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鋼鉄の亡霊は星に問う  作者: guil727


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3.星海への出航

錆びついた金属の匂いと、鼻を突くような劣化したオゾン臭。

ジャンク屋の少年トビーが誇る密輸船『ラッキースター号』のコックピットは、そのふざけた名前に反して、お世辞にも快適とは言えない空間だった。

むき出しになった無数の配線が壁や天井を蛇のように這い回り、計器類の半分はひび割れたり、ガムテープで乱暴に補修されたりしている。薄暗い非常灯の下で、狭いキャビンには重油とカビの入り混じった空気が澱んでいた。


「シートベルト、しっかり締めとけよ! こいつの加速はちょっとばかり乱暴だからな!」


トビーは自分の身体よりも大きなパイロットシートにすっぽりと収まり、油まみれの手でコンソールのスイッチを次々と弾いていく。彼の指先が動くたび、船体全体がまるで巨大な獣が寝起きに身震いするかのように、不吉な軋み音を立てた。

しかし、そのオンボロな外観とは裏腹に、背面に積まれた魔改造のメインスラスターからは、内臓を揺らすような力強いアイドリングの重低音が響き始めている。


後部座席に押し込まれたセリアは、硬いシートに身体を沈めながら、不安げに周囲を見回していた。

つい数時間前まで、彼女は連邦軍が誇る最新鋭の豪華な輸送艦の特等室にいたのだ。それが今や、命からがら逃げ込んだ薄汚れた密輸船で、いつ追っ手に撃ち落とされるかもわからない状況に置かれている。

彼女はギュッと両手を握り合わせ、自分の震えを抑え込もうと必死だった。


その斜め前、副操縦席に腰を下ろしたレイは、驚くほど無防備な姿勢で背もたれに体重を預けていた。

彼は窓の外――コロニーのドックに広がる暗闇――を冷めた目で見つめたまま、口を開いた。


「おい、お姫様」

「……セリアよ。セリア・アークライト」

「どっちでもいい。本題に入ろう」


レイは振り返りもせず、淡々とした声で言った。

「俺がさっきあんたを助けたのは、あくまで自分の命を守るためのついでだ。だが、ここから先、地球の特務機関とやらまであんたの道連れになるなら話は別だ。俺の日常は完全にぶっ壊された。あの漆黒の機体ヴォルフラムも、成り行きとはいえ俺が動かすしかない状況だ」


「……わかっているわ。だから、報酬は払うと言ったはずよ」

「連邦の特別口座なんて信用できるか。あんたの命を狙っているのは、その連邦の人間なんだぞ。口座ごと凍結されるのがオチだ」

「じゃあ、どうしろって言うの?」


セリアの少し棘のある問い返しに、レイは初めて彼女の方へ顔を向けた。

その瞳には、金への執着も、大義への熱意も一切ない。ただ、冷徹な計算機のような光だけが宿っていた。


「現物支給、あるいは絶対に足がつかない無記名の電子通貨クリプトだ。前払いで百万、地球に降りて任務を終えたらさらに五百万。それと、俺が背負ってるこのコロニーでの借金の完全な帳消し。……これが、俺があんたの『護衛』を引き受ける条件だ。少しでも不満があるなら、この船が宇宙に出た直後に、あんただけポッドに入れて放り出す」


その法外な金額と、あまりにドライな突き放し方に、セリアは息を呑んだ。

(この人は、本気だ……)

先ほどのスクラップ場で、圧倒的な力を見せつけながらも、彼は一切のヒロイズムを持っていなかった。自分の命すらチップの一つとして数えるような、底知れぬ虚無。

だが、同時にセリアは悟っていた。今の自分には、彼のその「冷徹な打算」だけが、すがりつける唯一の現実なのだと。


「……いいわ。約束する。必ず支払うから、私を地球まで連れて行って」

セリアが唇を噛み締めながら頷くと、レイは「交渉成立だな」とだけ短く返し、再び前を向いた。


「へへっ、話はまとまったみたいだな! それじゃあ、ラッキースター号、いっちょ派手に飛ぶぜ!」


トビーが操縦桿を力強く手前に引いた。

直後、ドンッ! という爆発的な衝撃が船体を蹴り上げた。

「きゃあっ!?」

凄まじい重力加速度(G)が、セリアの華奢な身体をシートに強烈に押し付ける。内臓が背中に張り付くような吐き気と、視界の端が白くフェードアウトしていく感覚。

トビーの言う「ちょっとばかり乱暴」という言葉は、明らかな過小評価だった。軍の巡洋艦用のスラスターを無理やり積んだこの船の加速は、人間が耐えられる限界スレスレの狂気じみた推力を叩き出していた。


