8.暴走
絶対零度の真空を、禍々しい紫色の光芒が薙ぎ払った。
巨大モビルアーマーのメガ粒子砲から放たれた極太のエネルギー束は、音という物理現象が存在しない宇宙空間において、空間そのものを歪ませるほどの圧倒的な熱量と暴力の塊だった。
光の奔流がラッキースター号のいた宙域を通過し、背後に漂っていた数万トンの岩石デブリを、一瞬にしてプラズマの塵へと蒸発させる。
「……あ……っ」
コックピットでその惨状を間近に見たトビーの喉から、声にならない絶望が漏れた。
だが、ラッキースター号は消滅していなかった。
光の束が船体を舐めるコンマ数秒前。漆黒の機体――『ヴォルフラム』が、猛烈な推進炎を上げてメガ粒子砲の射線を横から蹴り飛ばすように介入し、巨大な質量同士の衝突エネルギーを利用して、密輸船を射線外へと強引に弾き出していたのだ。
船は制御を失ってデブリ帯の奥深くへとスピンしながら弾き飛ばされていく。
だが、それを見届ける余裕は今のレイにはなかった。
全天周モニターの視界が、紫色の閃光の残滓で白く焼き付いている。
機体の装甲表面温度が危険域に達し、コックピット内に警告の赤いランプがけたたましく点滅を繰り返す。
「……標的、巨大モビルアーマー。距離、一千」
レイの口から紡がれた声は、もはや人間のそれではなく、精密な機械の合成音のように冷え切っていた。
ジャンク屋としてのレイ・ヴァンガードの意識は、恐怖と絶望の底に沈み込んでいる。今、この漆黒の狼を操っているのは、圧倒的な生存本能と破壊衝動のみによって最適化された『No.07』としての兵士のアルゴリズムだった。
レイは操縦桿を強く引き絞り、スラスターを全開にして巨大モビルアーマーへと肉薄した。
敵機は、メガ粒子砲の再充填を行うと同時に、その巨大な甲殻から無数の対空機関砲(CIWS)を展開し、弾幕の壁を築き上げる。
星の海を、曳光弾の赤い雨が埋め尽くした。
レイはペダルを不規則に踏み込み、ヴォルフラムをコマのように回転させながら、弾の隙間を縫うように突進する。機体をかすめる徹甲弾の衝撃が、ニューラル・リンクを通じてレイ自身の皮膚を削り取るような痛みとなって脳髄を叩く。
「……邪魔だ」
両腕の装甲がスライドし、青白い高周波ブレードが展開される。
レイは一気に敵機の懐へと潜り込み、巨大なモビルアーマーの右舷に張り出した装甲の継ぎ目へと、渾身の力でブレードを突き立てた。
ギガァァァァァァッ!!
装甲同士が激突し、超高熱のプラズマが火花を散らして飛び散る。
だが。
「……チッ」
レイは小さく舌打ちをした。
刃は、敵の分厚い複合装甲の表面を数十センチほど溶断しただけで、それ以上深く食い込むことはなかった。
圧倒的な質量差。ヴォルフラムの機動性をもってしても、戦艦クラスの装甲を誇るこの拠点防衛用兵器に、通常出力の武装で致命傷を与えることは不可能なのだ。
敵機が鈍重な動きで身をよじり、巨大なクローアームを振り下ろしてくる。
レイは間一髪でブレードを引き抜き、後方へ跳躍してそれを躱した。クローが空を切り、デブリの残骸を粉砕する。
『警告。敵機装甲、現行の出力では貫通不能。撤退を推奨』
システム・ヴォルフラムの無機質な音声がコックピットに響く。
「撤退……? 馬鹿を言うな」
レイの薄い唇が、微かに歪んだ。
それは、恐怖による引きつりではない。絶体絶命の状況下において、彼の奥底に眠る狂気が、嬉々として鎌首をもたげた証――冷酷で、ひどく歪んだ『笑み』だった。
