第7話:黄金の檻、あるいは夏の逃避行
セラフィード魔法学院に、夏の気配が近づいていた。
中庭の噴水は強い日差しを反射し、生徒たちの制服も薄手の夏仕様へと衣替えが進んでいる。
だが、季節の明るさとは裏腹に、ライルを取り巻く空気は澱んでいた。
「――おい、見たかよ。またあの一年坊主だ」
「王女殿下に媚びを売って、特進クラスの席を分捕った成り上がりめ」
「侍女の美貌で講師を籠絡したという噂も聞くぞ」
廊下を歩くだけで、背中に粘着質な視線が張り付く。
入学から数ヶ月。ライルとフィリアが叩き出した「全科目S評価」という成績は、上級生たちのプライドを無惨にも踏み砕いていたのだ。
特に、貴族社会は「序列」が全てだ。
年功序列、家柄、派閥。それらを無視して頂点に君臨する「異物」に対し、彼らの嫉妬は憎悪に近い形へと変質していた。
放課後の演習場。
ライルが荷物をまとめていると、数人の男子生徒が入り口を塞ぐように現れた。
「……ローレンツ。少し、顔を貸してもらおうか」
先頭に立つのは、3年生の筆頭、ゲラルト・フォン・ベルンシュタイン。
武闘派として知られる侯爵家の三男で、学園の剣術部門ではトップに君臨していた男だ。
「ゲラルト先輩。何か不手際でも?」
ライルは表情を変えずに問い返す。
その落ち着きが、ゲラルトの癇に障ったらしい。彼は歪んだ笑みを浮かべ、手に持っていた訓練用の模造剣をライルの足元に投げつけた。
「不手際? ああ、存在そのものがな。
お前のような『まぐれ当たり』の天才気取りが、神聖な序列を乱しているのが不愉快なんだよ」
取り巻きたちが、下卑た笑い声を上げる。
「王女殿下も可哀想にな。お前のような男に騙されて。……どうだ? 今ここで俺が『教育』してやろうか? 身の程というやつを」
それは、公然とした決闘の申し込みだった。
断れば「臆病者」のレッテルを貼られ、貴族としての名誉を失う。
受けて立てば、上級生による集団リンチが待っている。
(……くだらない。あまりに稚拙だ)
ライルの胸中に湧くのは、怒りよりも呆れだった。
前世の理不尽な不幸に比べれば、彼らの嫉妬など幼児の癇癪に等しい。
「――お断りします」
ライルは短く告げ、彼らの横を通り過ぎようとした。
「逃げるのか! ローレンツ家の名が泣くぞ!」
「逃げるのではありません。時間の無駄だからです」
その言葉が、火に油を注いだ。
「貴様ぁッ!!」
ゲラルトが激昂し、背中から本物の剣を抜き放つ。
殺気。もはや「教育」の域を超えていた。
ライルが振り返るよりも早く、刃が迫る。
だが――
キンッ。
硬質な音が響き、ゲラルトの剣が空中で止まった。
受け止めたのは、一本の細い杖。
そして、その持ち主は――
「……わたくしの大切な友人に、剣を向けるとはどういうおつもりですか?」
凛とした声。
フィリア・アウローラ・アルセイド王女だった。
彼女の翡翠の瞳は、かつてのような怯えを含んでいない。
サクヤとの特訓、ダンジョンでの死闘。それらを潜り抜けた自信が、彼女を「守られる姫」から「戦う王女」へと変えていた。
「で、殿下!? なぜここに……!」
「退きなさい、ベルンシュタイン。これ以上の狼藉は、アルセイド王家への反逆と見なします」
「ぐっ……し、しかし、こいつは!」
ゲラルトが剣を引こうとしない。プライドが邪魔をしているのだ。
その醜い膠着状態を破ったのは、もう一人の「怪物」だった。
「あらあら。野暮な殿方ですね」
ふわり、と甘い香りが漂った。
いつの間にか、ゲラルトの背後にサクヤが立っていた。
音もなく、気配もなく。
「ひっ!?」
「主さまの貴重なお時間を、このような『お遊び』で浪費させるわけにはいきません。
……消えていただけますか? それとも――」
サクヤがゆっくりと瞼を開く。
そこにあったのは、人の情など一切ない、深淵のサファイアブルー。
