、ルクスは大きな翼に包まれて眠った。
それから、幾日も過ぎた。
ルクスは森の中で育った。
グラウスは人間の言葉を教えた。
食べ物の名前。水の意味。火に触れてはいけない理由。
ルクスは何度も間違え、そのたびにグラウスは叱った。
けれど、叱った後には必ず、もう一度教えてくれた。
ルクスが歩けるようになると、グラウスは巣の中に細長い棒を置いた。
「拾え」
ルクスは棒を探した。
手を伸ばしても、指先には何も触れない。
「そこではない。音を聞け」
ルクスは耳を澄ませた。
火が燃える音。
水滴の落ちる音。
自分の呼吸。
その向こうに、微かな風切り音がある。
棒が振られたのだ。
ルクスは音のした場所へ歩いた。
指先が棒に触れる。
「よし」
グラウスの声が、初めて満足そうに響いた。
ルクスは棒を握った。
軽い。
木の匂いがする。
握り方を変えると、先端の重さが少しだけ移動する。
「それは剣ではない。だが、剣を持つ前に、道具を落とさぬ手を作る必要がある」
グラウスは言った。
「お前は目が見えない。ならば、目の見える者と同じことをする必要はない」
ルクスは棒を両手で握り直した。
「見えないものを、見えないまま捉えろ」
その言葉の意味は、まだ分からなかった。
グラウスが、ルクスの前で棒を振った。
空気が裂ける音がする。
右から左へ。
ルクスは反射的に身をかがめた。
棒が髪をかすめ、背後の壁に当たった。
ごん、と鈍い音が響く。
グラウスが黙り込んだ。
ルクス自身も、何が起きたのか分からなかった。
ただ、棒が動く前に、空気が揺れた気がした。
「……今のを避けたのか」
グラウスが呟く。
ルクスは首を傾げた。
「偶然かもしれぬ。もう一度だ」
今度は、正面から風が来た。
ルクスは一歩下がった。
棒が、胸の前を通り過ぎる。
さらに一度。
今度は左から来た。
ルクスは右へ転がった。
棒の先端が、さっきまで頭のあった場所を打ち抜いた。
「……」
グラウスは、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で尋ねる。
「ルクス。お前には、何が聞こえた?」
ルクスは、自分の胸に手を当てた。
「……風」
「風だけか?」
「あと……ゆれる」
「何がゆれた」
ルクスは考えた。
うまく言葉にできない。
棒が動く前に、空気の中で何かが震えていた。
音よりも小さく、触れるよりも遠い何か。
「……わからない」
「そうか」
グラウスの声が、少しだけ弾んだ。
「ならば、分かるようになるまで教えてやる」
その日から、ルクスの訓練が始まった。
まだ歩くことも遅く、言葉も少ない小さな少年と、千年を生きた古竜。
二人の間に、剣も魔法もなかった。
ただ、音と呼吸と、見えない何かの揺らぎだけがあった。
ルクスはまだ知らない。
その小さな一歩が、やがて世界中の戦士たちを震え上がらせる力になることを。
そして、グラウスもまだ知らない。
自分が拾った子どもが、いつか世界の運命そのものを視ることになるとは。
次回予告
第2話 森の呼吸




