4.猟犬たちの夜
けたたましく鳴り響く警報のサイレンが、薄暗い貨物室を不吉な朱色に染め上げていた。
壁面の非常灯が明滅するたび、漆黒の機体『ヴォルフラム』の禍々しいシルエットが、暗闇の中から浮かび上がっては消える。
「くそっ、くそっ、くそぉっ!」
トビーは足場の上で頭を抱え、半狂乱になって叫んだ。
「追撃部隊だ! 連邦のブラックオプスどもが、ビーコンの信号を追ってきやがったんだ! 船の推進器をフル稼働させても、追いつかれるのは時間の問題だぞ!」
恐怖で声を引きつらせる少年を尻目に、レイの心は、奇妙なほど静まり返っていた。
先ほどまで彼を苦しめていた激しい頭痛も、不快な動悸も、まるで嘘のように消え失せている。代わりに全身を満たし始めたのは、氷のように冷たく、そして限りなく透明な「虚無」だった。
危機的状況に直面したことで、ジャンク屋としてのレイ・ヴァンガードの意識が後退し、奥底に眠る「兵士」としての本能が、肉体の主導権を強引に奪い取ったのだ。
「トビー」
レイの声には、一切の感情が乗っていなかった。
「船の出力の7割を、後部ハッチの開閉機構とデブリシールドに回せ。残りの3割で姿勢制御を維持しろ」
「は……? 何言ってんだよ、レイ! 逃げなきゃ……」
「逃げ切れないのはお前が一番よくわかっているはずだ。振り切れないなら、ここで迎撃する。ハッチを開けろ」
レイは足場から軽やかに飛び降りると、ヴォルフラムの脚部から垂れ下がっていた昇降用ワイヤーを掴んだ。
その時、貨物室の重い扉が開き、キャビンからセリアが転がり込んできた。彼女は壁のモニターに映る無数の赤い光点――迫り来る敵機の大群――を見て、顔面を蒼白にしていた。
「レイ! あなた、まさか出るつもりなの!?」
「……」
「無茶よ! 相手は軍の特殊部隊の一個中隊はいるわ。いくらその機体が強力でも、たった一機で勝てるわけが……」
「セリア」
レイは昇降ワイヤーのスイッチに手をかけたまま、肩越しに彼女を振り返った。
その瞳を見た瞬間、セリアは息を呑んで言葉を失った。
先ほどまで彼女に向けられていた、苛立ちや拒絶の感情すらない。そこにあるのは、完全に無機質な、人間というよりは精密な照準器のような眼差しだった。
「どこかに掴まって祈ってろ。邪魔だ」
それだけを言い残し、レイはワイヤーに巻き上げられて漆黒のコックピットへと姿を消した。
重厚な音を立ててハッチが密閉される。
外界のパニックから完全に遮断された静寂空間。だが、レイが操縦桿を握り込んだ瞬間、その静寂は暴力的な情報の奔流によって打ち砕かれた。
『――網膜パターン照合。神経波形、一致。システム・ヴォルフラム、再起動』
首筋に、冷たい蛇が這い寄るような感覚。次いで、無数の極細端子がパイロットスーツを貫通し、レイの神経系へと深く突き刺さる。
「っ……!」
一瞬の鋭い痛みの後、血液が沸騰するような熱が全身を駆け巡った。全天周モニターが起動し、真空の暗闇が三次元情報として脳内に直接展開される。
船外の温度、真空度、デブリの軌道、そして――背後から迫る八機の高機動型モビルスーツの熱紋。
『ハッチ、開けるぜ! 死ぬなよ、レイ!』
通信機越しに響くトビーの悲痛な叫びと共に、ラッキースター号の後部貨物扉がゆっくりと重い口を開いた。
一気に空気が宇宙空間へと吸い出されていく。
レイはペダルを踏み込んだ。ヴォルフラムの背面に備えられた大推力スラスターが、青白いプラズマの炎を噴き上げる。
漆黒の狼は、音のない星の海へと身を躍らせた。
真空の宇宙は、絶対的な無音の世界だ。
だが、ニューラル・リンクを通じて機体と一体化したレイの脳内には、宇宙線が機体を叩く微細な摩擦音すらも「感覚」として響いていた。
振り返れば、星々の瞬きを遮るようにして、暗緑色に塗装された連邦軍の特殊作戦機『ファントム』が八機、扇形の陣形を組んで猛烈なスピードで迫ってきていた。
各機の両腕には、高出力のビーム・ライフル。光学迷彩の機能をあえて切り、圧倒的な数と質量で威圧してくる猟犬たちの姿だ。
