第一話 予知の采配
逃げろ、という長老の声が、やけに遠くから聞こえた。
誰かが泣いていた。
誰かが、武器を握る手を震わせていた。
畑仕事の鍬しか握ったことのない村人たちが、槍の代わりに鎌や斧を手にしている。
鎧はおろか、まともな防具を持つ者など一人もいない。
丘の向こうから、土煙が迫っていた。
見張りの男が、転がるように村へ駆け込んでくる。
「敵だ……! 敵が来た! 数は……分からねぇ、百は下らねぇ!」
悲鳴にも似た声が、春の朝の静けさを引き裂いた。
グリューンヴァルト村。
芽吹いたばかりの若葉が、丘の斜面を薄緑に染めている、そんな季節だった。
人口三百人ほどの、辺境の小さな村だ。
戦える男は三十人。
戦える女は二十人。
対して、丘の向こうに見える軍勢は、二百は下らない。
誰の目にも、勝ち目などなかった。
村の長老が、掠れた声で告げる。
「……逃げ切れる者だけでも、逃がせ」
「ここは、捨てる」
その一言に、村はどよめいた。
泣き崩れる女、立ち尽くす老人、震える子供。
誰も、逆らえなかった。
ヴィルヘルムは、その光景をただ見ていた。
平民の多くは、揃って黒髪黒眼をしている。
だが、ヴィルヘルムの黒髪と黒い瞳には、僅かに赤みが差していた。
見る者が見れば分かる、微かな異質さ。
それが何を意味するのか、この時のヴィルヘルム自身は、まだ深く考えたことがなかった。
頭の奥で、前世の記憶がざわめく。
寡兵が大軍を凌いだ戦の話なら、いくつも知っている。
地形を使え。
数を分断しろ。
一点に固まらせるな。
言葉にすればいくらでも出てくる。
だが。
「……知ってるだけじゃ、何にもならない」
声に出してみて、初めて自分の惨めさに気づいた。
前世でも、今世でも、自分は何かを知っているだけの人間だった。
それを動かす力など、どこにもなかった。
土煙が、はっきりと軍勢の形を取り始めた。
その時、視界が奇妙に歪んだ。
――目の前が、割れる。
そう表現するしかなかった。
一つだったはずの光景が、いくつもの「あり得たかもしれない今」に裂けていく。
ある光景では、村は火に包まれ、誰も彼もが倒れていた。
ある光景では、橋の上で敵の足並みが崩れ、村人たちが辛うじて息をしていた。
ある光景では――自分一人だけが、何もせずただ立ち尽くしていた。
「な……っ」
頭を抱えてよろめく。
鼻の奥に、鉄のような味が滲んだ。
これは、何だ。
分かるはずのないことが、分かってしまう。
橋を落とせば、敵の数を分断できる。
高台から石を落とせば、集団を崩せる。
それは前世の知識が教える「定石」であり、同時に、いま目の前で「視えている」、まだ起きていない光景そのものだった。
恐怖より先に、指先が震えた。
それでも、口を開く。
「……頼む」
声は掠れていた。
誰かを従える声ではなく、懇願に近かった。
「俺の言う通りに、動いてくれ」
村人たちの視線が集まる。
彼らが見ているのは、村の若者の一人でしかない自分だ。
統率者でも、名のある戦士でもない。
ただの、グリューンヴァルト村のヴィルヘルムだ。
それでも、他に手立てがなかった。
「橋を落とす。急いで、今すぐだ!」
「女たちは高台に上って石を積んでくれ、敵が渡り切る前に落とす……!」
「男たちは、絶対に一か所に固まるな、散って、誘い込め……!」
半信半疑の視線が、自分に集まる。
だが、逃げ場のない絶望の中で、他に縋るものがなかったからだろう。
年老いた漁師が、真っ先に頷いた。
「……やるだけ、やってみるか」
その一言が、堰を切ったように村人たちを動かし始めた。
ヴィルヘルムは震える拳を握りしめながら、まだ視えている分岐の光景を、必死に目で追い続けていた。
敵軍の先頭が橋に差し掛かった時、村人たちの手はまだ震えていた。
ヴィルヘルムには視えていた。
このまま橋を渡り切られれば、村は保たない。
だが、あと十数える間だけ堪えれば――。
視界の隅で、いくつもの「あり得たかもしれない」光景が、一つの筋に収束していく。
「まだだ……まだ、渡らせろ……!」
声を張り上げながらも、内心では恐怖に押し潰されそうだった。
もし読みが外れていたら。
もし村人たちがこの一瞬の遅れで命を落としたら。
前世の知識も、視えている光景も、確実な保証などどこにもない。
敵の半数近くが橋の上に乗った、その瞬間。
「今だ! 落とせ!」
支え縄を断ち切る音と共に、古びた橋が軋みながら崩れ落ちた。
悲鳴と怒号が入り混じり、川面に敵兵が次々と落ちていく。
高台からは、女たちが積み上げた石が容赦なく降り注いだ。
統率を失った敵の一部が、算を乱して後退し始める。
「散れ! 一か所に固まるな、誘い込め!」
男たちが村の外れへと敵を分散させながら誘導していく。
数十人の村人が、気を振り絞りながら、正面から当たらず翻弄する形で敵の足を止め続けた。
