第二十二話 狼、堕つ
谷間の奥深くまで、バルドゥインの軍勢が入り込んだ、その瞬間。
「今だ! 全軍、かかれ!」
ヴィルヘルムの号令と共に、両側の斜面から、一斉に矢と槍が降り注いだ。
「な……っ、伏兵だと!?」
先頭を進んでいた兵たちが、次々と倒れていく。
谷の出口では、フリッツの率いる一団が退路を塞ぎ、逃げ場を完全に断っていた。
「怯むな、突破しろ!」
バルドゥインの怒声が響くが、狭い谷間では、二千という大軍の数がまるで生きなかった。
統率が乱れ、隊列が崩れ、悲鳴と怒号が入り乱れる。
前後左右を塞がれた兵たちは、方向すら見失い、同士討ちに近い混乱すら起きていた。
「くそ、どこから狙われているんだ……!」
「隊列を立て直せ、落ち着け!」
だが、その声すらも、混乱の中にかき消されていく。
「ジークハルトさん、左手から!」
「合点だ!」
ジークハルトが、斜面を駆け下りながら、槍を振るう。
「ハンスさん、リーゼル、右手を!」
「応よ!」
ハンスとリーゼルも、混乱する敵兵の中へ切り込んでいった。
数の上では圧倒的不利だったはずの戦況が、地の利と奇襲によって、瞬く間に逆転していく。
その混乱の最中、ヴィルヘルムの前に、狼化したバルドゥインが立ちはだかった。
「小僧……! よくも、この私を謀ったな!」
「謀ったのではありません。……あなたが、俺を生かしておく気がなかっただけです」
ヴィルヘルムは、槍を構え直した。
バルドゥインの一撃が、唸りを上げて振り下ろされる。
辛うじて受け流すが、その重さに骨まで軋んだ。
「くっ……!」
「ここで、終わりにしてやる」
バルドゥインの猛攻が、途切れることなく続く。
ヴィルヘルムは、視界を割りながら、必死に分岐を追った。
だが、狼と化した膂力の前では、一対一で凌ぎ切るだけで精一杯だった。
(一人では、届かない)
その時、横合いから、影が飛び込んできた。
「隊長、援護する!」
ジークハルトが、バルドゥインの側面へと斬りかかる。
「小賢しい真似を……!」
バルドゥインが、咄嗟にそれを弾き返した、その隙。
「今です、コンラートさん!」
「承知!」
別方向から回り込んでいたコンラートが、バルドゥインの足元を狙い、槍を突き込んだ。
「ぐっ……!」
体勢を崩したバルドゥインの背後に、ハンスとリーゼルが迫る。
「父さん、今しかない!」
「ああ!」
ハンスの一撃が、バルドゥインの片腕を捉えた。
怯んだ一瞬を、ヴィルヘルムは見逃さなかった。
「――ここだ!」
視えていた分岐の中で、唯一勝機のある一手。
ヴィルヘルムの槍が、狼と化したバルドゥインの喉元へと、真っ直ぐに突き立てられた。
「が……あ……」
バルドゥインの巨躯が、大きくよろめく。
狼の輪郭が、少しずつ人の形へと戻っていく。
「……ここまで、か」
掠れた声で、バルドゥインはそう呟いた。
「私は……何を、間違えた」
その問いに、誰も答えなかった。
バルドゥインの目に、これまで見たことのない、静かな色が浮かんでいた。
それは、狼と呼ばれた男が、最後に見せた、ただの人間の顔だった。
「レギウスの、称号さえ……あれば……」
途切れがちな言葉の最後に、彼が何を思っていたのか、誰にも分からなかった。
バルドゥインは、静かに地に伏し、二度と動かなくなった。
谷間に、静寂が戻った。
生き残った敵兵たちは、次々と武器を捨て、投降していく。
ヴィルヘルムは、槍を杖代わりに、その場に立ち尽くしていた。
「……終わった、のか」
「ああ」
ジークハルトが、静かに頷いた。
「終わった。……お前が、成し遂げたんだ」
その言葉に、実感は、まだ湧いてこなかった。
ただ、これまで積み重ねてきたものの重さだけが、静かに胸に広がっていた。
遠く離れた本陣では、伏せっていたクラウスが、ちょうどその頃、目を覚ましていた。
体は鉛のように重く、頭の奥に鈍い痛みが残っている。
「……父上?」
だが、答える者は、誰もいなかった。
やがて、震える声の伝令が、クラウスの元へと駆け込んでくる。
「クラウス様……! ご無事でしたか……!」
「何が、あった」
伝令は、しばらく言い淀んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。
「バルドゥイン様が、討ち死にされました。……ヴィルヘルムの軍に、謀られたと」
その報せに、クラウスは、しばらく言葉を失っていた。
父が死んだ。
それも、あの平民の男に。
頭では理解しているのに、実感がまるで追いつかなかった。
「……嘘だ」
震える声で、そう呟くのが精一杯だった。
だが、伝令の目に浮かぶ悲愴な色は、それが紛れもない事実であることを、何より雄弁に物語っていた。
(第二十三話へ続く)