船は廃棄されたドックの天井を突き破らん勢いで急上昇し、コロニーの外殻へ向かって一直線に駆け上がる。

メインモニターには、コロニーの防衛システムが発するけたたましい警告の赤色光が点滅し、数機の連邦軍の無人迎撃機がスクランブルをかけてくるのが映っていた。


「振り落とされるなよ!」

トビーの歓喜に満ちた叫び声とともに、船はコロニーの巨大な廃ハッチの隙間を、文字通り紙一重で滑り抜けた。

機体を掠めた迎撃機のレーザーが、防眩フィルター越しに一瞬の閃光を放ち、船内に焦げ臭い匂いを充満させる。


そして――。

唐突に、荒れ狂っていた振動と轟音が、嘘のように消え去った。


「……っ」

セリアは恐る恐る、きつく閉じていた目を開けた。

圧倒的な静寂。

コックピットの広角スクリーンいっぱいに広がっていたのは、コロニーの錆びた天井でも、ドックの汚れた空気でもなかった。


漆黒。

底なしの、絶対的な暗闇。

そして、そこに氷の破片を散りばめたような、無数の星々の冷たい輝きだった。


コロニーという人工のゆりかごから放り出された者だけが見ることを許される、真の宇宙の姿。一切の音を拒絶する真空の世界が、彼らの乗る小さな船を圧倒的なスケールで包み込んでいた。


「すげえ……何度見ても、外の景色ってのは最高だな」

トビーがゴーグルを額に押し上げ、目を輝かせて呟く。セリアもまた、その恐怖を忘れるほどの美しさに、言葉を失ってスクリーンを見つめていた。


だが、レイだけは違った。


彼は副操縦席で、虚ろな目のまま、その星の瞬きをじっと見つめていた。

美しいとは思わなかった。ただ、あの星の光が、網膜を通じて自分の脳の奥底にある「何か」を鋭く刺激してくる感覚があった。


トクトク、と。

自分のこめかみで、不快な脈動が鳴り始める。


(……なんだ?)


レイは無意識に眉間に皺を寄せた。

首筋のあたりが、火傷をしたように熱い。先ほど『ヴォルフラム』と神経同期ニューラル・リンクを行った際に端子が突き刺さった場所だ。接続はとうに切れているはずなのに、まるで機体のシステムが未だに自分の神経回路に居座り、無理やり扉をこじ開けようとしているような感覚。


視界の端で、星の光が不自然に歪み始めた。

星屑の白い光が、じわじわと赤く変色していく。

宇宙の冷たい暗闇が、燃え盛る巨大な炎の渦へとすり替わっていく。


――『レイ』


聞こえるはずのない声が、脳内に直接響いた。

鼓膜を通した音ではない。頭蓋骨の内側から響く、酷く冷たくて、それでいてひどく優しい、男の声。


レイの視界が完全にフラッシュバックに支配される。

見慣れたコロニーの隔壁が崩れ落ち、無数の人々が炎の中で悲鳴を上げて焼かれていく。

その地獄のような光景の中心で、白銀の機体を背にした一人の男が立っていた。銀色の髪を血に染め、狂気を孕んだ笑みを浮かべて、こちらに手を差し伸べている。


――『お前も、こっち側に来い。俺たちの戦いは、まだ終わっちゃいない』


「……ぁ、がっ……!」


レイの口から、空気を引き裂くような呻き声が漏れた。

「レイ……?」

異変に気づいたセリアが、後部座席から身を乗り出す。


だが、レイには彼女の声は届いていなかった。

頭蓋を万力で締め上げられるような激痛。脳細胞が沸騰し、自分という個人の意識が、名も知らぬ巨大な「過去」に飲み込まれそうになる恐怖。

レイは操縦桿から手を離し、両手で自分の頭を抱え込むようにして身を丸めた。


「ぐ、うぅっ……! あぁぁぁッ!!」


「レイ!? ちょっと、どうしたの!?」

「おいおい、嘘だろ!? 怪我でもしてんのか!?」

セリアとトビーが慌てて声をかけるが、レイの耳には自身の荒い呼吸音と、あの銀髪の男の哄笑しか聞こえなかった。


平和な星海への出航は、彼の中に眠る亡霊が目覚めるための、残酷な儀式の始まりに過ぎなかった。

深く息を吸い込むこともできないほどの痛みの濁流の中で、レイの意識は暗い深淵へと急速に沈んでいった。

どれほどの時間、意識を手放していたのだろうか。


レイ・ヴァンガードが目を覚ました時、最初に感じたのは、微細な振動だった。

背中から伝わる硬いシートの感触と、規則正しく響く『ラッキースター号』の環境維持装置の低いハムノイズ。そして、口の中に広がる胃液の酸っぱい匂い。

ゆっくりと目を開けると、そこは薄暗いキャビンの中だった。非常灯の鈍いオレンジ色が、剥き出しの配管や無造作に積まれた工具箱のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせている。