敵の中央に位置する指揮官機が、無言のまま先制の引き金を引いた。
音のない閃光。
絶対零度の空間を切り裂き、極太のビームの束がレイの機体へと殺到する。
「……遅い」
レイの唇から、機械の合成音のような呟きが漏れた。
思考するよりも早く、肉体が反応する。操縦桿を限界まで引き倒し、姿勢制御バーニアを不規則に吹かす。
ヴォルフラムは、物理法則を嘲笑うかのような鋭角的な軌道で宇宙空間を滑った。殺到するビームの雨を、機体ひとつ分の隙間を縫うようにして、流麗に回避していく。
かすめたビームの超高温が装甲を炙る熱すらも、レイは自身の皮膚の熱さとして感じ取っていた。
(標的、八。距離三千。第一目標、左翼の二機)
レイの意識から、恐怖も、焦りも、生き延びたいという願いすらも完全に消失していた。
ただ、眼前に存在する「敵」という障害物を、いかに効率よく、いかに確実に排除するか。その冷徹な殺意のアルゴリズムだけが、機体の演算処理と同調して脳髄を支配していく。
「排除する」
ヴォルフラムが右腕を振り上げた。内蔵されたビーム・スマッシャーの銃口が展開し、暗闇に閃光を放つ。
放たれた光の槍は、回避行動を取ろうとした左翼のファントムの胴体を、まるで紙切れのように正確に貫いた。
真空の宇宙では、爆発の音は鳴らない。ただ、膨張したオレンジ色の火球が音もなく咲き誇り、瞬時に冷えて宇宙の塵へと変わっていくのみだ。
仲間が一瞬で蒸発した光景に、敵の陣形がわずかに乱れる。
『なんだあの動きは!? データにないぞ!』
漏れ聞こえる敵兵の狼狽した通信波。
レイはその動揺を見逃さなかった。
スラスターを全開にし、発生したデブリの影を利用して急接近する。距離は一気にゼロへ。
二機目のファントムが慌ててライフルを構えるが、ヴォルフラムの加速は常軌を逸していた。レイは敵の銃口の下を潜り抜けると同時に、左腕の高周波ブレードを展開する。
青白いプラズマの刃が、ファントムの腰部ジェネレーターを斜めに薙ぎ払った。
すれ違いざまの、一切の無駄を省いた一撃。
反撃の隙すら与えられず、二機目の敵機が真っ二つに両断され、沈黙の爆発を起こす。
(次)
息をつく間もない。レイの目はすでに、フォーメーションを立て直そうとする残りの六機を冷酷に捉えていた。
殺意が、油を注がれた炎のように全身を駆け巡る。
もっと早く。もっと正確に。すべての障害を切り刻めと、機体がレイの精神に囁きかけている。神経を繋ぐ端子がドクドクと脈打ち、限界を超えたアドレナリンが脳内麻薬となって分泌される。
レイは両腕のブレードを構え、自ら敵の密集陣形の中央へと突撃した。
全天周モニターに映る世界が、スローモーションのように感じられる。敵のパイロットが操縦桿を動かす筋肉の収縮すらも、機体の挙動から予測できるような全能感。
「死ね」
感情のない言葉と共に、漆黒の狼が舞った。
三機目のライフルをブレードで弾き飛ばし、そのままコックピットを突き刺す。
四機目の頭部を蹴り飛ばし、メインカメラを破壊した直後にビーム・スマッシャーで至近距離から粉砕する。
五機目、六機目。
宇宙空間に血の雨は降らない。だが、レイの精神は確かな殺戮の感触に満たされ、恐ろしいほどの快感に打ち震えていた。
それは、かつて戦場だけを居場所としていた「誰か」の記憶。その記憶の残滓が、レイの肉体を完全に操り人形にしていた。
「……あ、ぁ……っ」
不意に、レイの喉から苦しげな声が漏れた。
強すぎるニューラル・リンクの負荷が、彼の自我を押し潰し始めている。全能感の裏側で、自分が人間から単なる兵器の部品へと成り下がっていく恐怖が、微かに警鐘を鳴らしていた。
だが、残る敵がそれを許さない。
『化け物め……ッ!』
最後尾で待機していた指揮官仕様のファントム――全身を濃紺に染め、巨大なビーム・ハルバードを構えた機体が、怒りに満ちた推進炎を上げて突進してきた。
凄まじい質量を乗せたハルバードの一撃が、ヴォルフラムの頭上から振り下ろされる。
レイは反射的に両腕のブレードを交差させ、その一撃を受け止めた。
ガァァァァンッ!!
