第47話:命の重さと、愛しき『普通』の奇跡
【ローレンツ領・屋敷の廊下】
「うぅ……っ、ああっ……!」
重厚な扉の奥から、第一夫人・フィリアの苦しげな声が響いていた。
廊下で待つライルは、祈るように両手を組み、落ち着きなく歩き回っていた。
「ライル、落ち着きなさい。床がすり減りますわよ」
サクヤが静かに声をかけるが、ライルの耳には入っていない。
上の娘たち(女神)が生まれた時は、こんな生々しい陣痛の苦しみはなかった。
神の魂が宿った彼女たちは、光に包まれてポポンと生まれ、直後には魔法を使いこなしていたのだ。
しかし、神界が空になった今、フィリアのお腹にいるのは正真正銘、ただの「人間の子供」。
母体が自らの血と肉を分け与え、命がけで産み落とす『普通の出産』が、そこにはあった。
「……おぎゃあ! おぎゃあぁぁっ!!」
数時間後。産声が響いた瞬間、ライルは弾かれたように産室へと飛び込んだ。
「フィリア!」
汗だくになり、荒い息を吐きながらも、フィリアは天使のように微笑んでいた。
その腕の中には、血に濡れた、しわくちゃで真っ赤な小さな命が抱かれている。
「ライル様……。元気な、男の子です……」
助産師から布にくるまれた赤ん坊を渡された時、ライルは自身の腕が小刻みに震えていることに気づいた。
軽い。あまりにも軽い。
そして、恐ろしいほどに柔らかく、脆い。
「……あ、ああっ……」
赤ん坊が、ライルの無骨な指を、小さな小さな手でギュッと握りしめた。
魔力など微塵も感じない。ただ、ドクドクという温かい心臓の鼓動だけが伝わってくる。
「……よく頑張ったね、フィリア。ありがとう。本当に、ありがとう……」
ライルは、赤ん坊を抱いたままフィリアの額に口付け、ポロポロと涙を流した。
どんな強敵の前でも決して折れなかった英雄が、ただ一つの小さな命の重さに圧倒され、声を上げて泣いたのだ。
◇
【それぞれの奇跡 ~命の形~】
フィリアの出産を皮切りに、ローレンツ家には次々と「当たり前の奇跡」が訪れた。
第二夫人・セレナ(エルフ)の出産。
森の精霊たちが静かに見守る中、彼女は美しいハーフエルフの女の子を産み落とした。
「見て、ライル様。この子の耳……私と同じ、少し尖っていますのよ」
セレナが愛おしそうに撫でる赤ん坊は、周囲の木々を異常成長させるような神威を持たず、ただ穏やかな寝息を立てていた。
第三夫人・ミア(獣人)の出産。
普段は誰よりもタフなミアが、この時ばかりはライルの手を強く握り締め、涙を浮かべて痛みに耐えた。
「へへっ……ライル。あたしたちの子だ」
生まれたのは、小さな獣の耳と尻尾を持った男の子だった。炎を吹くこともなく、ミルクを探してミアの胸に顔を擦り付けるだけの、無邪気な獣の命。
第四夫人・アナスタシア(魔族)の出産。
薄暗いランプの灯る部屋で、彼女はハーフ魔族の女の子を胸に抱いていた。
「……お父様のように、優しい子に育ってほしいですわ」
重力で空間を歪めることもない。ただ小さな角が生えただけの、か弱い命。アナスタシアの表情には、魔族の姫としての冷酷さは微塵もなく、ただ深い母性だけが溢れていた。
◇
【最強の姉たちと、守るべきもの】
四つのベビーベッドが並ぶ子供部屋。
そこには、異様な光景が広がっていた。
身長190センチメートル。誰もがひれ伏す絶世のプロポーションと美貌を持つ、第一・第二世代の十柱の女神(姉)たちが、ベッドをぐるりと囲み、息を殺して覗き込んでいたのだ。
「……小さい。すごく、小さいですわ」
長女のベイラが、自身の長いストレートヘアが赤ん坊の顔に触れないよう、そっと手で押さえながら囁く。
「パパ。この子たち……魔力結界、張ってないよ? これじゃ、ちょっと転んだだけでも怪我しちゃう」
ヘスティアーが、信じられないものを見るように目を丸くする。
「しーっ。大きな音を立てたら、心臓がびっくりして止まっちゃうかもしれないわ」
リーフェが、自身の強大すぎる神気を極限まで抑え込み、つま先立ちで歩く。
最強の女神たちは、初めて知ったのだ。
自分たちがどれほど特異な存在であったか。
そして、この世界で生きる「普通の命」が、どれほど脆く、だからこそ尊く、愛おしいものであるかを。
「私たちが……守らなきゃ。この子たちの、普通の明日を」
ヘカッテが、そっと弟の小さな頬を指の背で撫でながら呟く。他の姉たちも、深く、静かに頷いた。
部屋の入り口でその様子を見ていたライルは、胸がいっぱいになっていた。
規格外の力を持つ娘たちと、何の力も持たない普通の子供たち。
種族も力も違う。けれど、確かな愛で結ばれた家族がここにいる。
(……この幸せを、僕は絶対に守り抜く。たとえ何があっても)
父親としての強固な決意。
それが、ライルの魂に深く刻み込まれた瞬間だった。
◇
【そして、月下の残酷な宣告】
その日の深夜。
誰もが寝静まり、幸福の余韻だけが残る屋敷のバルコニー。
ライルは、夜風に当たりながら星空を見上げていた。
そこへ、静かな足音が近づいてきた。
桜色の薄絹を纏った、最愛の正妻、サクヤだった。
「サクヤ。……いや、子供たちの寝顔を見ていたら、なんだか嬉しくてね。
いつかあの子たちが学校に行って、普通の恋をして、大人になっていく。……その当たり前の未来が、たまらなく愛おしいんだ」
ライルが振り返って微笑むと、サクヤも優しく目を細めた。
「ええ。どの子も、主さまに似てとても温かい魂を持っています。
……きっと、優しくて強い子に育ちますよ」
サクヤはそう言って、そっと自身のお腹に手を当てた。
「……実は、主さま。私の中にも、三人目の命が宿りました」
「本当かい!? サクヤ!」
ライルは歓喜の声を上げ、最愛の妻を抱きしめようと手を伸ばした。
しかし。
「――え?」
ライルの手が、サクヤの腕を……すり抜けた。
サクヤの腕が、肩が、そして桜色の髪の毛先が、月明かりを透かして、ガラスのように透明になりかけていたのだ。
「サク、ヤ……? 君の体、どうして……」
サクヤは悲しげに微笑み、静かに首を振った。
「主さま。神界のシステムはもうありません。
神の魂のストックがない今、私が『新しい命(人間の魂)』を創り出すということは……私自身の『神格(存在)』を削り、新しい命へと変換するほかに方法がないのです」
「……な、なんだって……?」
ライルの思考が真っ白になる。
このままサクヤが出産を迎えれば、彼女は命と引き換えに――世界から完全に消滅する。
「ごめんなさい、主さま。
……でも、私は、貴方との『普通の子』が、どうしても抱きしめてみたかったのです」
サクヤの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ち、バルコニーの床に落ちる前に光の粒子となって消えた。
『普通の幸せ』の絶頂から、ライルは一気に絶望の淵へと突き落とされた。
世界そのものが、「これ以上の幸せは許さない」と宣告していた。




