20.星海への帰還
病室の壁に掛けられた鏡の前で、レイ・ヴァンガードは真新しいシャツの袖に腕を通していた。
右腕の動作は以前と変わらない。だが、シャツの左袖から伸びているのは、生身の肉体ではなく、鈍い銀色の光沢を放つ機械の腕だった。
カインとの最終決戦で失った左腕。連邦の最新鋭の医療技術をもってしても、完全に焼け焦げた神経と肉体を再生することは叶わず、彼はこの軍事用の高精度義手を取り付けることになった。
キュィン……という微かなモーター音を鳴らしながら、レイは義手の指先を曲げ伸ばししてみる。
「……悪くない」
感覚のフィードバックは驚くほど自然だ。痛みに支配されていた過去の自分を思えば、この銀色の腕が放つ無機質な冷たさは、むしろ心地よいとすら感じられた。
レイは鏡越しに、自分の右首筋を見た。
そこには依然として、黒々としたバーコードと『No.07』の刺青が刻まれている。
かつては忌まわしい呪いとして、髪を伸ばしてまで隠そうとしていたその烙印。だが今のレイは、その刺青を隠そうとはしなかった。
これは、自分が地獄を生き抜き、狂気と絶望の果てに自らの『意志』を勝ち取った、かけがえのない証明なのだから。
「レイ! そろそろ時間だぜ!」
開け放たれた病室のドアから、顔を出したトビーが元気な声を上げた。
レイは振り返り、短く頷くと、退院手続きの済んだボストンバッグを右肩に担いだ。
半年間の過酷なリハビリテーション。
その間に、世界は激変していた。
病院のロビーを歩きながら、壁に設置された大型モニターから流れるニュースキャスターの声が耳に届く。
『――暫定地球政府は本日、アウターズ穏健派との間に正式な不可侵条約及び、太陽系再建のための共同宣言に調印しました。また、特務機関が不当に秘匿していた環境浄化テクノロジーの全面開示により、地球の旧汚染指定区域の30パーセントで、自然環境の回復傾向が確認されています――』
「ずいぶんと、空気が美味くなったもんだ」
病院の自動ドアを抜け、外に出たレイは、眩しい太陽の光に目を細めた。
かつて彼らが不時着した時の、息が詰まるような黄土色のスモッグはもうない。抜けるような青空と、海から吹いてくる潮風の匂いが、新時代の到来を静かに告げていた。
二人が向かったのは、都市の郊外にある巨大な民間宇宙港だった。
活気を取り戻しつつあるターミナルの喧騒を抜け、プライベートドックの最奥へ足を踏み入れると、そこには一隻の真新しい宇宙船が、静かにアイドリング音を響かせていた。
「どうよ、これ! 俺の半年間の血と汗と涙の結晶、『ラッキースターII世号』だ!」
トビーが胸を張り、両腕を広げて誇らしげに船を指差した。
全長は五十メートルほど。以前のボロボロだった密輸船とは打って変わり、流線型のスマートな白い船体に、鮮やかな青いラインが引かれている。
だが、ジャンク屋としてのトビーの狂気的な魔改造は、その美しい外殻の内側にしっかりと隠されていた。
「外見はただの民間用高速クルーザーだが、中身はとんでもねえバケモノだぜ」
トビーは端末を操作し、得意げにスペックを並べ立てた。
「前の船の反省を生かして、今回は『逃げ足』と『防御力』に全振りした。これなら、どこのデブリ帯に突っ込んでも、ちょっとやそっとの砲火じゃビクともしねえ!」
「……過剰スペックもいいところだな。政府からの報奨金を、全部これに突っ込んだのか」
レイは呆れたように息を吐きながらも、頼もしいその船体をポンと叩いた。
「レイ! トビー!」
その時、ドックの入り口から、澄んだ声が響いた。
黒い護衛車両から降り立ち、こちらへ向かって小走りで駆け寄ってくるのは、セリア・アークライトだった。
彼女は暫定政府の評議会メンバーとして多忙を極めているはずだが、今日はレイの退院と出立に合わせて、何とか時間を捻出してきたらしい。