機体同士が激突し、プラズマの刃が火花を散らしてせめぎ合う。
強烈な衝撃がコックピットを揺らし、レイは奥歯が砕けそうなほど食いしばった。
至近距離での鍔迫り合い。
指揮官機のパイロットは、メインカメラ越しに漆黒の機体――ヴォルフラムの不気味なバイザーを睨みつけていた。そして、信じられないものを見るかのように、機体の挙動データを解析し続けた。
無駄の一切ない、機械的でありながら獣のような剣捌き。
防御を最小限に留め、被弾のリスクを背負ってでも急所を確実にえぐり取る、狂気じみたカウンターの姿勢。
それは、連邦軍のいかなる教本にも載っていない、過去の「忌まわしき記録」にのみ記された、特異な戦闘アルゴリズムだった。
ノイズ混じりのオープン通信回路が、不意に開かれた。
指揮官の震える声が、レイのコックピット内に直接響き渡る。
『……その、動き……。装甲は違えど、間違いない……』
濃紺のファントムが、鍔迫り合いの中でわずかに後退し、まるで幽霊でも見るかのように機体を震わせた。
『馬鹿な……。記録はすべて抹消されたはずだ……! なぜ、こんな辺境の宙域にいる……!?』
「……何を、言っている」
レイは濁った意識の中で、敵の言葉に微かな苛立ちを覚えた。早く目の前の敵を排除しなければ。それだけが、今の彼を満たす唯一の思考だった。
しかし、指揮官の口から絞り出された次の言葉が、レイの思考回路を根底からフリーズさせた。
『まさか……あの亡霊か? 大戦の汚物、プロジェクト・ナンバーズの生き残り……“No.07(セブン)”かッ!?』
その単語を聞いた瞬間。
レイの脳内で、厳重に施されていた記憶の鎖の一つが、けたたましい音を立てて弾け飛んだ。
『No.07』――。
その無機質な単語が、通信回路から鼓膜へと滑り込んだ瞬間だった。
レイの脳髄の奥底で、厳重に幾重にも掛けられていた目に見えない『鍵』の一つが、けたたましい金属音を立てて弾け飛んだ。
「……あ……、ぁ……っ!?」
呼吸が止まった。
心臓が、まるで冷たい手で直接鷲掴みにされたかのように不自然な拍動を打つ。
首筋に突き刺さったニューラル・リンクの接続端子から、致死量にも等しい高圧のデータ電流が逆流してきた。全天周モニターの光が激しくノイズを起こし、網膜を通じて流れ込んでくる空間情報が、処理限界を超えて暴走を始める。
痛い。熱い。苦しい。
だが、それらすべての生理的な拒絶反応を呑み込むほどの、圧倒的な『力の奔流』がレイの肉体を内側から膨張させていく。
(なんだ……この、感覚は……!)
レイは操縦桿から手を離そうとした。だが、指先は硬直したかのようにグリップに張り付き、微動だにしない。いや、自分の意志で握っているのか、機体がレイの肉体を縛り付けているのか、その境界線すらも曖昧に溶け出していた。
全能感。
宇宙のチリ一つの動き、数千メートル離れた敵機のジェネレーターの微細な熱変動、己の心拍の波形。そのすべてを、まるで神の視座から見下ろしているかのように完璧に把握できる。
世界が、恐ろしいほどに遅く見えた。
『ば、化け物めッ! 大戦の亡霊が、なぜ今頃になって……!』
鍔迫り合いをしていた指揮官機のパイロットが、恐怖に引きつった声を上げる。
濃紺のファントムが、推進器から異常なほどの火を噴いて後退しようとした。距離を取り、体勢を立て直そうという常套手段だ。
「……逃がすか」
レイの口を突いて出たのは、自身の声帯を使っているにもかかわらず、まるで別人のように低く、冷え切った声だった。
思考が介在する余地はない。脳細胞が指令を出すよりも早く、脊髄と直結したヴォルフラムが反応した。
漆黒の機体は、後退しようとするファントムの動きを完全に先読みしていた。
スラスターの推力ではなく、機体の質量移動と姿勢制御のみを利用した、不気味なほどの無音の跳躍。ファントムが距離を離そうと背を向けたその瞬間には、すでにヴォルフラムはその後頭部の真上に位置していた。
『なっ……!? 消え――』
指揮官の絶叫は、最後まで通信回路に乗ることはなかった。
上段から振り下ろされたヴォルフラムの右腕――高周波ブレードの青白い閃光が、ファントムの頭部から左肩にかけての分厚い装甲を、まるで薄氷を割るかのように容易く叩き斬った。
プラズマの超高熱が電子回路を焼き切る閃光。
装甲の断面から白煙と火花が噴き出し、次いで、行き場を失った核融合ジェネレーターのエネルギーが臨界点に達する。
レイは、己の腕の延長であるブレードが、敵パイロットの肉体ごとコックピットを焼き尽くす感触を、神経の末端で『生々しく』味わっていた。
