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第三話 視えない敵

東へ向かう行軍は、思いのほか静かだった。


ヴィルヘルムの後ろには、預かった百人の兵が続いていた。


まだ誰も、心から自分に従っているわけではない。


それは、痛いほど分かっていた。


兵たちの間に、いつもの軽口は少ない。


誰もが分かっているからだ。


これから殺し合う相手が、どこかの村を追われ、あるいは家族を失い、ただ飢えて集まっただけの、自分たちと同じ民だということを。


ヴィルヘルムの隣を歩く若い兵が、ぽつりと呟いた。


「俺の従兄弟も、確か……追放された村の生き残りだったな」


誰に言うでもない声だった。


それに答える者は、誰もいなかった。



東方の平野に、その群れは見えた。


旗はない。


陣形もない。


ただ、人の波としか言いようのないものが、地平を埋め尽くしていた。


(くわ)(かま)、あるいは素手のままの者すらいる。


数だけは、聞いていた通り五千を下らない。


「……これが、軍、なのか」


ヴィルヘルムは、思わず呟いていた。


統率された兵の隊列とは、まるで違う。


これは、ただ飢えと怒りだけで形を保っている、巨大な塊だった。


隊列を組んだエーレンガルト軍八百が前進を始める。


その一角、ヴィルヘルムが預かる百人も、共に足を踏み出した。


ヴィルヘルムは意識を集中させ、視界の奥にある「あの感覚」を呼び起こそうとした。


だが。


「な……っ」


目の前が、割れる。


いつものように。


だが、いつもとは違った。


分岐が、ひとつやふたつではない。


十、二十、いや、それ以上。


誰が、どこへ動くか分からない群衆の一人一人が、それぞれ違う未来を無数に生み出している。


視界が濁流のように押し寄せ、ヴィルヘルムは頭を抱えてよろめいた。


(視えない……いや、視えすぎる……! 誰が、どこへ……こんなの、まとめられない……!)


統率された軍隊なら、指揮官の判断ひとつで、兵全体の動きがある程度収束する。


だが、指揮官のいない群衆は違う。


一人ひとりが、それぞれの意志で、それぞれの方向に動く。


その全てが、分岐として押し寄せてくる。


これでは、戦局を読むどころではない。



「怯むな、押し出せ!」


隊の中から怒号が飛ぶ。


エーレンガルトの兵たちが、隊列を保ったまま前進していく。


その中で、ヴィルヘルムの百人も、まだ半信半疑のまま彼の指示に従っていた。


対する群衆は、統率こそないが、その分、予測のつかない動きで襲いかかってきた。


陣形の隙間に、(くわ)を持った男が突っ込んでくる。


統率された敵なら、絶対にしないはずの動きだった。


「くっ……!」


隣を歩いていた兵が、その一撃を受けて倒れる。


ヴィルヘルムの目にも、その光景は視えていなかった。


群衆の中の、たった一人の狂気じみた突撃までは、読み切れなかったのだ。


(全部は、視えない……!)


焦りが、喉の奥にせり上がってくる。


それでも、ヴィルヘルムは奥歯を噛みしめた。


(――思い出せ)


前世で読み漁った、ある一揆の記録が脳裏をよぎる。


統率なき民の一揆は、鎮圧する側も同じく統率を捨て、目の前の一人ずつを制するしかなかった、という記述。


全体を御そうとするから、崩れる。


(なら――一人ずつだ)


全体を俯瞰することを、一旦諦める。


代わりに、目の前の、今にも動きそうな一人にだけ、意識を絞り込む。


視界の分岐が、少しだけ整理される。


完全ではない。


だが、これなら――辛うじて、追える。


「そこの女、逃げろ! 後ろから味方の刃が来る……!」


叫んでから、ヴィルヘルムは自分の言葉に愕然とした。


今のは、敵だ。


飢えて、(くわ)を振り上げていた、紛れもない敵側の女だった。


それなのに、気づけば助けようと叫んでいた。


敵も味方も、もはやヴィルヘルムの中で判然としなくなっていた。


ただ、目の前で死んでいく者を、一人でも減らそうと、必死にもがいているだけだった。



戦いは、半日近く続いただろうか。


数の上では圧倒的だった群衆は、統率のなさゆえに次第に瓦解していった。


指揮官の指示ひとつで動けるエーレンガルト軍と、烏合の衆(うごうのしゅう)とでは、時間が経つほどにその差が開いていく。


ヴィルヘルムの百人は、被害こそ出しながらも、崩れることなく持ちこたえていた。


やがて、群衆の後方から崩れるように、反乱軍は四散していった。


勝利、と呼ぶべきなのだろう。


だが、ヴィルヘルムの胸に湧いたのは、達成感などではなかった。


血に染まった平野を眺めながら、ヴィルヘルムはただ立ち尽くしていた。


(これで、良かったのか)


統率者さえいれば、これほどの犠牲を出さずに済んだのかもしれない。


いや――そもそも、これほどの民が飢えて立ち上がるような世界そのものが、間違っているのではないか。


答えの出ない問いだけが、胸の中に積もっていく。



ふと、視界の端で何かが動いた。


崩れゆく群衆の中、たった一人だけ、統率もないはずのその戦場で、まるで違う動きをする男がいた。


その周囲だけ、奇妙にまとまりのある一団が寄り添うように動いている。


群衆に紛れながらも、明らかに場慣れした身のこなしで、エーレンガルトの兵を的確に打ち倒していく。


気の扱いに、迷いがない。


ただの烏合の衆(うごうのしゅう)に、紛れ込むには――あまりにも、異質だった。


男は一瞬だけ、ヴィルヘルムの方を振り向いた気がした。


だが、それもつかの間、乱戦の中に紛れて消えていく。


「……今のは」


誰にともなく呟いたヴィルヘルムの声は、戦場の喧騒にかき消された。



(第四話へ続く)


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