第8話:優しき帰郷と、王女の「家族」体験
王都を出て数日。
車窓の景色は、石造りの建物から、見渡す限りの草原と深い森へと変わっていた。
風には土と緑の匂いが混じり、王都の喧騒が嘘のように静かだ。
「……ここが、ライル様の故郷……」
フィリアが窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして景色を見つめる。
その瞳は、初めて見る「外の世界」の美しさに輝いていた。
「ああ。何もない田舎だけど、空気だけはうまいんだ」
ライルが苦笑しながら答えるが、その表情には隠せない安堵が浮かんでいた。
やはり、生まれ育った土地は特別だ。
やがて、森を抜けた先に、広大な湖とそのほとりに佇む屋敷が見えてきた。
古いが手入れの行き届いた石造りの館。
ローレンツ伯爵邸だ。
「着いたよ、フィリア。僕の家だ」
馬車が砂利道を鳴らして正門をくぐると、そこにはすでに数十人の使用人たちが整列していた。
そしてその中央には、ライルが誰よりも会いたかった二人の姿があった。
「――お帰り、ライル!」
「よく帰ってきたわね、私の可愛いライル!」
馬車が止まるや否や、駆け寄ってきたのは母セレナだった。
貴族夫人とは思えない速さでライルを抱きしめ、頬ずりをする。
「母さん、苦しいって! みんな見てるから!」
「いいじゃないの! 半年も会えなかったのよ? 毎日手紙は書いていたけれど、やっぱり顔を見ないと安心できないわ」
その背後で、父エインズヴァルトが咳払いをする。
「コホン。……セレナ、少し落ち着きなさい。ライルも困っているだろう」
父は厳格な表情を崩そうとしないが、その口元は緩みきっており、尻尾があれば千切れんばかりに振っているのが丸わかりだった。
「ただいま、父さん。母さん」
「うむ。……背が伸びたな。顔つきも、少し男らしくなった」
父の大きな手が、ライルの肩をポンと叩く。
その掌の温かさに、ライルは自分が「守られる場所」に帰ってきたことを実感した。
しかし、感傷に浸る時間は長くなかった。
馬車から降りてきたもう一人の少女――フィリアの姿に、両親が凍りついたからだ。
「……ら、ライル? そちらの可愛らしいお嬢さんは……?」
「えっと、その……」
説明しようとしたライルより早く、サクヤが一歩前に進み出た。
完璧なカーテシー(礼)と共に、涼やかな声で告げる。
「ご紹介いたします。こちらはアルセイド王家第三王女、フィリア・アウローラ・アルセイド殿下です。
この度は、夏季休暇を利用しての『社会勉強』および『将来のパートナー候補』としての視察のため、同行されました」
「「はぁぁぁぁッ!?!?」」
両親の叫び声が、領地の空に響き渡った。
「お、お、王女殿下!? ライル、お前なんてことを!?」
「誘拐じゃないわよね!? うち、取り潰しになったりしない!?」
パニックになる両親。
フィリアはおずおずとドレスの裾をつまみ、緊張した面持ちで頭を下げた。
「あ、あの……突然の訪問、申し訳ありません。
わたくし、ライル様のご友人として……その、お招きにあずかりました。
ご迷惑でしたでしょうか……?」
上目遣いで、涙目になりながら尋ねる美少女。
これに耐えられるローレンツ家の人間はいなかった。
母セレナの表情が、一瞬で「慈愛の聖母」へと変わる。
「迷惑だなんて、とんでもない!
まあ、なんて可愛らしいの……! まるで天使が舞い降りたようだわ。
さあさあ、立ち話もなんですし、中へ入りましょう。長旅でお疲れでしょう?」
「そ、そうですな! 王女殿下が我が家に……これは一大事だ!
おい、今夜は歓迎の宴だ! 料理長に伝えろ、最高のもてなしを用意するんだ!」
父もまた、威厳を放り投げて指示を出し始めた。
その様子を見て、ライルは深い溜め息をつく。
(……サクヤ。『将来のパートナー候補』って付け足しただろ?)