人の命が消える、ぬるりとした嫌な感触。
だが、その感触はレイの精神に、背筋が凍るほどの甘い快感をもたらした。
(もっと、殺せる。もっと、壊せる)
飢えた獣が血の味を覚えたように、脳の奥底で狂気的な衝動が暴れ狂う。レイは声にならない絶叫を上げながら、爆散するファントムの残骸を蹴りつけ、さらに次の標的を探して虚空を睨みつけた。
しかし、周囲にはもう、動くものは何もなかった。
無数のスクラップと化した連邦軍特殊部隊の残骸が、絶対零度の宇宙空間を静かに漂っているだけだ。
『警告。交戦規定終了。周辺宙域に敵性反応なし』
システム・ヴォルフラムの冷徹な合成音声が、コックピット内に響く。
だが、レイの闘争本能は収まらない。ニューラル・リンクの同期率は、安全圏である40パーセントをとうに超え、危険域の80パーセントへと急上昇を続けていた。
「はぁっ……はぁっ……! 止まれ、止まれよ……ッ!」
レイは自分自身の腕を抱きかかえるようにして、身をよじった。
自分の精神が、泥沼に沈み込むように漆黒の機体へと同化していく。自分はジャンク屋のレイ・ヴァンガードだ。血の匂いなど望んでいない。平穏な日陰の生活だけを望んでいたはずだ。
だが、機体を通して引きずり出された『No.07』としての戦闘記憶が、今の彼というちっぽけな人格を完全に塗り潰そうとしている。
全天周モニターの星空が、グニャリと不自然に歪んだ。
視界の端が赤黒く変色し、ノイズが走る。首筋の端子から流れ込むデータが、ついに現在と過去の境界線を破壊したのだ。
「……あ……?」
コックピットの匂いが変わった。
宇宙用スーツの循環フィルターを通した無機質な空気から、タンパク質が焦げる強烈な悪臭と、火薬の硝煙の匂いへ。
耳元で、静寂だったはずの宇宙に、轟々たる炎の爆ぜる音と、人々の悲鳴が響き始めた。
幻覚だ。わかっているのに、レイの肉体はその凄惨なリアリティに囚われて動くことができない。
モニターに映っていた星の海が完全に消え失せ、彼の視界は、業火に包まれた巨大なコロニーの内部へと強制的に切り替わった。
(ここは……どこだ……!?)
ひしゃげた人工大地。崩落していく市街地の高層ビル群。
逃げ惑う市民の頭上を、無数の軍用機が飛び交い、容赦なく爆撃を雨あられと降らせている。赤く染まった擬似空から降り注ぐ灰は、まるで血の雪のようだった。
その地獄の風景のど真ん中に、レイ自身が『立って』いた。
自分の手を見る。ジャンク屋の油まみれの手ではない。血で汚れ、ぴったりとした軍用のパイロットスーツに包まれた手。その右腕には、バーコードのような不気味な刺青が刻まれている。
『――見ろよ、セブン。綺麗だろ?』
不意に、すぐ背後から声がした。
鼓膜を震わせるのではなく、脳髄に直接語りかけてくるような、酷く冷たくて、それでいて甘い毒のような声。
レイが息を呑んで振り返る。
燃え盛る炎を背にして、一人の男が立っていた。
レイと同じ、拘束着のようなパイロットスーツを身に纏い、その上から返り血を浴びている。男の年齢は、今のレイより少し上くらいだろうか。透き通るような白磁の肌と、炎の明かりを反射して妖しく輝く、長い銀色の髪。
男の顔は、この世の終わりのような惨状の只中にありながら、恍惚とした笑みを浮かべていた。
その瞳は、絶対的な狂気と、底なしの虚無を湛えている。
「お前は……誰だ……っ」
レイは後ずさりしようとしたが、足が鉛のように重く、一歩も動けなかった。
銀髪の男は、怯えるレイを見るなり、その薄い唇をさらに深く吊り上げた。そして、血まみれの手をゆっくりとレイの方へと差し伸べる。
『忘れたのか? 俺たちをゴミのように扱ったこの世界を、一緒に壊すと誓ったじゃないか』
男の目が、レイの存在のすべてを見透かすように細められる。
『思い出せ、俺の可愛い弟。お前は、人殺しのために作られたただの兵器だ。人間ごっこは、もう終わりにしようぜ』
「違う……! 俺は、俺はッ……!!」
レイが喉を引き裂くような絶叫を上げた瞬間。
銀髪の男の背後にそびえ立つ、純白の悪魔のようなモビルスーツが、その巨大な腕を振り下ろした。
圧倒的な光がレイの視界を真っ白に染め上げる。
「レイ!!」
通信機越しに響く、セリアの必死の叫び声が遠く聞こえた気がした。
だが、それに答える余裕はもう、レイには残されていなかった。
ニューラル・リンクの過負荷によって脳神経が限界を超え、レイの意識は暗い、深い深淵の底へと、完全に叩き落とされた。




