第35話:深海の条約と、エルフ母様の「しつけ」
【レギュラント王城・謁見の間(再)】
「……石版だ」
国王アルセイド三世は、机の上に置かれた湿った岩を見つめていた。
そこには、深海魚の骨で刻まれた古代文字があった。
『深海都市アトランティアは、本日をもって地上との不可侵条約を破棄し、ユリィナ様の“生け簀”となることを誓います』
「……生け簀?」
国王が震える声で読み上げる。
国家譲渡ですらない。食糧庫扱いである。
「説明しろ、ライル!
お前の娘は、海で一体何をしたんだ!?」
ライルは頭を抱えていた。
隣には、6歳になったセレナの次女、ユリィナが立っている。
透き通るような銀髪に、海の色を映した瞳。
彼女は、濡れたドレスの裾を絞りながら、無邪気に笑った。
「えへへ。だってパパ、最近お疲れでしょ?
だから、美味しいお魚を食べさせてあげようと思って、海に歌を歌ったの」
◇
【回想:東の海・数時間前】
港町リュステリア。
加護を失い、魔海獣クラーケンや深海族の脅威に晒されていたこの海に、ユリィナは降り立った。
「海の神様はもういないのね。……かわいそう」
ユリィナが涙を一粒、海に落とす。
すると、その涙が波紋となって広がり、荒れ狂う嵐を一瞬で鎮めた。
そして、彼女は歌い出した。
それは、失われた海神の権能を再現する《鎮魂と支配の歌》。
ザバァァァッ!!
海が割れた。
海底から、巨大な神殿都市が浮上してくる。
深海族の王(全長10メートルの半魚人)が、震えながら現れた。
「ギョギョ……! 誰だ、我らの眠りを妨げるのは!」
「こんにちは、お魚さん」
ユリィナはニッコリ笑った。
「パパがね、大トロ……っていうのが好きなんだって。
あなたたち、持ってる?」
「な、舐めるな人間! 我らは誇り高き深海の……」
「……持ってないの?」
ユリィナが首をかしげると、背後の海面が盛り上がり、高さ500メートルの津波が生成された。
「持ってないなら、探しに行ってもいいかな? ……海の底まで」
「ぎゃあああ! あります! 探します!
だから海をひっくり返すのはやめてくださいぃぃッ!」
こうして、深海族は「パパの食材調達係」として服従を誓わされたのである。
◇
【現在:王城・謁見の間】
「……というわけで、お魚さんがお友達になってくれたの!」
ユリィナの報告に、国王は白目を剥いた。
武力制圧ではない。環境支配による恫喝だ。
「ラ、ライル……。どうするんだこれ。
深海族といえば、地上侵略を狙う厄介な種族だぞ?
それが『食材係』になったと言われても、国際問題が……」
その時だった。
「――お話は聞きましたわ、ユリィナ」
凜とした、しかし絶対零度より冷たい声が響いた。
謁見の間の扉が開き、第二夫人・セレナが静かに入ってきた。
かつてのエルフの姫。今は《精霊姫の艶衣》を纏う、森と風の支配者。
彼女は優雅な足取りでユリィナの前に立つと、ゆっくりと扇子を閉じた。
「お、お母様……?」
ユリィナがビクリと肩を震わせる。
最強の娘たちも、母親には頭が上がらないのだ。
「ユリィナ。……パパのためにお魚を獲ってきた。その気持ちは立派です」
「ほ、本当?」
「ええ。ですが……やり方が美しくありません」
セレナは、机の上の石版を扇子で指した。
「『生け簀』にするなど、品がありませんわ。
相手にも生活があります。一方的な搾取は、統治者として三流のすることです」
「ご、ごめんなさい……」
ユリィナがシュンとする。
ライルと国王は「おお、さすが母親! まともな教育だ!」と安堵した。
だが、セレナはそこで終わらなかった。
彼女は優雅に微笑み、深海族の使者(水槽に入ったタコ)に向き直った。
「……というわけで、深海の王よ。
この石版の条約は破棄します」
「お、おお! さすがエルフの姫君! 話が分かる!」
タコが喜んだのも束の間。
セレナは懐から、分厚い羊皮紙の束を取り出した。
「代わりに、こちらの**『通商・安全保障および恒久的隷属に関する条約(改訂版)』**にサインをなさい」
「……はい?」
「内容は簡単ですわ。
深海族はレギュラント王国の『自治領』として認めます。
その代わり、海産物の流通管理、海上警備、そしてパパ……いえ、夫ライルへの『最優先献上権』を義務付けます。
もちろん、税率は森の民と同じく『所得の30%』です」
「さ、30%!? そ、それは高い! 我らには我らの主権が……!」
タコが抗議しようとした瞬間。
ヒュンッ!!
セレナが放った「不可視の矢」が、水槽のガラスをミリ単位で削り取った。
水が漏れ出す。
「……あら、手が滑りましたわ。
次は、あなたの眉間(あるのか?)に滑ってしまうかもしれません」
セレナの背後に、巨大な風の精霊王(激怒モード)の幻影が浮かぶ。
その笑顔は、慈愛に満ちているようで、深淵より深かった。
「……ユリィナは優しすぎましたのよ?
生け簀なら餌をもらえますが……『納税者』になれば、働かなくてはなりません。
さあ、どちらがいいですか?
今ここで干物になるのと、パパのために働くのと」
「は、働きますぅぅぅッ!! サインしますぅぅッ!!」
タコは墨を吐いてサインした。
◇
【解決?】
セレナは満足げに羊皮紙を巻き取ると、ユリィナの頭を優しく撫でた。
「わかりましたか、ユリィナ。
力でねじ伏せるだけではダメなのです。
相手を生かさず殺さず、末永くパパのために貢献させる……それが『賢い妻』の在り方ですよ」
「うん! わかったお母様!
次はもっと上手に搾り取るね!」
「良い子です」
二人は花が咲くような笑顔で見つめ合った。
ライルと国王は、抱き合って震えていた。
「……ラ、ライルよ」
「……はい」
「お前の嫁さん……娘より怖くないか?」
「……知ってました」
こうして、東の海は正式にレギュラント王国の「経済水域」となった。
武力ではなく、エルフの母による「超・不平等条約」によって。
一件落着……と思われたその時。
空から、黒い鳥が舞い降りてきた。
魔族の国からの使い魔だ。
「……ご報告します。
第四夫人アナスタシア様の故郷……魔界にて、クーデターが発生。
現魔王が幽閉され、強硬派が『地上侵攻』を企てているとのこと……」
「……なんですって?」
今度は、アナスタシア(魔族の姫)の目が怪しく光った。
「パパの国を狙うですって?
……ふふ。いい度胸ですわね。
次は、私が『教育』に行かなくてはなりませんね」
ライル家の「世界平和(という名の制圧)」活動は、陸、海に続き、いよいよ異界へと飛び火しようとしていた。