「――その眼球、くり抜いて差し上げましょうか?」
言葉は丁寧だが、放たれる殺気は本物だった。
ゲラルトの足が震え、剣が手から滑り落ちる。
彼は恐怖に顔を引きつらせ、「お、覚えてろ!」と捨て台詞を吐いて逃げ出した。取り巻きたちも、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
後に残されたのは、静寂だけ。
「……ありがとうございます、フィリア。助かりました」
ライルが礼を言うと、フィリアは杖を下ろし、ふぅと大きく息を吐いた。
「い、いえ……足が震えてしまいました。でも、ライル様が侮辱されるのだけは、どうしても許せなくて」
そう言ってはにかむ彼女の姿は、先ほどの凛々しさとは別人のように愛らしい。
「それにしても……」
ライルはため息をついて、校舎を見上げた。
「これじゃあ、しばらく学園にはいづらいですね。夏休みまでまだ数日あるけれど、どうしたものか」
上級生たちの敵意は、これで収まるどころか、陰湿化するだろう。
それを察してか、サクヤが紅茶の準備をしながら口を開いた。
「主さま。少し早いですが、領地へ戻られてはいかがですか?
『夏季特別自主訓練』という名目で申請を出せば、校長も許可するでしょう」
「実家に? ……そうだな。父さんと母さんにも会いたいし、この空気の中で過ごすよりはずっといい」
ライルの表情が緩む。
ローレンツ伯爵領の豊かな自然、優しい両親、そしてあの穏やかな時間。
それは今の彼にとって、一番の安らぎだった。
「では、手配いたしますね。……ああ、それと」
サクヤはフィリアの方を向き、悪戯っぽく微笑んだ。
「フィリア様。王宮での夏休みは、退屈ではありませんか?」
「え……?」
フィリアが顔を上げる。
王宮での生活。それは、分厚い壁と儀礼に囲まれた、孤独な鳥籠の日々だ。
「も、もし……もしも、ご迷惑でなければ……」
フィリアはスカートの裾をぎゅっと握りしめ、意を決してライルを見上げた。
「わたくしも……連れて行っていただけないでしょうか。
ライル様の育った場所を、見てみたいのです。
それに、その……もっと、お二人と一緒に強くなりたくて……」
消え入りそうな声。けれど、そこには明確な「意志」があった。
王女が貴族の領地へ私的に訪問するなど、前代未聞だ。
だが、ライルは迷わなかった。
「迷惑なわけがないよ。……おいでよ、フィリア。僕の自慢の故郷だ」
ライルが手を差し出すと、フィリアの顔が花が咲いたように輝いた。
「はいっ……! 喜んで!」
その様子を、サクヤは満足そうに見守っていた。
(計画通りですね。ローレンツ家のご両親公認となれば、外堀は完全に埋まります。それに……あの土地のダンジョンなら、お二人のさらなる覚醒も期待できる)
女神の描く「夏期講習」の計画書が、脳内で着々と更新されていくことを、二人はまだ知らない。
翌日。
サクヤの手腕(という名の裏工作と根回し)により、国王からの許可はあっさりと下りた。
表向きは「ローレンツ伯爵領での魔導視察および静養」。
実態は、若き英雄候補たちの、早すぎる夏の逃避行だ。
早朝、学園の正門前。
ローレンツ家の紋章が入った馬車に乗り込む三人。
見送る生徒たちの視線は様々だったが、ライルはもう気にならなかった。
「行きましょう。僕たちの場所へ」
馬車が動き出す。
石畳を蹴る蹄の音が、新しい季節の始まりを告げていた。
目指すは北の辺境、ローレンツ伯爵領。
そこで待つのは、優しい家族と――おそらく、今まで以上に過酷な「女神式特訓」である。
ライルは隣で嬉しそうに窓の外を見るフィリアと、向かいで優雅に微笑むサクヤを見て、小さく笑った。
(まあ、なんとかなるか。俺は世界一、運がいいんだから)
馬車は王都の門を抜け、青空の下へと駆け抜けていった。