「……あ……」


乾ききった喉から、かすれた声が漏れる。

レイは重い上体を起こし、こめかみを押さえた。頭蓋骨の裏側をヤスリで削られているような鈍痛が、まだ微かに残っている。額には冷や汗がびっしりと張り付き、着用しているジャンク屋の作業着はひどく湿っていた。

フラッシュバックの余韻。燃え盛る炎と、銀髪の男の哄笑。

夢だと思いたかったが、あれは間違いなくレイ自身の脳細胞に刻み込まれた「過去」の断片だった。あの漆黒の機体――『ヴォルフラム』のシステムと神経回路を繋いだ瞬間から、レイの中に厳重に施されていた何らかの精神的なロックが、音を立てて軋み始めている。


(俺は……一体、何を忘れているんだ……?)


手のひらを見つめる。油で汚れ、タコだらけの無骨な手。ジャンク屋として生きてきた数年間の記憶は確かにある。だが、それ以前の記憶は、濃霧に包まれたようにすっぽりと抜け落ちているのだ。これまでは「思い出す必要のないこと」として無意識に蓋をしていたが、今はその霧の奥から、底知れぬ狂気がこちらを覗き込んでいる感覚があった。


「……気がついたのね」


不意に、暗がりから声がした。

レイが視線を向けると、キャビンの隅にある折り畳み式の簡易ベッドの縁に、セリアが座っていた。

彼女は両膝を抱え込むようにして小さく丸まり、不安げなエメラルドグリーンの瞳でレイを見つめている。彼女の純白だったワンピースはすっかり汚れ、その表情には隠しきれない疲労と孤独の色が濃く滲んでいた。


「……どれくらい寝てた」

レイは声のトーンを意図的に落とし、感情を一切交えずに尋ねた。


「三時間くらいよ。突然苦しみ出して、気を失ったから……トビーが、自動操縦に切り替えてあなたをここまで運んだの」

「そうか」


レイはそれだけ言うと、立ち上がって壁面のロッカーから水筒を取り出し、生ぬるい水を一気に喉へと流し込んだ。

セリアは、そんなレイの横顔をじっと見つめていた。

彼女の胸の中には、無数の疑問と不安が渦巻いている。連邦軍の最高機密である機体を我が物顔で操る技術。軍の暗殺部隊の動きを瞬時に見抜く戦闘勘。そして、宇宙に出た途端に見せた、あの異常な発作。

彼はただのジャンク屋ではない。もっと深く、暗い何かを抱え込んでいる。


「ねえ」

セリアは、意を決したように口を開いた。

「あなたは……本当は、何者なの?」


船内に響くエンジン音だけが、二人の間の空間を埋めていた。

レイは水筒のキャップをゆっくりと閉め、振り返ることなく答えた。


「ただの運び屋だ。あんたを地球に送り届けて、金をもらう。それだけだ」

「嘘よ。あの『ヴォルフラム』の動き……あれは、正規の訓練を受けたパイロットの動きどころじゃなかった。それに、あの機体はパイロットの神経を直接焼き切るような欠陥システムがあるはずなのに、あなたは……」

「詮索するなと言ったはずだ」


レイの声が、目に見えない刃のように鋭く冷たくなった。

彼は振り返り、セリアを真っ直ぐに見据えた。その瞳には、一切の温もりがなかった。他者の侵入を徹底的に拒絶する、絶対零度の壁。


「俺の過去がどうだろうと、あんたの護衛任務には関係ない。あんたは俺に金を払い、俺はあんたを生かす。それ以上の関係を求めるな。お互いの素性に踏み込まないのが、裏社会のルールだ」

「でも……っ、私たちはこれから、命を懸けて一緒に……」

「『一緒に』じゃない。俺は俺の仕事をしているだけだ」


レイの言葉は、にべもなかった。

セリアは息を呑み、言葉に詰まった。

彼女は温室育ちの理想主義者だ。人と人が困難を共にすれば、そこには当然のように絆や信頼が生まれるものだと信じていた。だが、目の前にいる男は、その前提を根本から否定している。彼はセリアを「守るべき人間」としてではなく、単なる「高額な荷物」としてしか見ていないのだ。