(足りない。こんな力じゃ、こいつは殺せない)
首筋に突き刺さる接続端子が、ドクドクと脈を打っている。
レイは、過去の記憶が呼び起こしたフラッシュバックの激痛に耐えかね、つい先ほどまでこのニューラル・リンクを拒絶していた。
だが、今は違う。
生き残るために、敵を破壊するために、彼は自らその『深淵』へと手を伸ばそうとしていた。
「システム・ヴォルフラム」
レイは、血の滲む唇を開き、かつて自分が捨て去ったはずの忌まわしき呪文を紡いだ。
「――生体セーフティ、強制解除。ニューラル・リンク、リミット・オフ」
『……警告。神経同期率をセーフティラインから解放した場合、パイロットの自我境界に修復不可能なダメージを与える危険性が……』
「御託はいい。やれッ!」
レイがコンソールのロックカバーを叩き割り、中の赤いスイッチを押し込んだ瞬間。
「が、ぁ、あぁぁぁぁぁッ!!」
レイの肉体が、コックピットシートの上で大きく跳ね上がった。
首筋の端子が、さらに深く、頸椎の神経束そのものに食い込むような暴力的な侵ルを感じる。
パイロットスーツの内側で、何本もの血管が破裂したかのように、熱いものが皮膚の下を駆け巡る。眼球の毛細血管が切れ、レイの視界が文字通り真っ赤に染め上げられた。
それは、人間と機械の境界線が完全に溶け落ちる感覚だった。
ヴォルフラムの核融合ジェネレーターの脈動が、自分の心臓の鼓動となる。機体の冷たい金属装甲が、自分の皮膚となる。
そして、システムに組み込まれた「敵を殲滅せよ」という純粋な殺戮のアルゴリズムが、レイの人間としての感情、倫理観、そして痛覚を、すべて真っ白に塗り潰していった。
「あ……はは……っ」
激痛の向こう側。
レイの口から、乾いた笑い声が漏れた。
恐ろしいほどの全能感が、脳内麻薬と共に全身を満たしている。もはや、巨大なモビルアーマーの姿すら、ただの「解体すべき肉の塊」にしか見えなかった。
全天周モニターの隅で、赤いデジタル数値が跳ね上がる。
【SYNCHRONIZATION RATE : 65% … 72% …】
「遅いな……止まって見えるぜ」
レイの瞳から、人間らしい光が完全に失われた。
漆黒の狼のツインアイが、狂気を宿したように血のように赤く発光する。
ヴォルフラムは、もはや機動兵器の動きではなかった。
関節の負荷限界を無視し、スラスターの推進剤を爆発的に燃焼させた、悪夢のような超加速。
巨大モビルアーマーが放つ無数のミサイルやレーザーの雨を、レイは紙一重のステップと機体の捻りだけで完全に回避していく。被弾を恐れる防御の概念などない。ただ、一直線に敵の心臓部を目指す、純粋な殺意の結晶。
「そこだ」
モビルアーマーが、再びメガ粒子砲を放とうと、機体中央の砲門を開いた瞬間。
レイは、その砲身の真正面へと自ら飛び込んだ。
自殺行為に等しいその位置取りに、敵のパイロットが驚愕の通信波を発したのが、レイの脳内に直接響く。
だが、その動揺はレイの計算通りだった。
敵が引き金を引くその一瞬の躊躇い。そのコンマ数秒の隙間に、レイはヴォルフラムの胸部装甲を展開した。
「喰らい、尽くせ」
機体のジェネレーター出力を限界まで引き上げた、ビーム・スマッシャーのゼロ距離射撃。
漆黒の機体の胸部から放たれた極太の閃光が、充填中だったモビルアーマーのメガ粒子砲の砲口へと、真っ向から叩き込まれた。
エネルギー同士が衝突し、逃げ場を失った超高熱が、モビルアーマーの巨大な機体内部へと逆流していく。
ギィィィィィィンッ……!!
