19.新たなる夜明け
規則的な電子音が、遠い波の音のように意識の底を撫でていた。
「……ピーッ……ピーッ……」
薄暗い泥沼の底から、ゆっくりと浮上していくような感覚。
レイ・ヴァンガードは、鉛のように重い瞼を微かに震わせ、やがてゆっくりとこじ開けた。
最初に視界に飛び込んできたのは、見知らぬ白い天井だった。
だが、あの忌まわしい研究施設の無菌室が放っていた、冷たく刺すような殺菌灯の光ではない。窓のブラインドの隙間から差し込む、柔らかく温かい『太陽の光』に照らされた、穏やかな白だった。
鼻を突くのは、微かな消毒液の匂いと、どこからか漂ってくる、淹れたてのコーヒーの香り。
「……あ……」
乾ききった喉から声を出そうとしたが、掠れた呼気が漏れただけだった。
身体を動かそうとすると、全身の筋肉が激しく抗議の悲鳴を上げる。特に左腕と肩口にかけては、分厚い包帯とギプスでガチガチに固定されており、微かな痺れが残っていた。
だが、その『痛み』こそが、彼がまだ生きて、現実の世界に存在していることの何よりの証拠だった。
(……俺は……生きている、のか)
レイがぼんやりと窓の方へ視線を向けた、その時だった。
「――っ!」
病室のドアが開き、書類の束を抱えたセリアが入ってきた。
彼女はベッドの上で目を開けているレイの姿を見た瞬間、抱えていた書類をバサッと床に落とし、両手で口を覆った。
「レイ……!」
彼女の姿は、レイが最後に見た泥だらけの作業着姿でも、あのステーションで出会った頃の時代錯誤なドレス姿でもなかった。
動きやすいシックなジャケットとパンツスーツを身に纏い、後ろで一つに束ねた髪。その佇まいは、かつての『温室育ちのお嬢様』としての脆さを完全に脱ぎ捨て、自らの足で世界と対峙する、若き指導者のような凛とした強さを放っていた。
「……ずいぶんと……似合わない服を着てるな」
レイは、酸素マスク越しに、ひどく掠れた声で憎まれ口を叩いた。
「馬鹿っ……!」
セリアはベッドの脇に駆け寄り、レイの右手を両手でギュッと握り締めた。
彼女のエメラルドグリーンの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、レイの手の甲を温かく濡らしていく。
「馬鹿、馬鹿……! 本当に死ぬかと思ったのよ……っ! コックピットから引きずり出した時、心臓が止まりかけてたんだから……!」
「……悪い。少し、寝過ごしたらしい」
レイは微かに口角を上げ、握られた右手の指先をほんの少しだけ動かして、彼女の手のひらに応えた。
「どれくらい、寝てた」
「丸々二ヶ月よ。……ずっと、ずっと意識が戻らなくて……トビーもガレスさんも、毎日お見舞いに来てたんだから」
セリアは涙を拭いながら、安堵と喜びでくしゃくしゃになった顔で笑った。
「レイ! 目を覚ましたのか!」
廊下からドタバタという足音が響き、ドアを勢いよく開けてトビーが飛び込んできた。
彼の両手には、油まみれの工具箱ではなく、不格好なフルーツの籠が握られている。
「おいおい、本当に起きやがった! 医者の連中が『神経のダメージがデカすぎる、一生植物状態かもしれない』なんて言うから、俺はあいつらの胸ぐら掴んで殴りかかりそうになったんだぞ!」
トビーはベッドの反対側に回り込み、涙ぐみながらレイの肩を軽く叩いた。
「よかった……本当によかったぜ、相棒」
「……痛いぞ、馬鹿野郎」
レイは顔をしかめながらも、久しぶりに聞く騒がしい少年の声に、不思議なほどの心地よさを感じていた。
「外は……どうなった」
少し呼吸を整えた後、レイは一番気になっていたことを尋ねた。
セリアとトビーは顔を見合わせ、そしてセリアが静かに口を開いた。
「すべて、変わったわ。……私たちが流したデータが、世界をひっくり返したの」
セリアの口から語られたこの二ヶ月間の出来事は、まさに歴史の激動そのものだった。
バベルの塔から太陽系全土に送信された『連邦の暗部』のデータは、市民と軍部の両方に決定的な蜂起を促した。
デザイナーズ・チルドレン計画による非人道的な政治支配と、ナンバーズという生体兵器の真実。それらを知った連邦議会の穏健派と平和維持軍がクーデターを起こし、強硬派の高官たちは次々と拘束された。
腐敗の温床であった特務機関は解体され、今は新たな暫定政府のもとで、大規模な民主化と組織の浄化が進められているという。
