第38話:氷の女王の進撃と、サクヤが見落とした“死角”
【ローレンツ領・温室のティータイム】
ある穏やかな午後。
サクヤは、温室で紅茶を楽しんでいた。
窓の外では、十人の娘たちが何やら地図を広げてキャッキャと相談している。
「あらあら。また何か企んでいるようですね」
サクヤは微笑ましく見守っていた。
もちろん、彼女は元女神として「世界のバランス(因果律)」を理解している。
娘たちが多少派手に動いても、夫ライルの「幸運」が緩衝材となり、世界は良い方向へ調整される――はずだった。
(……ええ。主さまの幸運は絶対。多少の無茶も、すべてハッピーエンドに収束するわ)
だが、サクヤは気づいていなかった。
ライルの幸運は**「ライルと家族にとっての最良」を選ぶあまり、「サクヤ自身の危機感(予知)」すらも、「心配しなくていいよ」と甘く麻痺させてしまっている**ことに。
「ねえ、ママ! 私たち、ちょっとお出かけしてくる!」
長女ベイラ(8歳・氷)が、ドレスを翻してやってきた。
「行ってらっしゃい、ベイラ。……お父様のお庭を広げるのでしょう?
怪我をさせないように(相手に)、ほどほどになさいね」
「わかってるわ! 北の方が少し暑苦しいから、涼しくしてくるだけ!」
サクヤは笑顔で送り出した。
まさかそれが、世界の均衡を崩す最初の一石になるとは知らずに。
◇
【北の大国・ガレリア帝国 ~国境の要塞~】
大陸北部を支配する軍事国家、ガレリア帝国。
「鋼鉄の皇帝」ゼギウスは、百万の重装歩兵と魔導戦車を国境に集結させていた。
「レギュラント王国など、新興の小国に過ぎん!
神々が消えたいまこそ、我が帝国の武力で大陸を統一するのだ!」
地響きを立てて進軍する大軍勢。
その前に、たった一人の少女が舞い降りた。
金髪にブルーの瞳、透き通るような肌を持つ、長女・ベイラである。
「……うるさいですわね。パパがお昼寝中なのよ」
ベイラは戦車の砲塔の上に優雅に着地した。
「な、なんだこのガキは!? 撃て! 排除しろ!」
皇帝ゼギウスが叫ぶ。
数百の魔導砲がベイラに向けられ、発射された――瞬間。
キィィィィィン……。
音が、凍った。
発射された魔力弾が、空中で静止し、美しい氷の結晶へと変わってパラパラと落ちる。
それだけではない。
戦車のエンジンが、兵士の鎧が、そして皇帝の吐く息までもが、瞬時に凍りついた。
「な、ば、馬鹿な……!? 魔法の発動すらしていないのに……!?」
皇帝は戦慄した。
これは魔法ではない。彼女が存在するだけで、原子の運動が停止しているのだ。
ベイラは皇帝の目の前にふわりと降り立ち、扇子で彼の顎を持ち上げた。
「……私のパパは、暑がりなんです。
あなたたちの熱気(野心)は、少し温度が高すぎますわ」
「ひ、ひぃっ……!」
「今日からここは『パパの避暑地』です。
この戦車はかき氷機に。兵士たちは雪像作りの職人になりなさい。
……返事は?」
「イ、イエス・マイ・クイーン……!!」
皇帝は土下座した。
恐怖による服従ではない。
彼女の圧倒的な「冷徹な美」と、逆らえば魂ごと凍結されるという本能的な理解が、国ひとつを無血開城させたのだ。
こうして、北の大国はわずか数分で、レギュラント王国の属領「涼風の地」となった。
◇
【ローレンツ領・その夜】
「パパ! お土産!」
ベイラが嬉しそうに帰還し、ライルに『ガレリア帝国・献上目録』を手渡した。
「えっ……ベイラ、これって……」
「北の国よ。パパ、夏は涼しい別荘が欲しいって言ってたでしょ?
皇帝のおじさんが『喜んで管理します』って言ってたわ」
「皇帝のおじさんが……?(あの大国がか!?)」
ライルは冷や汗をかきつつも、娘の頭を撫でた。
「あ、ありがとう……。でも、無理しちゃダメだよ?」
「平気よ! だって私、パパの娘だもん!」
家族の団欒。幸せな夕食。
だが、その隅で、サクヤだけが違和感を覚えていた。
(……おかしいわ)
サクヤは、手元のティーカップを見つめた。
淹れたばかりの紅茶が、波紋一つ立てずに**「静止」している。
いや、違う。
カップの縁の空間が、わずかに「ズレて」**いる。
まるで、パズルのピースが強引にはめ込まれたかのように、世界の解像度がそこだけ粗い。
(ガレリア帝国は、本来ならあと数十年は繁栄するはずの国。
それをベイラが強制的に書き換えたことで……因果のエネルギーが行き場を失っている?)
サクヤは初めて、背筋に冷たいものを感じた。
ライルの「幸運」は、不都合な事実(戦争や悲劇)を消滅させる。
だが、消えたエネルギーはどこへ行く?
物理法則において、エネルギーは消滅しない。移動するだけだ。
「……ママ? どうしたの、顔色が悪いよ?」
ノア(3歳)が心配そうに覗き込んでくる。
その瞳の奥に、一瞬だけ**「深淵」**が見えた気がして、サクヤはハッとした。
「いえ……なんでもないわ。
さあ、デザートにしましょう」
サクヤは笑顔を作った。
だが、心臓の鼓動は早まるばかりだった。
◇
【北の属領(旧ガレリア帝国)の異変】
一方、ベイラによって「平和な避暑地」となった北の国。
元・皇帝ゼギウスは、兵士たちと共に雪像を作っていた。
「へへ……楽しいな、雪遊び」
「戦争なんてくだらねえや。ベイラ様バンザイ」
兵士たちは洗脳されたかのように幸福そうだった。
だが、夜の見回りをしていた兵士の一人が、妙なことに気づいた。
「……おい。あそこの景色、おかしくないか?」
「ん? なんだ?」
彼らが指差したのは、城壁の外れにある古い森。
そこだけ、色がなかった。
白黒写真のように、色彩が抜け落ちている。
「雪が積もってるだけだろ?」
「いや、違う。……音がしないんだ」
風の音も、虫の声も、雪を踏む音さえもしない。
兵士が恐る恐る、その「色のない領域」に石を投げ込んだ。
ヒュン。
石は地面に落ちる音を立てず、空中で溶けるように消滅した。
「……え?」
「おい、逃げろ! あれはヤバい!」
兵士たちが背を向けた瞬間。
「色のない領域」が、生き物のようにグニョリと広がり、逃げ遅れた兵士の足を飲み込んだ。
「ぎゃああああッ!? 足が! 俺の足が『無い』!!
痛くない! でも無いんだぁぁぁッ!!」
悲鳴すらも、虚無に吸い込まれて消えていく。
ベイラがもたらした「永遠の平和(静止)」の裏側で、世界が処理しきれなかった「歪み」が、物理的な穴となって開き始めていた。
だが、ライルの屋敷には、まだその報告は届かない。
幸福な食卓の裏で、世界の崩壊は、じわじわと、確実に進行していた。




