第10話「白い花」
春の外交局は、窓から入る風が書類を揺らす。
私はその書類を手で押さえながら、サヴェルナの大使がくれたハーブの鉢植えに目をやった。窓辺に置いた小さな陶器の鉢から、薄緑の葉が三枚、ようやく顔を出している。毎朝水をやるのが習慣になっていた。
外交顧問の執務室は、公爵邸の書斎より狭い。けれど窓が南向きで、午前中は陽が入る。樫材ではなく楢材の机。鉄のインク壺は同じものを使っている。持ち出せた私物はそれだけだった。
離縁から四か月。新しい生活は、思ったより静かに馴染んでいた。
◇◇◇
午前の業務を終えて、蜂蜜入りのハーブティーを淹れた。湯気が立ちのぼる。カップを両手で包むと、指先にようやく温度が戻る。
同僚のブリギッテが書類を持ってきた。
「セラフィーナさん、トルステンの件、先方から返信が届きましたよ」
セラフィーナさん。ここでは皆がそう呼ぶ。「奥様」でも「伯爵令嬢」でもなく。名前で呼ばれることに、まだ少しだけ肌がざわつく。――いや、ざわつくのではない。正確に言えば、名前を呼ばれるたびに、自分の輪郭が少しずつはっきりしていく感覚がある。
「ありがとう、ブリギッテ。確認します」
返信の内容は良好だった。トルステンの新しい交易条件について、先方が修正案を受け入れている。三か月前に私が起草した草案が、ようやく形になりつつある。
封蝋を押す。赤い蝋が銅の印に押されて、じゅ、と小さな音を立てた。この音が好きだ。昔も今も変わらず。
◇◇◇
昼食の時間に、ブリギッテが噂話を持ってきた。胡桃のタルトを切り分けながら、声を低くする。
「聞きました? エーデルシュタイン公爵家、外交権の停止だけじゃなくて、社交界でもかなり厳しいことになっているそうですよ」
「……そうでしたか」
「ミリアーナ嬢も実家に戻られたとか。公爵との婚約話も白紙に」
タルトの胡桃を一粒、フォークで刺した。口に運ぶ。香ばしさが広がる。
何も感じないわけではなかった。胸のどこかに、古い傷口を風が撫でるような感触がある。けれどそれはもう痛みではない。ただ、そこにかつて傷があったことを覚えているだけ。
「差し支えなければ、その話はここまでに」
「あ、ごめんなさい。気を遣わせてしまって」
「いいえ。ただ、午後の業務に集中したいだけです」
嘘ではなかった。半分は本当で、半分は――あの方のことを考える時間を、もうこれ以上使いたくなかっただけ。五年分で、十分すぎるほど使った。
◇◇◇
週末に実家を訪ねた。
父様は庭に出ていた。杖をつきながら、銀木犀の木の下のベンチに座っている。日差しを受けて、白い髪が光っている。
「セラフィーナ。顔色がいい」
「父様こそ、お加減はいかがですか」
「医者が散歩を許可した。それだけで十分だ」
父様の目尻に、薄く笑い皺が寄った。三か月前より顔色がいい。頬にわずかに赤みが差している。
隣に座った。ベンチの木が陽に温められて、手のひらに心地いい。銀木犀の甘い匂いが風に乗ってくる。
「外交局の仕事は順調か」
「……ええ。トルステンとの交渉が一段落しました。イルメリアの文化交流協定も、来月には調印の見通しです」
「そうか」
父様はそれ以上何も聞かなかった。ただ、隣に座って、同じ方向を見ていた。庭の奥に咲く白い花。春の光を受けて、花弁が透けている。
「父様。私、もう少しここにいてもいいですか」
「お前の家だ」
その一言で、喉の奥がきゅっと縮まった。目頭が熱くなる。けれど泣かなかった。泣くのとは違う種類の熱さだった。
◇◇◇
月曜の朝、外交局に出仕すると、私の机の上に一輪の花が置かれていた。
白いアネモネ。
小さなガラスの一輪挿しに活けてある。花弁は開ききっておらず、中心の濃い紫がかすかに覗いている。朝露がまだ残っていて、光を受けて銀色に輝く。
心臓が跳ねた。
評議会の日、あの綴じ帳に挟まれていた押し花と同じ花。花言葉は「期待」、そして「真実」。
机の横に、小さな書き付けが添えてあった。殿下の、几帳面な筆跡。
『外交局の窓辺に飾る花の選定について、ご意見を伺いたく。
――レオンハルト』
業務連絡の体裁を取っている。花の選定について意見を求める外交局員など、聞いたことがない。
顔が熱くなった。書き付けを裏返す。表を向ける。また裏返す。何をしているのだろう、私は。
扉を叩く音がした。
「失礼します」
殿下が入ってきた。濃紺の軍服。いつもと同じ端正な佇まい。ただ、手に何も持っていない。書類も資料も。手持ち無沙汰なのか、右手が左の袖口を触っている。
「あの書き付けですが」
「……拝見しました」
「花の件は」
殿下の耳の先が赤い。視線が机の上の花に行き、書き付けに行き、それから窓の外に逃げた。
「あれは、資料ではありません」
声が一段低かった。
広い執務室に、二人分の呼吸だけが聞こえる。窓の外で鳥が一声鳴いた。春の風がカーテンを揺らし、机の上の書類がかすかに音を立てる。
「資料では、ない」
私は繰り返した。唇が震えそうになるのを、歯を噛んで堪えた。
殿下が一歩近づいた。手を差し出す。白い手袋をしていない。素手だった。その手のひらに、白いアネモネが一輪、もう一本。茎を短く切りそろえてある。
「これも、資料ではありません」
同じ言葉。けれど声が、わずかに揺れていた。
受け取った。茎の切り口が湿っている。今朝、切ったばかりなのだ。この人は今朝、花屋に寄って、茎を切って、ここまで持ってきた。業務資料に偽装することもできたのに、しなかった。
「レオンハルト様」
名前が、口をついて出た。「殿下」ではなく。考える前に、身体が先に動いていた。
殿下の目が見開かれた。灰青の瞳に、窓からの光が映り込んでいる。耳の先だけでなく、頬まで赤くなっている。
「……問題、ありません」
殿下はそう言って、視線を落とした。花ではなく、私の手を見ている。アネモネの茎を握る私の指を。
笑いがこみ上げた。
あの夜会の笑いとは違う。あのときは胸骨の裏で何かが綻ぶ、乾いた音のような笑いだった。今は違う。もっと浅い場所から、もっと温かいものが上がってくる。頬が緩んで、目尻が下がって、息が漏れる。止められない。止めたくもない。
「ふふ」
殿下が、困ったように目を逸らした。けれど口元がほんの少し、ほんの少しだけ緩んでいるのを、私は見逃さなかった。
窓から春の風が入ってくる。ハーブの鉢植えの葉が揺れる。白いアネモネの花弁が光を透かして、机の上に淡い影を落とす。
花を、一輪挿しに添えた。二輪になった白い花が、並んで光を受けている。
自分の名前を、もう一度心の中で呼んでみる。セラフィーナ。五年間、誰にも呼ばれなかった名前。今はこの外交局で、毎日誰かが呼んでくれる。
そして今日からは、もう一人。
私の名前はセラフィーナ。ようやく、そう名乗ることが嬉しいと思える。