装甲の内側から爆発が連鎖し、巨大な甲殻のあちこちから、血を噴き出すようにプラズマの炎が噴出した。
「まだだ。まだ、死んでない」
レイは笑っていた。
狂気に歪んだ笑みを浮かべながら、両腕の高周波ブレードを最大出力で展開し、内部爆発で機能不全に陥った巨大モビルアーマーの装甲へと、獣のように飛びかかった。
切り裂き、抉り、引きちぎる。
機械の腕が装甲を剥がすたびに、レイ自身の腕が敵の肉を引き裂いているような生々しい感触が、彼の脳髄を甘く痺れさせる。
『警告。警告。同期率、危険域を突破』
コックピット内で、システムの絶叫のようなアラートが鳴り響く。
【SYNCHRONIZATION RATE : 81% … 84% …】
「もっとだ……もっと、力を寄越せッ!」
レイはアラートを無視し、血走った目でコンソールを叩き壊さんばかりに操縦桿をねじ伏せた。
自己の崩壊。
レイ・ヴァンガードという人間の意識が、漆黒の深淵へと完全に沈み込んでいく。
音のない宇宙空間で、圧倒的な質量の死が、ゆっくりと、しかし確実に訪れようとしていた。
巨大モビルアーマーの内部深くに叩き込まれたエネルギーは、機体の核融合ジェネレーターの制御を完全に破壊していた。装甲の継ぎ目という継ぎ目から、超高温のプラズマが血飛沫のように噴出し、絶対零度の虚空に白く輝く軌跡を描き出している。
だが、漆黒の狼――『ヴォルフラム』の動きは止まらなかった。
「あはっ……あははははッ!」
コックピットの中。レイ・ヴァンガードの口から絶え間なく漏れ出すのは、もはや人間のそれとは思えない、狂気に満ちた哄笑だった。
彼の両目は大きく見開かれ、毛細血管が破裂した赤い瞳孔が、全天周モニターに映る「破壊される巨大な鉄の塊」の光景を貪るように見つめている。
【SYNCHRONIZATION RATE : 86%】
コンソールに表示される赤いデジタル数値は、すでに設計上の安全限界を遠く超え、パイロットの脳神経を不可逆的に焼き切る領域へと突入していた。
だが、今のレイにその痛みはない。肉体的な苦痛はすべて、システム・ヴォルフラムによって切断・麻痺させられていた。代わりに脳を支配しているのは、純度の高い『殺戮の快楽』だった。
敵の装甲を引き裂き、内部構造を蹂躙するたびに、極上の麻薬が神経細胞の隅々にまで行き渡るような甘い痺れ。
(壊せ。すべて壊せ。俺を縛る、すべてのものを)
レイの意識の底で、あの銀髪の男が嬉々として囁いている。
ヴォルフラムは両腕の高周波ブレードを限界出力のまま、動かなくなった巨大モビルアーマーの巨体に何度も、何度も突き立てた。すでに完全に沈黙している敵機のセンサー・マストを切り落とし、ひしゃげたクローアームを根本から切断する。
それは戦闘ですらなかった。狩った獲物を無残に弄ぶ、獣の狂宴だった。
やがて、モビルアーマーのジェネレーターが臨界点を超えた。
真空の宇宙に、巨大な紫色の火球が音もなく膨張し、星屑の光を完全に呑み込んだ。
凄まじい爆発の衝撃波とデブリの雨がヴォルフラムを襲うが、レイは機体の姿勢制御スラスタを巧みに操り、爆炎を背にして悠然と虚空へと舞い上がった。
「……終わったか。脆い。脆すぎる」
レイは微かな不満を漏らし、血の滲んだ唇を舐めた。
脳髄が熱い。もっと、何かが足りない。この有り余る全能感と破壊衝動を叩きつける対象が、どこかにいないか。
漆黒の機体のツインアイが、血のように赤く瞬き、周囲の暗礁宙域を舐め回すように索敵を始めた。
直後、レーダーの端に、一つの微小な熱源反応が捉えられた。
距離、約三千。爆発の衝撃でデブリの影から押し出された、古びた民間船のシルエット。
「……見つけた」
レイの狂気に濁った瞳が、獲物を見つけた捕食者のように細められた。
それが誰の船であるか、自分が何を護衛していたのか、そんな記憶はすでにニューラル・リンクの泥沼の底に沈殿し、彼の手の届かない場所にあった。
システムが提示した『動く熱源』。それはすなわち、排除すべき『敵』だ。
ヴォルフラムが機体を反転させ、右腕のビーム・スマッシャーの銃口を、その微小な熱源――『ラッキースター号』へと真っ直ぐに向けた。
「な、なんだってんだよ……っ!」