だが、無傷では済まなかった。
「くっ……もう、動けねぇ……!」
気力を使い果たした男が一人、膝から崩れ落ちる。
ヴィルヘルムの視界にも、その光景は「視えていた」。
だからこそ、あらかじめ屈強な男を、その後方に配置しておいた。
「下がれ、俺が代わる!」
誰かがすぐに割って入り、事なきを得る。
予知は完璧な未来を示すものではない。
だが、「誰が、いつ倒れるか」という分岐の兆しだけは、確かに視えていた。
戦いは、半刻ほど続いただろうか。
敵の指揮官らしき男が、苛立たしげに舌打ちする声が、遠く風に乗って聞こえた。
「……これ以上は割に合わん。退くぞ」
潮が引くように、敵軍が撤退していく。
静寂が戻った村に、荒い息遣いだけが響いていた。
ヴィルヘルムはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……勝った、のか」
誰に問うでもなく、呟く。
手足の震えは、まだ止まらなかった。
そしてその時――遠くの丘の上、まだ動かずにこの戦いを眺めていた一騎の男と、ヴィルヘルムの目が合った。
丘の上の男は、しばらく動かなかった。
遠目にも分かる、上等な鎧と槍。
周りに控える数十騎の兵。
村を襲った先の別働隊とは、明らかに格が違う気配だった。
男は口元にわずかな笑みを浮かべると、踵を返し、兵を連れて去っていった。
追ってくる様子はなかった。
だが、ヴィルヘルムの中で、視界の端に何か不穏な予感がちらついた気がした。
それが予知によるものなのか、単なる本能的な悪寒なのか、自分でも判別がつかなかった。
村に一時の安堵が戻った。
負傷者はいたが、死者は出さずに済んだ。
長老をはじめ、村人たちはヴィルヘルムを英雄のように扱い始めたが、当のヴィルヘルムはその視線に落ち着かない気持ちを抱えていた。
(俺は、何をした)
(何が視えていた。これから、また視えるのか)
答えの出ない問いを抱えたまま、数日が過ぎた。
そして、その均衡は唐突に崩れた。
見張りの叫び声が、再び村に響き渡った。
「て、敵だ……! いや、違う……あれは……」
丘の向こうから現れたのは、先日の比ではない規模の軍勢だった。
旗を確認できるだけでも、その数はゆうに千を超えている。
村人たちの間に、今度こそ絶望が広がった。
「もう、駄目だ……終わりだ……」
誰かが崩れ落ちるように呟く声が、ヴィルヘルムの耳に届いた。
だが、軍勢は村を囲むように展開したものの、攻めかかってくる気配はなかった。
やがて、隊列の中から一騎の男が進み出る。
先日、丘の上でヴィルヘルムと目が合った男だった。
「案ずるな」
男は馬上から、村全体を見渡すように声を張った。
「今日は、喰いに来たわけではない」
その言葉に、村人たちは戸惑いながらも武器を下ろせずにいた。
ヴィルヘルムだけが、一歩前に出た。
震える足を叱咤しながら。
「……あなたは」
「バルドゥイン・ヴォルフラム。エーレンガルトに仕える者だ」
男――バルドゥインは馬を降り、ヴィルヘルムの前まで歩み寄った。
鍛え上げられた、ガチムチと言うべき体躯。
白いものが混じり始めた茶髪と、獲物を品定めするような茶色の瞳が、値踏みするような目でヴィルヘルムを見据えた。
「お前、名は?」
「……ヴィルヘルムです」
「それだけか? 姓は?」
「持っておりません。平民ですから」
バルドゥインは、僅かに口の端を上げた。
「そうか。ならば名乗れ、お前の出た村の名を」
「従軍するならば、それが要る」
従軍。
その一言に、村人たちがざわめいた。
ヴィルヘルムの胸の中で、様々な思考が駆け巡る。
断ればどうなるか。
この規模の軍勢の前で、村に選択の余地などあるのだろうか。
だが、バルドゥインは続けた。
「先の別働隊は、私の配下が勝手に動いたものだ」
「詫びとして、この村に食料を融通してやってもいい」
「……お前が、エーレンガルトに来るならな」
事実上、選択肢のない申し出だった。
ヴィルヘルムは拳を握りしめた。
(前世でも、今世でも、俺には守れるものなんて何一つなかった)
家族もなく、理解者もなく、ただ知識だけを抱えて生きてきた前世。
そして今、目の前には初めて自分の力で守り抜いた村がある。
「……グリューンヴァルト」
静かに、しかしはっきりと、ヴィルヘルムは告げた。
「俺は、ヴィルヘルム・グリューンヴァルトです」
バルドゥインは満足そうに頷いた。
「良い名だ。……励め、ヴィルヘルム・グリューンヴァルト」
「お前の働き次第で、この村の明日も変わる」
数日後、ヴィルヘルムは村を発つことになった。
見送る村人たちの中に、涙を堪える長老の姿があった。
振り返れば、そこにあるのは自分が初めて背負ったものの姿だった。
(今度こそ)
決意と共に、ヴィルヘルムは村に背を向け、歩き出した。




