プロローグ 見えない子ども
20時から第1話を配信予定
カクヨムでは1話先行して公開中
https://kakuyomu.jp/works/11054822663715888245
雨の音がしていた。
ぽつり、ぽつりと落ちる雫が、布の上で小さく弾けている。
少年には、それしか分からなかった。
自分がどこにいるのか。
なぜ冷たいのか。
なぜ、お腹が空いているのか。
何ひとつ分からない。
生まれた時から、少年の目には光がなかった。
母親の顔も、父親の顔も知らない。青い空も、緑の森も、夜の星も知らない。
ただ、声だけは知っていた。
「……本当に、ここに置いていくのか」
低い男の声。
その声は震えていた。
「仕方ないでしょう」
女の声が答える。泣いているようだった。
「神殿でも治せないと言われたのよ。この子は、目が見えない。魔力もほとんどない。こんな子を育てたって――」
「やめろ」
「だって、そうでしょう? この子がいるせいで、家は貧しくなった。近所の人たちだって、気味悪がっているわ」
少年には、言葉の意味は分からなかった。
けれど、二人の声に含まれた感情は、なんとなく伝わってきた。
怖い。
困っている。
そして、自分を必要としていない。
抱き上げられていた体が、地面に下ろされた。
背中に伝わる土の冷たさ。濡れた草の感触。布の隙間から入り込む雨。
「この子を置いていけば、俺たちはやり直せる」
男が言った。
「ええ。きっと、やり直せるわ」
女が答えた。
足音が遠ざかっていく。
少年は泣いた。
声が枯れるまで泣いた。
けれど、足音は戻ってこなかった。
雨は強くなった。
体が冷えていく。
指先の感覚がなくなっていく。
このまま眠ったら、もう起きられない。
そんなことさえ、少年には分からなかった。
ただ、暗闇の中でひとつだけ、近づいてくるものがあった。
大きな足音。
地面を踏むたびに、森全体が震えている。
鳥が一斉に飛び立った。遠くの獣が逃げていく。木々の葉が擦れ合い、雨音が一瞬だけ消えた。
何かが、少年の前に立ったのだ。
「……人間の子ども?」
声は低く、重かった。
それなのに、不思議と恐ろしくなかった。
少年は泣き声を止められないまま、震えた。
「なぜ、こんな場所にいる」
答えられるはずもない。
代わりに、小さなお腹が鳴った。
ぐう、と情けない音が森に響く。
しばらく、何も聞こえなかった。
「……腹が減っているのか」
大きな生き物が、ゆっくりと身をかがめる。
次の瞬間、冷たい雨が止んだ。
少年の全身を覆うほど大きな何かが、傘のように広がったのだ。
その内側には、火のような熱があった。
冷え切った体が、少しずつ温まっていく。
「人間は嫌いだ」
大きな声が言った。
「だが、赤子を見捨てるほど落ちてはいない」
少年の体が持ち上がる。
乱暴ではなかった。
壊れ物を扱うように、慎重で、温かかった。
「お前、名はあるか」
少年は答えられない。
自分に名前があるのかどうかも、分からなかった。
「そうか。ないのか」
生き物は少し考えた。
「では、私がつけよう」
雨雲の向こうで、雷が鳴った。
少年を包んでいた熱が、ほんの少しだけ強くなる。
「ルクス。暗闇の中でも消えない光、という意味だ」
少年は、泣くのをやめた。
もちろん、光を見たわけではない。
それでも、その言葉だけは胸の奥に残った。
「聞こえるか、ルクス」
少年は小さな手を動かした。
大きな何かの硬い鱗に触れる。
熱い。
ごつごつしている。
けれど、怖くなかった。
「……そうか。返事はできるのだな」
声の主は、ほんの少しだけ笑った。
「私はグラウス。古竜だ」
少年には、竜が何なのか分からなかった。
古いという言葉も、空を飛ぶということも知らなかった。
ただ、その声と熱だけは覚えた。
やがてグラウスは、少年を抱えたまま森の奥へ歩き始めた。
足音が響くたび、木々が揺れる。
獣たちは道を空け、鳥たちは枝の上から息を潜めた。
誰もが恐れる古竜の腕の中で、捨てられた少年は初めて眠った。
その日、世界から一人の子どもが捨てられた。
そして同じ日に、世界のかたちを変えることになる少年が、竜に拾われた。
少年の目には、何も映っていなかった。
けれど、彼の中ではすでに、見えない何かが静かに動き始めていた。
20時から本編を公開します!!
次回予告
第1話 古竜の巣




