第85話:透明な指先と、魂を繋ぐ愛の枷(ギフト)
【陽だまりの涙 ~消えゆく輪郭~】
意識が、現実のローレンツ邸の庭園へと完全に戻ってきた。
「……パパッ、お母様が……体が、透けて……っ」
ライルが目を開けると、真っ先に飛び込んできたのは、泣きじゃくる子供たちの悲痛な声だった。
視線を落とせば、ライルの腕の中にいる第一夫人フィリアと、サクヤの体が、先ほどよりもさらに薄く、陽の光を透かして儚く揺らいでいた。
セレナ、ミア、アナスタシアも同様だ。レヴィアタンの虚無に削り取られた魂のダメージは深く、現実世界に戻ってきてもなお、彼女たちの存在は「消失の淵」を彷徨っていたのだ。
そして、十柱の女神たちも。かつては圧倒的な艶やかさを誇っていた十色のストレートロングの髪はすっかり色を失い、泥だらけの純白のアーマーの中で、自力で指一本動かせないほどに衰弱しきっている。
「……主、さま……」
サクヤが、透明になりかけた指先を、震えながらライルの頬へ伸ばした。
触れているのに、温もりがない。その残酷な感触に、サクヤの大きな瞳から、ポロポロと恐怖と絶望の涙がこぼれ落ちた。
「私……消えちゃうの……? やだ……主さまと、あの子を置いて……いきたく、ない……っ」
虚無の中で気丈に振る舞っていた彼女たちも、愛する家族の顔を見たことで、張り詰めていた糸が切れ、「消えたくない」という本音が堰を切ったように溢れ出したのだ。
「消えない。……絶対に、僕が消させない」
ライルは、サクヤの透明な指先を、両手で包み込むように強く、優しく握りしめた。
そして、精神世界で最高神と共に創り上げた『十六の愛の証』を、虚空から静かに取り出した。
◇
【永遠の誓い ~魂を繋ぐ枷~】
それは、この世のどんな宝石よりも美しく、ただそこにあるだけで、見ている者の心が震えるほどに温かい光を放つ、チョーカー、ブレスレット、アンクレットの束だった。
「……ライル様? それは……」
フィリアが、微弱な息を吐きながら不思議そうに見上げる。
「サクヤ、フィリア。……セレナ、ミア、アナスタシア」
ライルは、消えかけている五人の先輩妻たちのそばに膝をつき、震える手で、その美しいチョーカーを彼女たちの透けた首元へとそっと回した。
カチャリ、と。
未知の金属が重なり、正面で揺れる『ハートのリング』が、彼女たちの胸元にピタリと収まる。
続いて、透けかけた細い手首にブレスレットを、足首にアンクレットを、一人一人、祈るように着けていった。
「もう二度と……あんな暗闇の中で、君たちを迷子になんてさせない」
ライルの目から、大粒の涙がこぼれ落ち、サクヤの頬を濡らした。
「これは、僕の我儘だ。どんなに離れていても……もし万が一、世界が壊れて暗闇に落ちたとしても。僕の魂と君たちの魂を、絶対に引き離せないように繋ぎ止めておくための……愛の枷だ」
ライルは、泥だらけになって倒れている長女のベイラや、リーフェたち十人の女神の首にも、砕け散った古い首輪の代わりに、真新しい愛のチョーカーとブレスレットを着けていく。
「パパ……」
ベイラが、涙でぐしゃぐしゃになった顔でライルを見つめる。
最後に、ライル自身も十五色の宝石が輝く『男性用のチョーカーとブレスレット』を身に着け、妻たちに向かって深く頭を下げた。
「僕が驕っていたせいで、みんなに怖い思いをさせた。本当にごめん。
……でも、僕はもう二度と、君たちの手を離さない。君たちの魂がどれだけ削られようと、僕の命がある限り、この繋がりから『存在』を流し込み続ける」
◇
