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第九話 薔薇の刃

宴から数日、イルゼは幾度となくヴィルヘルムの前に姿を現すようになった。


素顔を隠したまま、時に酌をし、時に他愛のない世間話を装いながら、距離を詰めてくる。


「……あなたは、随分と若いのに、大したものね」


薄布の下から覗く瞳が、妖しく細められる。


「そのお力があれば、この先、いくらでも高みに登れる。……そうなった時、隣に誰がいるかは、大切だと思わない?」


言葉の端々に、明確な誘いの色があった。


だが、ヴィルヘルムはそのたびに、どこか芝居がかった違和感を拭えずにいた。


(この人の言葉には、熱がない)


口説くような言葉を紡ぎながら、その瞳の奥は、いつも凍りついたように冷たかった。



その夜も、イルゼは同じように接近してきた。


「今宵は、二人で話でもと思って」


差し出された酒杯を、ヴィルヘルムは静かに受け取った。


「……一つ、聞いてもいいですか」


「何かしら」


「あなたは、俺の何を見て、そんな言葉をかけているんですか」


イルゼの手が、微かに止まった。


「……どういう意味?」


「俺の力ですか。それとも、俺自身ですか」


沈黙が落ちた。


遠くから、酒宴の名残の笑い声がかすかに聞こえてくる。


リーゼルの明るい声、エルサの淡白な相槌、フリッツの低い声。


その温かな喧騒と、目の前の作り物めいた微笑みとの落差に、イルゼの表情が僅かに歪んだ。


「……どうして」


声が、震えていた。


「どうして、そんな……当たり前のことを聞くの」


「当たり前、では、ないと思います」


ヴィルヘルムは、まっすぐにイルゼを見つめた。


「あなたの言葉には、いつも何かが足りない。……多分、本心が」


その一言が、決壊の引き金になった。


イルゼは、震える手で、顔を覆っていた薄布をゆっくりと外した。


現れたのは、化粧の下に隠されていた、思いつめた表情の女の顔だった。


腰まで届く金色の髪、そして涙に濡れた青い瞳。


涙が、頬を伝う。


「……ごめんなさい」


その声は、これまでの妖艶さとは似ても似つかない、震える本音だった。


「私は、バルドゥイン様に命じられて、あなたを篭絡(ろうらく)しに来たの」


「使い物にならなくしろ、と」


涙を拭うこともせず、イルゼは続けた。


「私には、婚約者がいるのに。テオドールという、大切な人が」


「それでも、逆らえなかった」


「逆らえば、どうなるか分かっていたから」


ヴィルヘルムは、静かにその言葉を受け止めていた。


「……責めるつもりはありません」


「あなたも、この世界の理不尽に、押し潰されかけているだけだ」


イルゼは、驚いたように顔を上げた。


「なぜ……怒らないの」


「怒ったところで、何も変わらない。それより」


ヴィルヘルムは、まっすぐにイルゼを見つめた。


「あなたが、本当はどうしたいのか。それが知りたい」


長い沈黙の後、イルゼは涙を拭い、静かに口を開いた。


「……私は、イルゼ・フォン・ローゼンタール」


初めて、正式な家名を名乗った。


「もう、あの人の駒でいるのは、うんざりだった」


その声には、これまでとは違う、確かな意志が宿っていた。


「私にできることがあるなら、力を貸したい」



その晩、イルゼは静かに語り始めた。


「……バルドゥイン様の狙いは、ただの戦功じゃない」


「と、言うと」


「エーレンガルトの国王には、複数の御子がいる。だけど、まだ誰を後継に据えるか、正式には定まっていないと聞く」


イルゼは、声を潜めるようにして続けた。


「王位を継ぐ資格を持つ王族は、他にもいる。だけど、誰も表立って動けずにいる」


「そこに、バルドゥイン様は目をつけている」


(――名ばかりの主を立て、実権だけを握る)


前世で、そうやって国を動かした者たちの末路を、いくつも知っている。


大抵は、いずれ傀儡自身か、あるいは別の野心家に足元を掬われる末路だった。


「傀儡に据える王族を見繕い、実権を握る……ということですか」


「それだけじゃない」


イルゼは、首を横に振った。


「あの方が本当に欲しがっているのは、"レギウス"の名だと聞いたことがある」


「レギウス?」


「国王に次ぐ者だけが名乗れる、特別な称号。フォンとも比べ物にならない、事実上、この国の頂点に手をかけたことを示す名よ」


ヴィルヘルムは、息を呑んだ。


「そんな称号が……」


「代々、そう簡単に授けられるものじゃない。国に多大な戦功を立てた者にだけ、王が直々に与える名だから」


イルゼは、疲れたように息を吐いた。


「あの方は、それを本気で狙っている。だからこそ、この戦にこれほど執着しているの」


「……ですが、戦場でどれだけ功績を挙げても、王都で誰かが後ろ盾をしていなければ、簡単に握り潰されるのでは」


その問いに、イルゼは小さく頷いた。


「その通りよ。……だから、バルドゥイン様には、王都に弟君がいる」


「弟、ですか」


「エーリヒ様。兄上様以上に頭の切れる方だと聞く。王都に留まって、様々な根回しをしているそうよ」


イルゼの声には、僅かな嫌悪の色が混じっていた。


「もっとも、あの方は……好き勝手が過ぎるとの噂もあるけれど」


「好き勝手、とは」


「それ以上は、私も詳しくは知らない。……ただ、バルドゥイン様は、弟君のことだけは、なぜか無条件に信じ切っている」


その話を聞きながら、ヴィルヘルムはふと一つの懸念を口にした。


「……テオドール殿は、今どちらに」


イルゼの表情に、一瞬、影が差した。


「分からない。……私が連れ出されてから、何の便りもない」


その不安げな声に、ヴィルヘルムの胸にも、小さな棘が刺さった。



(第十話へ続く)


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