「……カインは?」
レイの問いに、セリアは少しだけ目を伏せた。
「あのアウターズの最高指導者が『No.01』であったという事実は、彼らの組織にも致命的な混乱をもたらしたわ。……カイン・レイスの戦死が確認された後、復讐の旗印を失ったアウターズの過激派は瓦解した」
セリアは、窓の外の青空を見つめながら続けた。
「今は、連邦の新しい暫定政府と、アウターズの穏健派の間で、史上初の和平交渉が進められているわ。ガレスさんたち地球のレジスタンスも、その交渉のテーブルに着いているのよ」
「……お前も、そのテーブルに?」
レイが尋ねると、セリアは力強く頷いた。
「ええ。作られた人形ではなく、この世界に生きる一人の『セリア・アークライト』としてね。……父が遺してくれたこのデータが、本当の意味で世界を救うための礎になるように、私にできることを全部やるつもりよ」
彼女の顔には、もはや過去の呪縛に囚われた影はなかった。
絶望の底で自らの意志を拾い上げ、未来へ向かって歩き出している確かな生命力がそこにあった。
「そうか。……なら、俺の護衛任務は、これで完全に終了だな」
レイはゆっくりと息を吐き出し、天井を見上げた。
「……俺の機体は、どうなった」
その問いに、トビーが少しだけ寂しそうな顔をした。
「……完全に、スクラップだ。メインジェネレーターは焼き切れ、装甲は炭みたいにボロボロになってた。俺の技術でも、もう二度と動かすことはできない」
トビーは、自らの服のポケットから、黒く焼け焦げた小さな金属のパーツを取り出し、レイの右手に握らせた。それは、あの漆黒の狼の、コックピットの起動キーだった。
「でもな。あの機体は、最後の最後までお前を守り抜いた。オーバーロードの熱を、システム側が強制的にシャットダウンして、お前の脳が焼き切れる直前で止めてくれたんだ。……あいつは化け物なんかじゃない。最高の『相棒』だったよ」
レイは、手のひらにある黒焦げのキーの感触を、静かに確かめた。
自分を呪い続けてきた過去の鎖。だが、同時にその鎖は、最後に自分と共にカインの痛みに寄り添い、未来への道を切り開くための剣となってくれた。
「……あぁ。そうだな」
レイはキーを握り締め、目を閉じた。
「これから、どうするの?」
セリアが、少し寂しそうな声を隠すように尋ねた。
「とりあえず、リハビリだ。この身体じゃ、ジャンク屋の仕事もできやしないからな」
レイは苦笑し、トビーの方を見た。
「おい、トビー。ラッキースター号もオシャカになったんだろ。新しい船を組む金、どうするつもりだ」
「へへっ、心配すんな!」
トビーは胸を張って鼻を擦った。
「暫定政府から、俺たちに莫大な『報奨金』が出るらしいんだぜ! 世界を救った英雄への口止め料込み、ってヤツだな。それで、最高の中古クルーザーを買って、俺が宇宙一の密輸船に改造してやる! お前はそれまで、ゆっくり休んでりゃいい」
「……調子のいい奴だ」
「レイ」
セリアが、ベッドに身を乗り出して、彼を真っ直ぐに見つめた。
「リハビリが終わって、身体が動くようになったら……また、私に会いに来てくれる?」
それは、依頼主としての命令でも、打算でもない。
共に地獄をくぐり抜け、互いの魂を救い合った、一人の人間としての純粋な願いだった。
レイは、彼女の透き通るような瞳を見返し、そして、右手の親指で自らの首筋――あのバーコードの刺青が刻まれている場所を、無造作に掻いた。
「……借金が帳消しになったからな。暇ができたら、高い飯でもおごってもらいに行くさ」
そのぶっきらぼうな返事に、セリアは満面の笑みを浮かべ、何度も力強く頷いた。
窓の外では、かつて黄土色のスモッグに覆われていた地球の空が、大気浄化システムの再稼働によって、少しずつ、しかし確実に本来の『青』を取り戻し始めていた。
病室に吹き込む風は、荒野の熱風ではなく、新しい季節の訪れを告げる、清々しい匂いを運んでくる。
作られた兵器と、作られた人形。
彼らの血塗られた過去は終わりを告げた。
ここから始まるのは、誰かに与えられた役割でも、過去からの逃避でもない。彼ら自身が選び取り、彼ら自身の足で歩いていく、本当の意味での『人生』だった。
黎明の光に包まれた病室で、三人の笑い声が、穏やかに響き渡っていた。