【ゆっくりと灯る熱 ~真実の愛~】
アイテムを着けたからといって、RPGの魔法のように、妻たちの体がパッと元通りに回復するわけではなかった。
削られた魂の欠損は、そう簡単に埋まるものではない。サクヤたちの体は、依然として半透明のままだ。
だが――。
「あ……っ」
フィリアが、胸に手を当てて息を呑んだ。
透けかけて、氷のように冷たかった彼女の胸の奥底に。チョーカーとブレスレットを通じて、ライルの心臓の鼓動(熱)が、トクン、トクンと、直接流れ込んできたのだ。
それは、ライルが「絶対に離さない」と誓った、重く、温かい魂の繋がり。
「ライル、様……っ、あぁっ……」
フィリアは、声にならない嗚咽を漏らし、透けた両手でライルの首にすがりついた。
「温かい……。主さまが、私の魂のすぐそばに、いる……っ」
サクヤも、セレナたちも。
完全に回復したわけじゃない。これからの長い時間をかけて、ライルから少しずつ命を分けてもらいながら、ゆっくりと療養しなければならないだろう。
それでも、彼女たちの心からは「いつか消えてしまうかもしれない」という絶望と恐怖が、完全に払拭されていた。
「ありがとう、パパ……! ありがとう……っ」
ベイラたち十人の女神も、新しいチョーカーを両手で強く握りしめ、ライルの愛の深さに声を上げて泣き崩れた。
十六人の家族の魂が、目に見えない強固な光の糸で結ばれ、本物の『永遠』になった瞬間だった。
ライルは、透けかけた妻たちも、泥だらけの妻たちも、全員を等しくその大きな腕の中に抱きしめ、春の陽だまりの中でいつまでも涙を流し続けた。
◇
【子供たちの決意 ~受け継がれるもの~】
その、あまりにも美しく、そして痛切なまでの「夫婦の愛」の姿を。
十五人の子供たちは、芝生の上に立ち尽くしたまま、声も出せずに見つめていた。
父親は、文字通り自分の命と魂を削ってでも、愛する妻たちを手放そうとはしなかった。
母親たちは、自分が消えかける絶望の中でも、父親や子供たちの未来を想って闘い抜いた。
魔法の強さじゃない。神様の奇跡でもない。
ただ、互いを心から想い合う「不器用で、泥臭くて、絶対に諦めない真実の愛」が、そこにあった。
「……お兄様」
十五歳になる長女が、涙で濡れた頬を拭い、隣に立つ長男の服の袖をギュッと握りしめた。
「私……あんな風に、なりたい。
父上と、母上たちみたいな……どんな暗闇に落ちても、絶対に魂で見つけ出してくれるような。そんな夫婦に、なりたい……っ」
長女の言葉に、長男は大きく、力強く頷いた。
彼の瞳には、もう先ほどのパニックになって泣きじゃくっていた少年の面影はなかった。
結婚の打診を受け、これから自分たちの足で未来を歩き出そうとしている一人の大人の男として。父親の背中から、最も大切な『愛の覚悟』を受け取ったのだ。
「ああ。……俺たちも、絶対に誓おう」
長男は、下の子たちの肩を抱き寄せ、真っ直ぐな瞳でライルたちを見つめた。
「父上と母上たちが命懸けで守ってくれたこの世界で……俺たちも、あんな風に誰かを本気で愛して、最高の夫婦になってみせるって」
子供たちの頬を伝うのは、もう恐怖の涙ではなかった。
親から子へと確かに受け継がれた、眩しい未来への希望と、温かな決意の涙だった。
抜けるような青空の下、ローレンツ邸の庭園に、優しい春の風が吹き抜ける。
傷ついた十五人の妻たちが元の美しい姿を取り戻すまでには、まだ少しの時間が必要だ。
しかし、神王ライルと彼を愛する家族たちの絆は、もう二度と、どんな理不尽な絶望にも脅かされることはないのだった。




