第9話「ずっと、見ていたからです」
「エーデルシュタイン公爵家の外交権を、本日をもって一時停止する」
王宮評議の間に、宰相の声が落ちた。石を水面に投じたような沈黙が広がる。
私は傍聴席の末端に座っていた。外交顧問として召喚された立場であり、発言権はない。羊皮紙の束を膝に載せ、背筋を伸ばす。指先が冷たい。この広間は暖炉が遠い。
――いえ、寒さのせいではなかった。正確に言えば、あの方がすぐ近くにいるからだ。
ヴァルター・フォン・エーデルシュタイン。元夫。評議会の中央席で、長椅子の肘掛けを握っている。三か月前に離縁した相手の顔を見るのは、これが初めてだった。頬の輪郭も、癖のある前髪の流れ方も、何も変わっていない。ただ、肌にわずかな疲労の影が落ちている。
評議の間の天井画がふと目に入った。イルメリアの宮廷画家の様式だ。彼は左利きだったから、光の方向が逆になっている。天窓から差す午後の陽と、絵の中の陽が反対側から射し込む不思議な空間。集中を切らしてはいけないのに、視線がそちらへ逃げた。
◇◇◇
「サヴェルナとの穀物条約は、私が主導しました」
あの方の声が広間に響いた。立ち上がり、評議員たちを見渡している。堂々とした姿勢。社交の場で培った、人の目を引く佇まい。
「トルステンとの交易路再開についても同様です。いずれもエーデルシュタイン公爵家の外交実績として、記録に残るものです」
宰相が頷きかける。他の評議員も、異論を挟む様子はない。当然だろう。公爵家の名で提出された書類に、公爵家の封蝋が押されている。表面上、何の矛盾もない。
私は膝の上の羊皮紙に目を落とした。ここにあるのは、外交局から求められた陳述書だ。事実だけを記した。感情は一文字も含まれていない。
胸の奥がざわついた。五年間の仕事が、あの方の功績として語られる。わかっていた。最初からわかっていたはずだ。公爵夫人の仕事は公爵家の仕事。私の名前は、どこにも――
「お待ちください」
静かな声が割り込んだ。
濃紺の軍服。銀の肩章。第二王子レオンハルト殿下が、席を立っていた。
「資料をお持ちしました」
その言葉に、広間の空気が変わった。殿下が手にしているのは、革表紙の綴じ帳。外交局の公式書式だった。金の箔押しで「外交局記録」と刻まれている。
殿下は宰相の前に歩み出て、綴じ帳を開いた。
「こちらは外交局に保管されていた原本記録です。サヴェルナとの穀物条約――草案の作成者はランベルト伯爵令嬢セラフィーナ。交渉の全過程を主導した人物も同じく」
殿下の指が頁を繰る。淡々とした所作だった。感情を排した声。
「トルステンとの交易路再開。着想から実行までの経緯が、ここに記されています。起案者、交渉担当者、暗号通信の設計者。すべて同一人物です」
広間のざわめきが大きくなった。評議員たちが身を乗り出す。
あの方が立ち上がった。
「それは――外交局の記録が誤っているのでは」
殿下が振り向いた。表情は変わらない。
「それは事実と異なります。この記録は外交局長官の署名入りです。加えて、サヴェルナ大使ヴィクトール閣下からの親書もお預かりしています。条約交渉の相手方として、交渉の全過程でセラフィーナ嬢とのみ対面した旨が記されています」
殿下の声には起伏がなかった。ただ事実を読み上げるように、一つずつ。
あの方の顔から、色が引いていった。口が開き、何かを言いかけて、閉じる。もう一度開く。けれど声は出ない。
弁明の言葉が見つからないのだ。記録という壁の前で、社交辞令は役に立たない。
「さらに」
殿下がもう一頁を開いた。
「イルメリアとの文化交流協定。こちらの折衝記録にも、エーデルシュタイン公爵の関与は確認できません。交渉はすべてセラフィーナ嬢が単独で遂行しています」
あの方の手が震えていた。長椅子の肘掛けを掴んだまま、指の関節が白い。視線が泳ぎ、傍聴席の私を見た。何かを求めるような目だった。
