第78話:虚無の迷い子と、魂を溶かすタイムリミット
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【漆黒の檻 ~奪われた五感~】
――どれほどの時間が経ったのだろうか。
一秒なのか、それとも百年が過ぎたのか。
ライルが意識を取り戻した時、そこには『何にもない』という圧倒的な事実だけが広がっていた。
「……ッ、みんな! ベイラ! サクヤ!」
叫ぼうとした。しかし、喉が震えている感覚はあるのに、一切の『音』が鼓膜に届かない。
目を見開いても、光の粒子一つ存在しない完全な漆黒。
足をつけて立つべき地面(重力)もなく、自分が上を向いているのか下を向いているのかさえ分からない。ただ、底なしの泥水の中に全身を沈められているような、気味の悪い浮遊感だけがあった。
ライルは咄嗟に両手を握りしめた。
直前まで、絶対に離すまいと固く握りしめていたはずの、愛する妻たちの細く温かい手の感触。
それはもう、ライルの掌のどこにも残っていなかった。
(嘘だろ……離れた? みんな、どこへ行った!?)
手探りで周囲の空間を掻きむしる。だが、指先には空気の抵抗すら感じない。
十五人の妻たちと、完全に分断されてしまったのだ。
「誰か……返事をしてくれ! どこにいるんだ!!」
声にならない声で叫びながら、ライルは自身の内にある神気(光)を放とうとした。
しかし、指先にほんの僅かな光が灯った瞬間、それはシュッと音もなく吸い込まれ、掻き消えてしまった。
魔法も、光も、存在すらも許されない空間。
ここが、世界そのものを喰らい尽くす悪魔の渦――『レヴィアタン』の腹の中だった。
◇
【最高神の警告 ~最悪のタイムリミット~】
『……無駄じゃ、ライル』
その時、魂の奥底から、かつてなく重く、沈痛な声が響いた。
同化している最高神だった。いつものような飄々としたふざけた口調は微塵もない。
(爺さん……ッ! ここは一体どうなってる!? みんなは無事なのか!?)
『落ち着け。……結論から言えば、嫁たちは生きておる。お前と同じように、この巨大な「虚無の空間」のどこかに飛ばされ、暗闇の中で彷徨っておるはずじゃ』
(なら、探さないと! 神気をレーダーの代わりに……)
『だから無駄じゃと言っておる!』
最高神の怒声が、ライルの焦りを打ち据えた。
『ここはレヴィアタン……すなわち「事象の消失」そのもの。お前が力を放てば放つほど、この空間はそれを「なかったこと」として瞬時に喰らい尽くす。光も音も、魔力も届かん。
……だが、それ以上に最悪なことがある』
最高神の声が、微かに震えていた。
『自分の手を……いや、魂の輪郭を感じてみい』
言われて、ライルは自身の内側に意識を向けた。
――ゾッとした。
永遠に尽きることのないはずの強大な神王の魂が、まるで熱湯に落とされた角砂糖のように、表面から少しずつ、しかし確実に『溶けて』いたのだ。
『ここは、あらゆる存在を「無」へ還元する胃袋じゃ。
神の魂を持つワシらでさえ、この空間に留まり続ければ、やがて魂ごと霧のように分解され……完全に「消滅」する』
(消滅……?)
『ああ。死ぬのではない。「最初からこの世に存在しなかったもの」として、世界の歴史から完全に拭い去られるのじゃ。
……残された猶予は、もって数時間といったところか』
ライルの全身の血が、一気に凍りついた。
数時間。
たった数時間で、自分だけでなく、フィリアやサクヤ、ベイラたち十五人の愛する妻たちの魂が、この絶対の暗闇の中で霧散して消えてしまう。
◇
【手がかりのない焦燥と、孤独への恐怖】
『ライル。ワシと同化しているお前はまだ長く耐えられる。だが、嫁たちはどうじゃ?
ただでさえ子供たちを庇って神気を消耗した状態だ。しかも、この絶対的な孤独と暗闇の中……心が折れれば、魂が溶ける速度はさらに早まるぞ』
(……ッ!!)
ライルは、見えない暗闇の中で頭を抱え、絶望に歯を食いしばった。
自分の命が消えることなど、どうでもよかった。
彼が何よりも恐れたのは、妻たちが今この瞬間、たった一人で暗闇の中に取り残されているという事実だった。
(ベイラ……リーフェ……フィリア……サクヤ……)
彼女たちは強くなった。迷宮を自らの足で踏破し、真の女神へと成長した。
しかし、それでも。愛する家族の手を離れ、何も見えず何も聞こえない虚無の中で、自分が少しずつ消滅していく恐怖に直面しているのだ。
どれほど心細いだろうか。どれほど自分の名前を呼んで泣いているだろうか。
「くそっ……! なんで……なんで!!」
声が出ないまま、ライルは虚空を殴りつけた。
圧倒的な力を持つ神王でありながら、今この瞬間、自分は何もできない。
妻の居場所を示す手がかりはゼロ。光を灯すこともできず、手を繋ぐこともできない。
砂時計の砂が落ちるように、彼女たちの命が溶けていくのを、ただ待つことしかできないのか。
(何か……何か方法があるはずだ。空間を斬り裂く? いや、物理法則がない。なら、僕の命をすべて神気に変えて、一瞬だけでもこの空間全体を照らすか……?
いや、ダメだ。それじゃあ彼女たちを見つけた瞬間に僕が消える。あいつらを悲しませるわけにはいかない……っ!)
思考が空回りする。
焦燥感が胸を掻き毟り、タイムリミットを告げる見えない秒針の音が、ライルの精神をギリギリと追い詰めていく。
「……待っててくれ。絶対に、僕が……見つけ出すから」
ライルは、溶け始めている自身の手を強く握りしめ、終わりのない漆黒の海へと泳ぎ出した。
手がかりなど何一つない。
それでも、ここで立ち止まれば、愛する者たちは完全に「無」へと帰してしまう。
音も光もない最悪の奈落で、ただ家族を想う神王の、絶望的で孤独な捜索が始まった。