一方、ラッキースター号のコックピットは、絶望的なパニックに包まれていた。
トビーは操縦桿にしがみつきながら、広角スクリーンに映し出された信じられない光景に、声を引きつらせていた。
「バケモノ(モビルアーマー)を倒したのに、どうしてこっちを向いてるんだよ! レイ! 聞こえてるか、レイ!!」
トビーが通信機に向かって絶叫する。
その後ろで、セリアは床にへたり込んだまま、青ざめた顔でスクリーンを見上げていた。
漆黒の機体は、彼らを守るための盾ではなく、死神の鎌のように銃口をこちらに向け、冷却を終えたビームのエネルギーをじりじりと充填し始めている。
機体の挙動から、明らかな『殺意』が伝わってくる。
「……レイの意識が、機体に飲み込まれてしまったのよ」
セリアは震える声で呟いた。
「彼は今、自分が何をしているのかも分かっていない。ただ、目に映るものをすべて壊そうとしている……」
「冗談じゃねえ! あいつ、本当に俺たちを消し炭にする気か!?」
トビーがメインスラスターを吹かそうとするが、先ほどの爆発の衝撃と回避行動で、船の駆動系はすでに限界を迎えており、エラー音が虚しく響くばかりだった。逃げる足すらない。
(このままじゃ、殺される……。レイの手で……)
セリアの胸の奥底から、どうしようもない悲しみが込み上げてきた。
死ぬことへの恐怖ではない。彼が、レイ・ヴァンガードという不器用で、本当は誰よりも傷ついている人間が、自分自身の意思すら奪われ、ただの殺戮マシーンとして味方を殺してしまうこと。
もし彼が正気を取り戻した時、その罪の重さに、彼の魂は完全に砕け散ってしまうだろう。
「させない……っ」
セリアはよろめきながら立ち上がり、トビーを押しのけるようにして通信コンソールにすがりついた。
軍用レベルの暗号通信波を、ヴォルフラムのコックピットへ直接、強制的にねじ込む。
「レイ! レイ・ヴァンガード!! 聞こえる!? 私よ、セリアよ!!」
ノイズ混じりの静寂。
返事はない。しかし、セリアは喉が千切れるほどの声で叫び続けた。
「思い出して! あなたはただの兵器じゃない! 私を助けてくれた、あの時のあなたは、あなた自身の意志だったはずよ!!」
その声は、ヴォルフラムのコックピット内に響き渡った。
だが、完全に暴走状態に陥っているレイの耳には、それはただの鬱陶しい耳障りなノイズにしか聞こえなかった。
「……うるさい。黙れ」
レイは顔をしかめ、通信を切ろうとコンソールに手を伸ばした。
だが、その時。
「……っ!」
右手の指先が、不自然に硬直した。
(なんだ……?)
システムが麻痺させているはずの肉体に、わずかな違和感が走る。
『私を助けてくれた、あなた自身の意志だったはずよ』
ノイズの向こう側から聞こえたその言葉の断片が、厚い氷に覆われたレイの自我の底を、ほんのわずかに叩いたのだ。
しかし、システム・ヴォルフラムはそんなパイロットの迷いを許容しない。
同期率が一時的に跳ね上がり、強烈な電気信号がレイの脳に送り込まれる。
「が、ぁ……っ!! 邪魔を……するなッ!!」
レイは理不尽な怒りに任せ、ラッキースター号へ向けてビーム・スマッシャーのトリガーに指をかけた。
充填率は100%。引き金を引けば、すべてが終わる。
「駄目だ、もうもたねえ!!」
トビーの顔面が蒼白から、死を覚悟した決死の形相へと変わった。
「セリア、何かに掴まってろ! 舌を噛むぞ!!」
トビーは操縦桿を、逃げる方向ではなく、漆黒の機体が待ち構える『正面』へと限界まで倒し込んだ。
同時に、安全装置を物理的に破壊し、船の補助ジェネレーターの動力をすべて前進用のスラスターへと強制バイパスさせる。
「トビー!?」
「あいつの目を覚まさせるには、ぶっ叩いて外からショックを与えるしかねえ!!」
ラッキースター号のメインエンジンが、設計上の限界を超える異常な悲鳴を上げた。
尾部から血のように赤い炎を噴き出し、ボロボロの密輸船は、自らを巨大な質量弾と化して、ヴォルフラムへと一直線に突進していく。
「消えろぉぉッ!!」
レイが引き金を引こうとした、まさにそのコンマ一秒の差だった。
視界を覆い尽くすほどの巨大な船のシルエットが、回避不能の速度で漆黒の機体に激突した。
ドゴォォォォォォンッ!!