ライルがジト目で睨むと、サクヤは「あら、何か?」とすっとぼけてみせた。
だが、その目には確信犯の光が宿っている。
◇
その夜、ローレンツ家のダイニングルームは、温かな光と笑い声に包まれていた。
王宮の晩餐会のような堅苦しいものではない。
テーブルには領地で採れた新鮮な野菜や、森の恵みをふんだんに使った料理が並んでいる。
「さあ、フィリア様。これは我が家特製のシチューですわ。お口に合うと良いのだけれど」
母セレナが、自らフィリアの皿に取り分ける。
王宮では「毒見役」が先に口をつけ、冷めた料理しか出てこないのが常だったフィリアにとって、湯気の立つ料理は未知の体験だった。
「……おいしい」
一口食べた瞬間、フィリアの目が大きく見開かれた。
濃厚なミルクのコクと、野菜の甘み。何より、作り手の愛情が溶け込んでいるような味。
「ふふ、よかった。たくさん食べてね。育ち盛りなんだから」
「うむ。ライルもだ。学園ではちゃんと食べているのか? サクヤ君の報告書には『鍛錬に夢中で食事を抜くことがある』と書いてあったぞ」
「父さん、その話は……」
「男は体が資本だ。ほら、肉も食え」
皿に次々と料理が積まれていく。
ライルが困った顔でそれを受け止め、サクヤが静かにワインを注ぎ足す。
父が豪快に笑い、母が優しく微笑む。
フィリアは、その光景を呆然と見つめていた。
これが「家族」。
彼女が本の中だけで知り、ずっと憧れていた世界。
「……あ」
視界が滲んだ。
ポロポロと、大粒の涙がフィリアの頬を伝って落ちる。
「えっ、フィリア!? どうしたの、口に合わなかった!?」
「ど、どこか痛むのですか、殿下!?」
慌てる両親に、フィリアは首を横に振り、懸命に笑顔を作った。
「いいえ……違います。
ただ……温かいなって。
ご飯も、お部屋も、皆さんも……こんなに温かい場所があるなんて、知らなかったから……」
その言葉に、その場の全員が彼女の抱えてきた孤独を察した。
母セレナは立ち上がり、そっとフィリアの肩を抱いた。
「……もう、他人行儀なことは言わないで。
貴女はライルの大切なお友達で、今日から私たちにとっても娘みたいなものよ。
ここでは、王女として振る舞う必要なんてないわ。ただの『フィリア』として、甘えていいのよ」
「……はい……っ! お母、さま……!」
フィリアはセレナの腕の中で、子供のように泣きじゃくった。
ライルは何も言わず、ただ静かに彼女を見守っていた。
サクヤもまた、いつもの皮肉な笑みを消し、優しい眼差しで二人を見ていた。
(……良いご両親ですね。これなら、フィリア様の心の傷も癒えるでしょう)
心の守りが固まり、帰るべき場所ができた時、人は強くなれる。
サクヤの計算通り、フィリアの心に「守りたい場所」が刻まれた夜だった。
宴が終わり、夜も更けた頃。
ライルは館のバルコニーで、月を見上げていた。
領地の夜風は涼しく、少しだけ酔った頭に心地よい。
「……眠れませんか、主さま」
背後から、衣擦れの音が近づく。
サクヤだった。月光を浴びたプラチナシルバーの髪が、幻想的に輝いている。
「ああ。久しぶりの実家だし、色々あって興奮してるのかもな」
「ご両親も、フィリア様を気に入られたようです。これで一夫多妻への障壁はなくなりましたね」
「……お前なぁ。またそういう話を」
「大事なことです。英雄には、帰る場所と愛する人が必要なのですから」
サクヤは隣に並び、同じ月を見上げる。
「さて、主さま。十分な休養は取れましたか?」
その声のトーンが、わずかに変わった。
甘さは消え、鋭い刃物のような響きを帯びる。
「……ああ。なんとなく、わかってるよ。
ただの里帰りじゃないんだろ? お前がわざわざここを選んだ理由」
ライルが尋ねると、サクヤは口角を吊り上げ、凶悪なまでに美しい笑みを浮かべた。
「ご明察です。
このローレンツ領の北端、未開の山岳地帯に、古代の遺跡が眠っています。
通称――《試練の回廊》。
かつて、私が神界から落とした“おもちゃ箱”の一つです」
「おもちゃ箱……?」
「はい。内部の時空間は歪み、外界の数倍の速度で時間が流れています。
そして魔物のランクはA相当。……今の主さまたちには、少し荷が重いかもしれません」
Aランク。国家騎士団が一個小隊で挑むレベルだ。
それを学生二人(と女神一人)で攻略しろと言う。
「……フィリアは、耐えられるか?」
「彼女は今日、守るべき温もりを知りました。
それを失いたくないという想いは、恐怖を凌駕します。……化けますよ、彼女は」
サクヤはライルの手を取り、その甲に口づけを落とした。
「明日から、地獄の特訓です。
夏が終わる頃には、学院の誰もがひれ伏すような“王”になっていただきましょう」
ライルは苦笑し、しかし力強く頷いた。
「望むところだ。
サクヤ、お前が信じるなら、僕も信じるよ。自分の運と、仲間の力を」
月明かりの下、二人の影が重なる。
優しき帰郷の夜は明け、明日からは過酷な英雄譚の続きが幕を開ける。




