第83話:奇跡の代償と、陽だまりへの生還
【帰還 ~五感の蘇生~】
パリンッ……!!
世界を飲み込もうとしていた漆黒の渦が、内側から放たれた極彩色の光によって完全に粉砕された。
直後。
絶対的な無音と無重力の世界にいたライルたちの全身を、ドスッという『重力』が乱暴に引き戻した。
「……っ、がはっ……!」
背中に打ち付けられたのは、冷たい虚無ではなく、柔らかく湿った『土と芝生』の感触。
鼓膜を震わせるのは、風が木々を揺らす音。
そして鼻腔をくすぐるのは、むせ返るような春の花々の香りだった。
「……戻って、きた……?」
ライルは、全身の骨が軋むような激痛に顔を歪めながら、ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、吸い込まれるような青空と、見慣れたローレンツ邸の白亜のテラス。
あのおぞましいレヴィアタンの渦は、青空に薄い陽炎のような跡を残して、完全に消滅していた。
「パパ……ッ!」
すぐ横で、長女のベイラが荒い息を吐きながら身を起こそうとし、そのまま力なく芝生に倒れ込んだ。
◇
【奇跡の代償 ~透けた指先~】
「ベイラ! みんな、無事かッ!?」
ライルは這うようにして、芝生の上に倒れ伏している妻たちの元へ向かった。
最悪の空間から生還した。だが、彼女たちの状態は決して「無傷で元通り」ではなかった。
「……主、さま……」
サクヤが、虚ろな目でライルを見つめ、弱々しく手を伸ばす。
ライルがその手を握ろうとして――息を呑んだ。
サクヤの手首から先が、陽の光を透かすように『半透明』になっていたのだ。
サクヤだけではない。フィリアも、セレナも、ミアも、アナスタシアも。
五人の先輩妻たちの体は、ガラス細工のように儚く透き通っており、自力で指一本動かすことすらできない状態だった。
命のループ(閉鎖回路)で存在を上書きし続け、消滅こそ免れたものの、レヴィアタンの消化液に削り取られた『魂の欠損』は、そう簡単に回復するものではなかったのだ。
そして、彼女たちに命を注ぎ続けた十柱の女神たちもまた、絶大な代償を払っていた。
「……ごめんなさい、パパ。私、もう……指先一つ、動かせない……」
ヘスティアーが、泥だらけになった純白のアーマーの中で、力なく微笑む。
無限の魔力を誇る彼女たちの神気は、完全にスッカラカンに枯渇しており、艶やかだった十色の髪も、今は色を失ってくすんでいた。
全員が、文字通り「命の最後の一滴」までを絞り尽くして、この現実に帰還したのだ。
「……十分だ。よく頑張った、みんな。もう、大丈夫だから……っ」
ライルは、透けかけているサクヤやフィリアたちを包み込むように抱き寄せ、ポロポロと涙をこぼした。
痛々しい姿だ。元に戻るまで、どれだけの時間がかかるか分からない。
それでも。
彼女たちは今、確かにこの陽だまりの中に『存在』し、温かい息をしている。
その事実だけで、ライルの胸はちぎれそうなほどの安堵に満たされていた。
◇
【涙の陽だまり ~重なり合う命~】
「……父上ッ!! 母上ぇぇぇッ!!」
テラスの奥から、堰を切ったような悲鳴と足音が近づいてきた。
長男をはじめとする、十五人の子供たちだった。
彼らは、両親が虚無の渦に飲み込まれて消えた絶望から一転、空から落ちてきた両親の姿を見て、我先にと芝生を駆けてきたのだ。
「お母様ッ! 嫌だ、体が透けてる……っ、死なないでッ!!」
十五歳になる長女が、半透明になったサクヤの胸にすがりついて号泣する。
「泣かないで……。大丈夫よ、ママは、消えたりしないから……」
サクヤは、透けた手で愛娘の頭を優しく撫でた。
「ベイラお母様ッ、よかったです……本当によかった……っ!」
下の子たちも、泥だらけで動けない女神たちの体に抱きつき、子供のように(いや、彼らはまだ子供なのだが)声を上げて泣きじゃくった。
「こら……泣き顔は、美しくありませんわよ。……でも、少しだけ重いわね……ふふっ」
ベイラが、自分の胸で泣く子供たちの温かな重みを感じて、愛おしそうに目を細める。
それは、虚無の世界には絶対に存在しなかった『重さ』。
未来へ向かって成長していく、生きた命の温もりだった。
ライルは、涙で顔をぐしゃぐしゃにした長男の肩を強く抱き寄せた。
「父上……っ、俺たちを守るために……申し訳ありません……ッ!」
「謝るな。親が子供の盾になるのは、当たり前のことだ。
……それに、僕たちは絶対に帰ってくるって、信じて待っててくれただろ?」
ライルが優しく微笑むと、長男はついに堪えきれず、父親の胸に顔を押し付けて声を出して泣き崩れた。
青空の下、春の風が吹き抜けるローレンツ邸の庭園。
満身創痍の親たちと、彼らにすがりついて泣きじゃくる子供たち。
これまでのどんな華やかな宴よりも、どんなに甘い夜よりも。
ボロボロになりながらも再び一つになったこの家族の姿こそが、ライルにとっての『究極のハッピーエンド(幸福の象徴)』だった。
◇
【最高神の微笑み】
(……爺さん。あんたの助言がなかったら、本当に危なかったよ)
子供たちを抱きしめながら、ライルは魂の奥底にいる「もう一人の神」へと深く感謝の念を送った。
すると、いつもは皮肉めいた言葉を返す最高神の声が、かつてないほど穏やかに、そしてどこか『遠く』から響いてきた。
『……いや。最後の奇跡を起こしたのは、ワシの力ではない。お前たち家族が、お前たち自身の絆で紡ぎ出した「命の力」じゃ』
(爺さん……?)
『ワシが手出しできる領域など、とうに超えておったわ。……フッ、まったく。ワシが与えたチョーカーすら踏み台にして、あんな無茶苦茶なループを作り出しおって』
呆れたような、それでいて心の底から誇らしげな笑い声。
ライルは、自身の魂の中で、最高神の気配が少しずつ『変化』していくのを感じ取っていた。
『……ライル。どうやら、本当に時間が来たようじゃ』
それは、別れの言葉ではなく。
すべての試練を見届けた親が、立派に成長した子供へ家督を譲るような、温かく、静かな『卒業の宣言』だった。




