第二十九話 数える街
マティアスが加わってから、数日が過ぎていた。
「まず、戸籍を整えるところから始めましょう」
ヴィルヘルムが切り出すと、エルサが頷いた。
「誰が、この街にどれだけいるのか。それが分からなきゃ、税の話も、農地の話も、何一つ進まん」
「この街だけで、およそ十万人はいると聞きます」
ヴィルヘルムが、思わず唸った。
「十万……一軒一軒回るだけでも、途方もない時間がかかりますね」
「その通りだ。中途半端な人数でやろうとすれば、それこそ何年もかかりかねん」
エルサも、腕を組みながら顔をしかめた。
「これだけの数となると、他の何よりも、まず先にやるべきことだな」
「はい。軍の兵、手が空いている者は全員、この調査に回してもらいましょう」
ヴィルヘルムの言葉に、エルサが頷いた。
「ジークハルトさんには、俺から話しておきます」
「文字が読めない兵も、少なくないだろう」
エルサが、ふと気づいたように言った。
「そういう者には、識字ができる民に、記録の手伝いを頼みましょう」
「報酬は、どうする。この国にも、一応は貨幣があるが」
エルサが、思案するように言った。
「今のこの街で、貨幣を渡しても、あまり喜ばれないでしょう。それより、食料で払う方が、確かな価値として伝わるはずです」
「……それもそうか。戦乱の後じゃ、金より飯だ」
エルサは、納得したように頷いた。
「民にとっても、良い稼ぎ口になるな」
「はい。それに、記録がきちんと残れば、この先の税の徴収にも、農地の権利整理にも、そのまま使えます」
「なるほど、それなら、少しは骨が折れる作業も、報われるというものだ」
エルサは、粗い街の地図を広げながら、続けた。
「まずは、街の中心部、人が密集している区画から先に進めよう。外周の、まだ人がまばらな場所は、後回しでいい」
「区画といっても、それぞれ勝手な呼び方をしているだけで、統一されていませんよね」
「ああ。だが、それは今は後でいい。まず数を数えることが先だ」
「そうですね。区画の名前は、戸籍調査が一段落してから、改めて考えましょう」
ヴィルヘルムも、その優先順位に頷いた。
二人が議論を進める中、少し離れた場所で、マティアスが黙って話を聞いていた。
「マティアスさんは、どう思いますか」
「……私に、聞くんですか」
「せっかく、内政に詳しいと伺いましたから」
マティアスは、少し億劫そうにしながらも、口を開いた。
「戸籍と合わせて、誰が今どの土地を耕しているかも、記録してしまうといいでしょう。それに、税の仕組みも、今のうちに決めておいた方がいい。土地の広さと収穫量に応じて、一律の割合で納めさせる。これが、一番揉め事が少ないやり方です」
その提案に、ヴィルヘルムとエルサは、思わず顔を見合わせた。
「随分と、すらすら出てくるものだな」
エルサが、感心したように言った。
「……見て回った国々で、似たような話をいくつも聞いただけです。大したことでは」
そう謙遜しながらも、マティアスの発言は、その後の議論でも、的確な指摘を重ねていった。
「農地の使用権も、記録に含めましょう。今、実際に耕している者に、その土地の権利を認める。それを台帳に残せば、後々の諍いも防げます」
「マティアスさんの言う通りにしましょう」
「……その気安い呼び方、慣れませんね」
マティアスが、苦笑しながらそう零した。
それでも、その日を境に、彼が会議に呼ばれる頻度は、少しずつ増えていった。
「もう一つ、決めておきたいことがあります」
ヴィルヘルムは、真剣な表情で切り出した。
「民同士の争い、あるいは民と俺たちの部下との間で、何か問題が起きた時のための、法を整えたいんです」
「私怨で片付けさせない、ということですね」
マティアスが、すぐに意図を汲み取った。
「はい。誰であろうと、裁きは、決められた法に則って行う。そうでなければ、力のある者が、都合よく振る舞う世の中に逆戻りしてしまいます」
その言葉に、マティアスは、しばらく考え込んでいた。
「……分かりました。基本となる法の草案、私が作りましょう」
「頼めますか」
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「法とは、作った瞬間から、誰かの不満の種にもなるものです。……私一人の考えだけで作れば、いずれ歪みが出る。他の者の意見も、必ず取り入れさせてください」
その言葉に、ヴィルヘルムは深く頷いた。
「もちろんです。ジークハルトさんや、フリッツにも、意見をもらいましょう」
「それに、あなた自身の考えも、しっかり反映させてください。……この街の在り方は、結局のところ、あなたが何を大事にするかで決まる」
その言葉に、ヴィルヘルムはしばらく黙り込んだ。
「……分かりました。俺も、しっかり考えます」
「その代わり、これ以上、私に仕事を増やさないでくださいよ」
そう言いながらも、マティアスの表情には、どこか張り合いを感じているような色が滲んでいた。
会議が一区切りついた頃、フリッツが新たな報告を持ってきた。
「隊長、また新しい者が加わりたいと」
「今度は、どんな方が」
「元は、水路を管理していたという老人です。……街の水回りに詳しいとか」
その言葉に、ヴィルヘルムは、思わず小さく笑った。
(ちょうど今しがた、水路の話が出たばかりだったな)
望んでいたものが、望んだ時に、望んだ形でやってくる。
そのささやかな巡り合わせが、少しおかしくもあり、同時にありがたくもあった。
「ちょうど、水路の整備も課題でした。会ってみましょう」
案内された老人は、腰こそ曲がっているものの、目には確かな知恵の光が宿っていた。
「わしは、若い頃から、水路仕事一筋でしてな。……この街の水路も、いくつか見させてもらったが、手入れが行き届いておらん箇所が多い」
「具体的には」
「北の大河から水を引く分岐が、随分と老朽化しておる。放っておけば、いずれ大雨の時にでも、街に水が溢れるぞ」
その指摘に、ヴィルヘルムは表情を引き締めた。
「早急に、直しましょう」
「わしに任せてくれるなら、若い衆を何人か貸してほしい。年寄り一人じゃ、体が持たんでな」
「もちろんです」
老人は、満足げに頷くと、早速街の様子を見に行くと言って立ち去っていった。
少しずつ、この街に必要な人材が、集まり始めていた。
(第三十話へ続く)