冷たい宇宙空間を漂う小さな密輸船。その中で、セリアは圧倒的な孤独に打ちのめされた。

養父を失い、味方であるはずの連邦軍から命を狙われ、頼れるのは金で雇った得体の知れない男だけ。その男すら、自分に心を開く気は毛頭ない。

彼女は俯き、ギュッと唇を噛み締めて、滲み出そうになる涙を必死に堪えた。


レイはそんな彼女の様子を一瞥すると、小さく舌打ちをし、背を向けてコックピットの方へと歩き出した。

可哀想だとは思わない。情けをかければ、それは必ず自分の弱点になる。過去を暴かれる恐怖と、誰かと深く関わることへの本能的な忌避感が、レイを頑なな沈黙へと追いやっていた。


その時だった。


『――おい、レイ! 起きてるか!?』

船内スピーカーから、トビーの切羽詰まった声が響き渡った。

いつもはお調子者で軽口ばかり叩く少年の声が、ひどく上擦り、緊張に強張っている。


「どうした、トビー。追っ手か?」

レイは即座に壁の通信パネルのボタンを押し、短い言葉を投げ返した。沈んでいたセリアも、ハッとして顔を上げる。


『レーダーには何も映ってない! でも、それどころじゃねえんだ! 今すぐ後部貨物室カーゴベイに来てくれ!』

「何があった」

『あの黒いモビルスーツ……装甲の裏を調べてたんだが……最悪のモンを見つけちまった!』


レイの目の色が変わった。

彼はセリアに一瞥もくれず、キャビンを飛び出して後部貨物室へと続く狭い通路を駆け抜けた。


貨物室の重いハッチを開けると、そこはさらに薄暗く、油の匂いが充満する空間だった。

無骨なワイヤーと固定具で何重にも縛り付けられ、暗闇の中に鎮座する漆黒の巨人――『ヴォルフラム』。動いていないにもかかわらず、その機体はまるで息を潜める猛獣のように、底知れぬ威圧感を放っている。


その巨大な脚部の装甲パネルが剥がされており、足場に立っていたトビーが、懐中電灯の光を機体の内部構造に向けていた。


「遅いぜ、レイ! これを見ろ!」

トビーは顔面を蒼白にしながら、配線の奥の入り組んだ隙間を指差した。


レイが足場に跳び乗り、光の当たる先を覗き込む。

機体の内部骨格と動力パイプの隙間。素人なら絶対に見逃すであろう死角に、親指ほどの大きさの金属部品が、寄生虫のように張り付いていた。

その表面には、連邦軍の軍事規格を示す刻印と、一定の間隔で微弱な光を放つ赤いLEDランプが点滅している。


「……軍用のアクティブ・ビーコンか」

レイの口から、氷のように冷たい声が漏れた。


「ああ、そうだ。しかもただのビーコンじゃねえ。機体のジェネレーターから直接電力を引っ張る自立型の超広域発信機だ。俺たちがコロニーを出た瞬間から、ずっと軍の暗号回線で現在地を垂れ流し続けてやがったんだよ!」


トビーの声が震えていた。

つまり、彼らの逃走経路は、初めからすべて筒抜けだったということだ。

広大な宇宙空間に逃げ込んだと安堵していたのは彼らだけであり、実際には、目隠しをされたまま猟犬の檻の中に放り込まれたに過ぎなかった。


ピコン、ピコン、と。

無機質な赤い光が、まるで嘲笑うかのように暗い貨物室で明滅を繰り返す。


「取り外せるか?」

「無理だ! 無理やり引き剥がそうとすれば、起爆式のトラップが作動して機体の足を吹っ飛ばすように細工されてる。解除するには専用の暗号キーがいるんだ!」


トビーが髪を掻き毟りながら叫んだ、まさにその瞬間だった。


ウゥゥゥゥン……ッ!

『ラッキースター号』の船体全体に、警報のサイレンがけたたましく鳴り響き始めた。

同時に、貨物室の壁面に設置された簡易モニターが赤く染まり、絶望的な映像を映し出す。


『警告。後方宙域より、高エネルギー反応多数接近。距離五千。熱源識別……連邦軍、特殊追撃部隊』


レイは目を細め、チッと短く舌を打った。

沈黙の航路は、あっけなく終わりを告げた。

血の匂いを嗅ぎつけた猟犬たちが、ついに彼らの喉元まで迫っていた。

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