第三十五話 東方の約定
ゴルデンハイムを発ってから、数日が過ぎていた。
マティアスは、護衛の兵たちと共に、馬を並べて東へと続く街道を進んでいた。
「思ったより、体に堪えますね」
慣れない鞍の上で、マティアスがうんざりした様子で腰をさすった。
「情けねぇこと言うなよ、まだ半分も来てねぇぞ」
護衛の一人が、呆れたように笑う。
「体を動かすのは、本当に性に合わないんですよ」
その軽口を交わしながらも、一行の足取りは確かだった。
やがて、地平線の向こうに、青い水平線が見え始めた。
「あれが……」
マティアスは、思わず足を止めた。
遠くに霞む港町には、幾つもの帆船が停泊し、白い壁の建物が、日差しを受けて輝いている。
これまで見てきた、戦乱に荒れた土地とは、まるで違う光景だった。
「豊かな国、というのは、本当だったようですね」
護衛の一人が、感嘆したように呟いた。
「ここまで違うとは、正直、思っていませんでした」
マティアスも、静かにそう答えた。
街に入ると、活気ある市場の喧騒が、一行を迎えた。
見たこともない香辛料の匂い、異国の言葉、色とりどりの布地。
マティアスは、商人としての振る舞いを崩さぬまま、周囲に目を配っていた。
「まずは、王城への伝手を探しましょう」
だが、その試みは、早々に壁にぶつかった。
「平民風情が、王への謁見だと? 身の程を知れ」
城門の役人は、マティアスを一瞥するなり、そう吐き捨てた。
「正式な使者であれば、然るべき紹介状か、身分を証すものが要る。それがないなら、門前払いだ」
マティアスは、深々と頭を下げながら、なおも食い下がった。
「重要な話がございます。この国にとっても、決して無関係な話ではないかと」
「何度言われても、無駄だ」
取り付く島もなく、その日は追い返されてしまった。
「……さて、どうしたものか」
宿に戻ったマティアスは、腕を組んで考え込んでいた。
「正攻法じゃ、埒が明かねぇみたいだな」
護衛の一人が、ため息交じりに言った。
「それなら、搦め手で行きましょう」
マティアスは、億劫そうにしながらも、目には確かな光を宿していた。
「この国は、海運を国是としています。ならば、"陸の情勢"には、案外疎いはずです」
「陸の情勢、というと」
「エーレンガルトの動きです。我が領主が、あの国の当主を討ち取ったことは、既にご存知かもしれません。……エーレンガルトが、この報復に、いずれ大軍を差し向けてくることは、まず間違いないかと」
マティアスは、市場の商人たちに紛れ、宮廷に出入りする役人の一人を見つけ出すと、慎重に接触を図った。
「西方の大国、エーレンガルトが、いずれ大軍を動かすやもしれません。その懸念、王のお耳に入れずに済ませるおつもりですか」
その一言に、役人の顔色が変わった。
「……本当か」
「確かな筋からの話です。もし、これが貴国にとって不利益に働くとしたら、いかがなさいます」
役人は、しばらく逡巡した後、渋々といった様子で頷いた。
「……分かった。取り次いでみよう」
数日後、マティアスは、ようやく謁見の機会を得た。
王城の大広間、玉座に腰掛けていたのは、褐色がかった肌に、白髪交じりの金髪をした、恰幅の良い男だった。
「ゴルデンハイムからの使者、というわけか」
アルフォンソ王の目が、値踏みするようにマティアスを見据えた。
「聞けば、エーレンガルトが動くやもしれぬとか。……眉唾ではないだろうな」
「はい。西の大国が、大軍を東へ向けて動かしています」
「して、何用だ。まさか、それを教えるためだけに、はるばる来たわけではあるまい」
「私は、ゴルデンハイムの領主、ヴィルヘルムの使いとして参りました。まず、貴国と我が国との間で、不戦の約定を結びたく存じます」
「……ふむ、領主か」
アルフォンソは、その言葉に、僅かに口の端を上げた。
その響きには、王ではなく、あくまで一領主に過ぎない相手を、値踏みするような色が滲んでいた。
「不戦の約定、か」
アルフォンソは、興味なさげに顎を撫でた。
「聞けば、貴様らの領主は、平民上がりだそうだな。そのような者と、我が国が対等に付き合う理由が、どこにある」
その挑発めいた言葉に、マティアスは、動じることなく答えた。
「血筋ではなく、成した事実で、ご判断いただければと」
「ほう」
「我が領主は、敵味方、身分を問わず、能力ある者を登用し、荒廃した地を、着実に立て直しております。奪うのではなく、育てる。それが、我らの国の在り方です」
「綺麗事だな」
アルフォンソは、鼻で笑った。
「綺麗事で、国は保てん」
「ですが、貴国にとっても、西の混乱が、いずれ飛び火せぬとも限りません。我が国と、不戦の約束を交わしておくことは、貴国にとっても、無駄にはならないはずです」
その言葉に、アルフォンソは、しばらく黙り込んだ。
「……確かに、隣国が乱れれば、こちらの商いにも障りが出る」
「それに」
マティアスは、続けて言った。
「我が国には、鉄鉱石や、木材といった資源もございます。不戦の約定の先に、いずれ交易の話も、進められればと」
その具体的な話に、アルフォンソの目つきが、僅かに変わった。
「……鉄鉱石、か」
「はい。それに、我が国の領主は、貴国の産物にも、強い関心を持っております。特に、米という穀物には」
「米、だと?」
アルフォンソが、意外そうに片眉を上げた。
「変わった趣味だな。あれは、この国でも、一部の農地でしか作られておらん」
「できることなら、いずれ、種か苗を分けていただければと」
マティアスがそう切り出すと、アルフォンソの目に、初めて鋭い光が宿った。
「……種か、苗、と申したな」
「はい」
「それは、また別の話だ」
アルフォンソの声が、僅かに硬くなった。
「種や苗を渡せば、貴様らはいずれ、自分たちで作れるようになるだろう。そうなれば、この国から買い付ける理由も、なくなる」
「……仰る通りです」
「それだけの実を失うんだ。それに見合うだけの利益を、我が国にもたらすというなら、話は別だがな」
「まずは、貴様らが、エーレンガルトとやらを退けてみせよ。その上で、我が国にとって、真に価値ある交易相手だと示せたなら……その時に、改めて考えてやろう」
その言葉に、マティアスは、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「米の話は、そこまでだ」
アルフォンソは、話を切り替えるように、軽く手を振った。
「先の、不戦の約定の件、受けてやろう」
「では」
「まずは、それだけでも構わんだろう。交易については、追って、様子を見ながら進めよう」
その言葉に、マティアスは、深く頭を下げた。
「感謝いたします」
「礼はいらん。……こちらにとっても、悪い話ではないというだけだ」
アルフォンソは、そう言うと、興味を失ったように視線を逸らした。
謁見の間を辞したマティアスは、静かに息を吐いた。
(これで、背後を突かれる心配は、ひとまず無くなった)
完全な成功とは言えないまでも、確かな足がかりを得た手応えが、そこにはあった。
(第三十六話へ続く)




