第十話 届けられた首
イルゼが部隊に加わって数日、不穏な気配が陣中に漂い始めていた。
「……バルドゥイン様の陣から、イルゼの行方を尋ねる者が出た、という話がある」
フリッツが、声を潜めて報告してきた。
ジークハルトの耳にも、同じような噂が届いていた。
「遅かれ早かれ、来るとは思っていたが」
ヴィルヘルムは、イルゼを人目につかない天幕の奥へと移すよう指示した。
「万一の時は、隠れていてください」
イルゼは、不安げな表情を浮かべながらも、頷いた。
「……分かったわ」
その予感は、翌日には現実になった。
「バルドゥイン様が、お呼びだ」
使者として現れたのは、見覚えのある部下の一人だった。
予期していた問いに、ヴィルヘルムは表向き、努めて平静を装った。
「イルゼ殿を、返していただこう。バルドゥイン様が、直々にお尋ねになりたいことがあるとのことだ」
その言い方には、有無を言わせぬ圧があった。
だが、ここでイルゼを差し出せば、待っているのは死だ。
ヴィルヘルムは、努めて冷静に応じた。
「イルゼ殿は、我々の部隊に正式に加わった者です。何をお尋ねになりたいのか、まずお聞かせ願いたい」
「……そんな道理が、通ると思っているのか」
「道理でなければ、何だと?」
ヴィルヘルムは、一歩も引かずに使者を見据えた。
「バルドゥイン様は、能力ある者を重んじると仰っていた。イルゼ殿は、兵站にも、陣中の様子にも通じている。……手放すことこそ、閣下にとって損なのではありませんか」
それは、半ば詭弁だった。
だが、使者は僅かに怯んだ様子を見せた。
ジークハルトやエルサも、さりげなく周囲に控え、無言の圧をかけている。
使者は、しばらく押し黙った後、忌々しげに踵を返した。
「……追って、沙汰する」
その背中を見送りながら、ヴィルヘルムは胸を撫で下ろした。
(これで、時間は稼げた……)
その安堵は、長くは続かなかった。
翌朝、陣の入り口に、別の使者が立っていた。
その手には、布に包まれた何かがあった。
「バルドゥイン様より、言伝だ」
使者は、無感情な声でそう言うと、布の包みを地面に置いた。
「昨日の返答、不服だとのことだ」
布が、静かに解かれる。
現れたものを見て、ヴィルヘルムの喉から、声にならない音が漏れた。
昨日の使者の首だった。
見開かれたまま、虚空を見つめる目。
事切れてなお、恐怖に歪んだ表情。
「……っ」
込み上げる吐き気を、ヴィルヘルムは必死に堪えた。
手が震える。
足元が、崩れ落ちそうになる。
これまで、戦場で人が死ぬ光景は、何度も見てきたはずだった。
だが、それは常に混乱の中、遠目に、あるいは采配の一部としてだった。
これほど直接的に、意図を持って届けられた死を、正面から見せつけられたのは、初めてだった。
「バルドゥイン様は、こう仰っていた。……"次に会う時は、この程度では済まぬぞ"、と」
使者は、それだけ告げると、静かに去っていった。
遠くから、それを見ていたイルゼが、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「……私のせいだ」
震える声で、そう呟く。
「私が、大人しく戻れば……これ以上、誰も死なずに済むかもしれない」
一歩、前に出ようとするイルゼの腕を、ヴィルヘルムは強く掴んだ。
「駄目です」
「でも……!」
「あなたが戻ったところで、あの人は止まらない。もう、そういう問題じゃなくなっている」
イルゼは、唇を噛みしめながら、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……ごめんなさい。ごめんなさい……」
繰り返す謝罪の言葉に、ヴィルヘルムはただ、その肩にそっと手を置くことしかできなかった。
残されたヴィルヘルムは、しばらく動けなかった。
ジークハルトが、静かに肩に手を置いた。
「……無理もない」
「俺は……」
声が、掠れた。
「俺の、せいで」
「お前のせいじゃない」
ジークハルトの声には、珍しく強い響きがあった。
「あの男の狂気の、せいだ」
ヴィルヘルムは、震える拳を握りしめた。
恐怖は、消えていなかった。
それでも――
「……行かなければ」
「なに?」
「バルドゥインに、直接会いに行く」
ジークハルトが、目を見開いた。
「正気か。今のあれを見て、なお」
「今のあれを見たからこそだ」
ヴィルヘルムは、震える声のまま、それでも顔を上げた。
(死を恐れず単身で敵将の前に立ち、言葉一つで戦を止めた者もいたと、前世で読んだ)
眉唾な話だと、その頃は思っていた。
だが今、縋れるものは、それしかなかった。
「逃げても、隠れても、あの人は止まらない。……なら、俺が直接、話をつけるしかない」
その目には、恐怖と共に、確かな覚悟が宿っていた。
ジークハルトは、しばらくヴィルヘルムを見つめていたが、やがて短く息を吐いた。
「……分かった。だが、一人では行かせん」
「ジークハルトさん」
「首を差し出すつもりなら、俺も一緒に差し出してやる。それだけの話だ」
その言葉に、ヴィルヘルムは奥歯を噛みしめながら、小さく頷いた。
(第十一話へ続く)




