第二話 陣中の噂
陣へ向かう道すがら、ヴィルヘルムは何度も同じ問いを自分に投げかけていた。
(俺は、これで良かったのか)
村を発ってから、もう数日が経っていた。
振り返っても、グリューンヴァルト村はとうに見えなくなっている。
手には、村を出る際に長老が握らせた小さな布包みがあった。
中身は、干した木の実がいくつか。
「……すまんな」
長老の掠れた声が、今も耳に残っていた。
「本来なら、お前のような若者を戦場になど送り出したくはない。だが……」
「分かってます」
あの時、ヴィルヘルムはそう答えた。
「俺が行かなければ、村に食料は来ない。それだけの話です」
それだけではないことを、自分自身が一番よく知っていた。
家族が生きているかもしれないという「甘い夢」。
その手がかりが、外の世界のどこかにあるかもしれない。
誰にも言えないまま、ヴィルヘルムは歩き続けていた。
エーレンガルトの本陣に着いたのは、それからさらに数日後のことだった。
見渡す限りに広がる天幕の群れ。
立ち並ぶ槍や旗。
そのどれもが、グリューンヴァルト村とは比べ物にならない規模だった。
ヴィルヘルムは、その圧倒的な数に息を呑んだ。
(これが、一軍の陣か)
兵の多くは、鎧らしい鎧も纏わず、麻や革の粗末な服に、申し訳程度の防具を重ねているだけだった。
皮鎧を纏う者は、その中でもごく一部、実績のある小隊長格ばかりだと、後で知ることになる。
さらにその上、鉄の鎧を許されるのは、主君の側近くに仕える近習ら、ごく限られた者だけだと、これも後で知ることになる。
案内されるまま歩く道すがら、周囲の兵たちの視線が突き刺さる。
「あれか? 例の……」
「予知だかなんだか知らんが、しょせん平民だろう」
「先の別働隊の生き残りが言ってたぞ。あの村の小僧、戦の最中に妙な顔をして、ぶつぶつ何か呟いてたってな。橋を落とすの、女は高台にだのと」
「それを聞いて敵が動いたら、そりゃ勝てんわな」
「閣下も物好きだ。血統も持たん小僧を、わざわざ拾い上げるとはな」
聞こえよがしの声に、ヴィルヘルムは俯くこともせず、ただ黙って歩き続けた。
なるほど、と内心で独りごちる。
逃げ延びた敵兵の誰かが、あの采配の異様さを本隊に伝えたのだろう。
予知そのものの正体までは知られていない。
だが、「あの村の若者は何かおかしい」という噂だけが、尾ひれをつけて先に広まっていた。
前世の記憶が囁く。
(当然だ。この世界で"格"を決めるのは、血だ)
兵の大半は、ヴィルヘルムと同じ平民だった。
血統魔法を持つ貴族は、指揮官やその側近クラスにしか見当たらない。
人口が増えすぎたこの世界では、戦を回すだけの兵の数を、貴族だけで賄うことなどとうに不可能になっている。
だからこそ、能力さえあれば取り立てられる。
だが、それは同時に――能力さえなければ、いくらでも使い捨てられる、ということでもあった。
ヴィルヘルムがあてがわれた天幕は、他の新参兵と雑魚寝する粗末なものだった。
それでも、故郷では味わえなかった白いパンが配られたことに、ひとまず胸を撫で下ろす。
(これだけでも、村のみんなに食わせてやりたいな)
そう思ったところで、苦笑した。
まだ何も成し遂げていない自分が、そんなことを考える資格などない。
呼び出しがかかったのは、その晩のことだった。
天幕の奥、地図を広げたバルドゥインが、酒杯を片手にヴィルヘルムを一瞥する。
傍らに、他の将らしき者の姿はなかった。
これほどの軍勢を率いる将だというのに、腹心と呼べる人間が一人も見当たらない。
それを不思議に思う間もなく、バルドゥインが口を開いた。
「ヴィルヘルム・グリューンヴァルトだったな」
「はい」
「お前の働きは、この目で見ている。……村を守った、あの采配をな」
バルドゥインは口の端を上げたが、目はまるで笑っていなかった。
この男は、エーレンガルトにおいて既に名の知れた将だと、道中で聞いていた。
王族ではない。だが、王家に次ぐ実力を持つ有力貴族の一人であり、いずれこの国そのものを手中に収めることを、公然と、あるいは密かに狙っているのだと、兵たちは噂していた。
「次の戦、お前にも見てもらいたい」
「戦、ですか」
「ああ。……もっとも、たいした戦でもない」
バルドゥインは地図の上、東方の一点を指で叩いた。