宇宙空間に、衝撃波による波紋が広がる。
ラッキースター号の船首がひしゃげ、ヴォルフラムの胸部装甲に激しくのめり込んだ。両者の質量が凄まじい運動エネルギーとなって反発し合い、コックピット内のレイを、内臓が飛び出るかと思うほどのすさまじい衝撃が襲う。
「が、はぁッ……!?」
物理的な激突の衝撃は、機体とレイの神経を繋ぐニューラル・リンクの伝達回路に、致命的なエラーを発生させた。
【WARNING : CONNECTION LOST】
システムがけたたましい警告音を発した直後、安全装置が強制的に作動し、レイの首筋に深々と突き刺さっていた無数の端子が、バチバチと火花を散らしながら一斉に弾け飛んだ。
「あ、あぁ……っ……!」
強制的な切断。
それは、深海から一気に水面へと引き上げられたような、急激な減圧症にも似た激痛だった。
全天周モニターの視界がブラックアウトし、レイの肉体はコックピットシートに力なく投げ出された。
荒れ狂っていた破壊のアルゴリズムが霧散し、空白となった脳内に、ジャンク屋としての『レイ・ヴァンガード』の意識が、泥水のようにドクドクと流れ込んでくる。
ゼェ、ゼェ、と、肺が破れんばかりの荒い呼吸。
視界が徐々に回復し、メインモニターの非常用カメラが、目の前の光景を映し出した。
「……え……?」
そこにあったのは、敵ではない。
船首を無残にひしゃげさせ、スラスターの火も消え、今にもデブリに成り果てそうな『ラッキースター号』の痛々しい姿だった。
そして、自分の操るヴォルフラムの右腕が、今まさにその船のコックピットめがけて、致命的なビームを放とうと銃口を突きつけている事実。
(俺は……何を、しようと……)
レイの手が、ガタガタと激しく震え始めた。
自分が、セリアとトビーを殺そうとしていた。
敵を倒すためではなく、ただの破壊衝動に飲まれて、自分を信じてくれた人間を、この手で灰に変えようとしていたのだ。
『……レイ……! レイ、無事なの!?』
通信機から、ノイズにまみれたセリアの震える声が響いた。
それは、死の淵から生還した安堵と、レイを気遣う優しさに満ちていた。自分を殺そうとした化け物に対して、彼女はまだ、そんな声を出せるのか。
「……ぁ……あ……」
レイの喉から、言葉にならない呻きが漏れた。
彼は自分の両手を見た。血と機械油に塗れたその手が、底知れぬ狂気に染まった己の魂の形そのものに見えた。
「俺に近づくな……ッ!」
レイはコンソールを叩き割り、通信を強制的に遮断した。
暗いコックピットの中。
彼は膝を抱え、まるで怯える子供のように身を丸めた。
記憶の封印が解け、自分が何者であったかを知ってしまった今、彼を最も恐れさせていたのは、敵の強大さでも、連邦の追っ手でもなかった。
自分の奥底に眠る、人間性を完全に失った『化け物』の存在。
果てしない宇宙の静寂の中で、レイは声なき絶望の淵に突き落とされていた。