目を合わせなかった。膝の上の羊皮紙を見つめていた。インクの匂いがする。乾いた、古い匂い。
宰相が立ち上がった。
「エーデルシュタイン公爵。弁明の機会を設けます。ただし、外交局の公式記録を覆すだけの証拠がなければ――」
あの方は何も答えなかった。長い沈黙の後、ただ座り直しただけだった。
◇◇◇
評議会が閉会した。
外交権の一時停止が正式に決定された。あの方は無言で退出していった。背中が、三か月前より小さく見えた。――いや、最初からあの大きさだったのかもしれない。私が勝手に大きく見ていただけで。
回廊に出ると、春の手前の冷たい風が頬を撫でた。高い窓から斜めに光が差し込み、石の床に格子模様を落としている。
殿下が、数歩先に立っていた。
革表紙の綴じ帳を胸元に抱えている。視線は窓の外に向いていたが、私の靴音に気づいたのか、こちらを向いた。耳の先がほんのりと赤い。
「殿下」
声がうまく出なかった。喉の奥に何かが詰まっている。
「……差し支えなければ、お聞きしてもよろしいですか」
殿下が軽く頷いた。
「あの記録は、いつから」
「三年前の夜会からです」
三年前。あの夜会。ミリアーナ嬢に「可哀想」と言われるより、さらに二年前。
「外交局に配属された直後、夜会の場で各国大使の動向を記録する任務がありました。その過程で、あなたの交渉を何度か目にしました」
殿下の声は静かだった。いつもの抑揚のない語り口。けれど、視線が綴じ帳に落ちた。指が表紙の角を撫でている。
「記録を続けていたのですか。任務が終わった後も」
「……問題ありません。外交局員として、正確な記録を残すのは職務です」
職務。そう言い切る声に、わずかな揺れがあった。
綴じ帳の頁の間から、何かが覗いていた。薄い紙片。押し花だった。白い花弁。花びらの縁がわずかに透けている。
白いアネモネ。
息が止まった。
あれは――私が初めて単独で外交交渉を成功させた日。サヴェルナ大使との穀物条約の調印式。会場のテーブルに飾られていた花。
「殿下、それは」
「資料に挟まっていたものです」
嘘だ。資料に花を挟む外交局員はいない。けれど殿下は視線を落としたまま、それ以上の説明をしなかった。
「なぜ」
私の声が震えた。指先が冷たいのとは違う、別の何かが胸の底から上がってくる。五年分の――正確に言えば、それ以上の年月が、喉元まで押し寄せてくる。
「なぜ、こんなものを持っているのですか」
殿下が顔を上げた。目が合った。深い灰青の瞳。その奥に、初めて見る色があった。
「ずっと、見ていたからです」
静かな声だった。声が一段低い。
「あなたの功績が、誰にも知られないまま消えていくのを見ていました。記録だけでも残さなければ、と」
殿下の手が、綴じ帳を握り直した。指の関節が白くなっている。ペンを握るときの癖と同じだ。
「それだけのことです」
それだけ。
五年間――いいえ、三年間。この人はずっと、私の仕事を見ていた。名前を記録し、功績を書き留め、花を挟んで。誰に頼まれたわけでもなく。ただ、消えてしまわないように。
何かが、崩れた。胸骨の裏で、封蝋が割れるような音がした。あの夜会で笑ったときとは違う。あれは「箱の蓋が開いた」感覚だった。今は――蓋の向こう側に、ずっと誰かが立っていたのだと知った感覚。
視界が滲んだ。
言葉を探した。何か言わなければと思った。礼を。あるいは問いを。あるいは、もっと別の何かを。
けれど声が出ない。喉が詰まって、唇が震えるだけで、何一つ形にならない。
頬を伝うものがあった。
泣いている。私は泣いている。五年間一度も流さなかった涙が、回廊の冷たい光の中で、止まらなかった。
殿下が一歩近づいた。白い手袋の手が、何かをしようとして、途中で止まった。代わりに、ポケットからハンカチを取り出し、私の手の上にそっと置いた。触れないように。ただ、差し出すだけ。
「……問題ありません」
殿下はもう一度、同じ言葉を繰り返した。今度はその声が、ほんの少しだけ掠れていた。