「飢えた民どもが、また集まって騒いでいる。数だけは、ゆうに五千は超えるだろうな」
「五千……」
ヴィルヘルムは息を呑んだ。
「こちらは、何人で」
「先鋒として出すのは八百といったところだ。無論、それで事足りるとは思っていない」
「大将は?」
「いない」
バルドゥインは、酒杯を傾けながら、どこか興のなさそうな声で続けた。
「あれは軍ではない。ただの烏合の衆だ。飢えて、怒って、集まっただけの群れだ。旗頭もいなければ、統率する将もいない」
「……」
「だが、数だけは厄介だ。統率がない分、どこに何が飛び出すか読めん。……お前の"目"が、そこでどこまで役に立つか、見せてもらおうか」
バルドゥインは、酒杯を置いて続けた。
「先鋒の八百のうち、百人ほどをお前に預ける。存分に、その"目"とやらを試してみせろ」
ヴィルヘルムは、息を呑んだ。
指揮を執る、ということだ。
ただの新参兵ではなく、百人の命を預かる立場に、否応なく立たされたということだった。
その言葉に込められた値踏みの色を、ヴィルヘルムは感じ取った。
これは信頼などではない。
使えるかどうかを試されているだけだ。
「……分かりました」
それだけ答えて、天幕を辞そうとした、その時だった。
「ああ、そうだ」
バルドゥインが、思い出したように付け加えた。
「近々、うちの息子にも会わせてやろう。お前と同い年だそうだからな」
「息子さん、ですか」
「ああ。……もっとも、大した能力もない癖に、妙にひねくれた性根をしている。お前のような者を見れば、何を思うか」
バルドゥインは、酒杯の中身を一気に呷った。
「それと、この戦が終わったら、私にも妻を娶らねばな。……この戦で分捕った、どこぞの貴族の娘でも構わん」
事もなげに放たれたその言葉に、ヴィルヘルムは何も言えなかった。
それだけ答えて、天幕を辞した。
その足で案内されたのは、これから預かることになる百人の兵たちの元だった。
集められた面々は、一様に胡散臭そうな目を向けてくる。
「……あんたが、例の?」
髭面の中年兵が、値踏みするように腕を組んだ。
決して高くはない上背に、黒髪と黒い瞳。だが、その体には、凄まじい量の傷跡と、それに見合うだけの筋肉が刻まれていた。
「血統もねぇ小僧に、俺たちの命を預けろってのか」
(この男が、後にハンスと呼ばれることになる兵だとは、まだヴィルヘルムは知らない)
周囲にも、同じような空気が漂っていた。
侮蔑というより、当然の警戒だった。
ヴィルヘルムは、震えそうになる声を抑えて、口を開いた。
「……信じてもらう自信はありません。実績もない」
兵たちの視線が、わずかに揺れる。
「ですが、村を守った時と同じことをするだけです。生き残るために、必要なことを言います。それを、聞くか聞かないかは……あなたたちが決めてください」
沈黙が流れた。
髭面の兵は、しばらくヴィルヘルムを睨むように見つめていたが、やがてふん、と鼻を鳴らした。
「口だけは達者だな。……まあいい、明日の戦、見せてもらおうか」
それは了承でも信頼でもなかった。
ただ、まだ判断を保留しているだけの空気だった。
ヴィルヘルムは、それで十分だと思うことにした。
夜の陣の中を歩きながら、ヴィルヘルムは胸の奥にざらついた感情を抱えていた。
飢えた民が、旗頭もなく集まっただけの群れ。
それは、自分の村と何が違うのだろう。
一歩間違えば、グリューンヴァルト村もああなっていたかもしれない。
いや――もしかしたら、あの群れの中に、隠蔽虐殺で散り散りになった、どこかの村の生き残りがいるかもしれない。
(俺の家族も、もしかしたら)
そこまで考えて、ヴィルヘルムは首を振った。
見たくないものは、見えない。
それが、自分の力の性質だと分かっている。
それでも、胸のざわめきは消えなかった。
試しに、意識を戦場に――まだ見ぬ東方の地に向けてみる。
いつもなら、視界の端に滲むように浮かぶはずの分岐が、今夜はどういうわけか、ひどく歪んで、幾重にも乱れていた。
(視えない……いや、視えすぎて、まとまらない……?)
統率された軍と、統率なき群衆とでは、"視え方"がまるで違う。
その事実に、ヴィルヘルムは初めて気づいた。
予知は万能ではない。
そのことを、これから思い知ることになる。
東の空の向こうに、ヴィルヘルムはまだ見ぬ何かの気配を感じながら、拳を握りしめた。
(第三話へ続く)