「セリア。……見送りに来てくれたのか」
「当然でしょ。命の恩人の旅立ちなんだから」
セリアは二人の前で立ち止まり、息を整えてから、レイの真新しい義手と、隠さなくなった首筋の刺青を見つめた。
彼女の瞳が、優しく、そして誇らしげに細められる。
「……似合っているわ。その新しい腕も、あなたの顔も」
「そうか? 相変わらずの悪人面だと思うがな」
レイは肩をすくめた。
「それで、これからどうするの?」
セリアが尋ねる。
「世界が平和に向かっているとはいえ、宇宙にはまだ不発弾みたいな問題が山積みよ。……政府の特別顧問として、私たちに力を貸してくれない?」
それは、彼女なりの最大限の引き抜きだった。
かつて「作られた人形」として絶望していた彼女は今、自らの意志でこの歪んだ世界を修復しようと最前線で戦っている。もしレイが頷けば、これ以上ない頼もしい味方になるだろう。
だが、レイは小さく笑って、首を横に振った。
「断る。俺の柄じゃない」
「……即答ね。少しは迷ってくれてもいいのに」
セリアは少しだけ唇を尖らせたが、その答えを最初から知っていたかのように、すぐにふふっと笑みをこぼした。
「俺は、しがない宇宙のジャンク屋だ。偉い奴らの会議室より、星屑の浮いてる暗礁宙域の方が性に合ってる。……それに、こいつが組んだ馬鹿みたいな船のローンを、デブリ拾いで稼いで返さなきゃならないからな」
レイは親指でトビーを指差す。
「えっ!? 俺の船、ローン組んでたのかよ!?」とトビーが素っ頓狂な声を上げ、三人の間に明るい笑い声が弾けた。
「……そうね。あなたには、そういう自由な星の海が一番似合っているわ」
セリアは、ジャケットの内ポケットから、銀色の小さなカードを取り出し、レイに手渡した。
「これは?」
「暫定政府が発行した、『特A級・自由航宙許可証』。太陽系内のどんな空域でも、フリーパスで出入りできる権利よ」
セリアは、いたずらっぽくウインクをした。
「あなたの『借金』は帳消しになったけれど、私があなたたちに助けてもらった恩は、まだ全然返しきれていないから。……たまには、地球に顔を見せに来てよね。美味しいご飯をご馳走する約束、忘れてないわよ」
レイは銀色のカードを受け取り、指先で弾いてポケットにしまった。
「ああ。……気が向いたらな」
無愛想な返事。だが、その声には確かな温もりが宿っていた。
「じゃあな、お嬢様! あんたも、政治のゴタゴタで倒れないように気をつけてな!」
トビーが大きく手を振りながら、ラッキースターII世号のタラップを駆け上がっていく。
レイもそれに続き、タラップの途中で一度だけ振り返った。
セリアが、青空を背にして、大きく手を振り返している。彼女の姿はもう、守られるだけの脆い少女ではない。世界を背負って立つ、一人の強き人間の姿だった。
「行くぞ、トビー。メインスラスター、点火しろ」
コックピットに身を沈め、レイは通信機越しに指示を出した。
『おう! いつでもいけるぜ、相棒!』
重低音の唸り声と共に、強力なジェネレーターが火を噴いた。
ラッキースターII世号は、ドックの滑走路を滑るように発進し、澄み切った青空へと、まるで一筋の流星のように舞い上がっていく。
全天周モニターに映し出される景色が、徐々に青から群青へ、そして果てしない漆黒の闇へと変わっていく。
かつてレイにとって、この漆黒の宇宙は、過去から逃げ隠れるための冷たく孤独な暗闇でしかなかった。
だが今は違う。
隣には馬鹿騒ぎをする相棒がいて、振り返れば、帰るべき青い星で待っていてくれる友がいる。
「……さて。次はどこの星屑を拾いに行くか」
レイ・ヴァンガードは、義手の指先で操縦桿を力強く握り締め、煌めく星の海に向けて、心地よい推進器の咆哮を響かせた。
過去の亡霊はもういない。
彼らの前にはただ、無限の自由と、果てしない未来だけが広がっていた。




