第二十話 断たれた縁
クラウスの一件は、その日のうちに、なかったことにされた。
「陣中に紛れ込んだ、賊の仕業だ」
バルドゥインは、そう触れを出させた。
息子が化け物と化した事実は、誰の口にも上らせるつもりはないようだった。
当のクラウスは、あの日以来、天幕に伏せったまま、姿を見せていないという。
数日後、ヴィルヘルムの元に、一通の招待状が届いた。
「此度の賊討伐の礼として、宴に招きたい。……ただし、供は連れずに、一人で来られたし」
使者からそう告げられ、ヴィルヘルムは静かに視界を割った。
分岐の中に、いくつもの不穏な影が視える。
一人で赴いた先で、何が待ち受けているか。
招待に応じなかった場合、どんな難癖をつけられるか。
そのどちらも、決して穏やかな結末には繋がっていなかった。
(逃げる、という道は……)
一瞬、その選択肢が頭をよぎった。
部隊を挙げてバルドゥインから離反する準備は、今すぐとはいかずとも、さして時間をかけずに整えられるはずだった。
それでも、ヴィルヘルムは、まだその決断には踏み切れなかった。
「……行きます」
ヴィルヘルムは、静かにそう決めた。
「隊長、正気か」
ジークハルトが、眉を寄せた。
「罠の匂いしかしないぞ」
「分かっています」
ヴィルヘルムは、頷いた。
「それでも、行かないという選択肢は、視えた分岐の中にありませんでした」
「なら、俺が近くで様子を見ておく。表向きは一人でも、何かあれば、すぐに乗り込む」
「助かります」
二人の間で、静かな手筈が整えられていった。
宴の席で、バルドゥインは上機嫌にヴィルヘルムを迎えた。
鉄の鎧を纏った近習たちが、左右に控えている。
対するヴィルヘルムは、いつもの皮鎧のまま、単身で天幕に足を踏み入れた。
「よく来た。此度の働き、改めて礼を言う」
「恐れ入ります」
酒が注がれ、料理が並ぶ。
表向きは、和やかな夜だった。
だが、しばらくして、バルドゥインが不意に切り出した。
「ヴィルヘルム。……お前に、一つ話がある」
「何でしょう」
「私には、王都に嫁がせるつもりでいた娘がいる。まだ十二の幼子だが……お前に、娶ってもらいたい」
その言葉に、ヴィルヘルムは息を呑んだ。
「私と、親子の契りを結ぶ、ということですか」
「その通りだ。これからも、共に歩んでいく仲だ。血の繋がりがあった方が、何かと都合が良かろう」
ヴィルヘルムは、しばらく黙り込んでいた。
(義理でも、この人の息子になる)
(そうなれば、いずれ見限る時、簡単にはいかなくなる)
それに、これまで見てきたバルドゥインの統治は、民を顧みないものばかりだった。
その息子となることに、何の利があるというのか。
「……申し訳ございませんが、お断りいたします」
その返答に、宴の空気が、一瞬にして凍りついた。
「ほう」
バルドゥインの目が、すっと細まった。
「私の厚意を、無下にするか」
「厚意として受け取れるものでは、ありませんでした」
ヴィルヘルムは、まっすぐにバルドゥインを見据えた。
その視線の先で、バルドゥインが、小さく手を上げた。
まるで、ヴィルヘルム自身に向けられたかのような、静かな合図だった。
その瞬間、天幕の四方から、伏せていた者たちが一斉に姿を現す。
「――やはり」
ヴィルヘルムは、既に視えていた分岐の通り、後方に跳び退った。
わずかに遅れて、先ほどまで座っていた場所に、複数の刃が突き立てられる。
「さすがに、鋭いな」
バルドゥインが、酒杯を傾けながら、酷薄に笑った。
「私の厚意を断った以上、生かしておくわけにもいくまい」
「ジーークハルトーーーッ!!」
ヴィルヘルムは、喉が張り裂けんばかりに、その名を叫んだ。
その声は、天幕の外にまで届いていた。
「呼ばれるまでもない!」
怒号と共に、天幕の入り口が破られ、ジークハルトが槍を手に飛び込んでくる。
入り口を塞いでいた伏兵の一人を、槍の一突きで貫く。
だが、狭い天幕の中では、長柄の槍は却って取り回しが悪い。
「――邪魔だ」
ジークハルトは、突き刺したままの槍をその場に手放すと、間を置かず腰の剣を抜き放った。
「隊長を、一人で行かせるほど、俺は薄情じゃない」
ジークハルトが、剣を構えながら不敵に笑った。
だが、その姿を見た瞬間、バルドゥインの目つきが、明らかに変わった。
「……もはや、猶予はいらんな」
バルドゥインが、静かに槍を手にする。
全身に力が漲り、顔つきが鋭く獣めいた輪郭に変わっていく。
血統魔法――狼化。
「くたばれ」
躊躇いのない一撃が、真っ直ぐヴィルヘルムへと振り下ろされる。
「させるかッ!」
割り込んだジークハルトが、それを辛うじて受け止めた。
衝撃に、骨まで軋むような重さが伝わる。
「隊長、今のうちに!」
「ですが……!」
「俺の心配より、逃げることだけ考えろ!」
ジークハルトが、狼と化したバルドゥインの猛攻を、紙一重で凌ぎながら叫んだ。
ヴィルヘルムは、奥歯を噛みしめながら、天幕の裂け目から外へと転がり出た。
ジークハルトも、間一髪でその後を追う。
二人は、そのまま陣の闇に紛れて、駆け出していった。
部隊の元へ戻ると、エルサたちが、緊張した面持ちで待ち構えていた。
「無事だったか!」
「なんとか」
ヴィルヘルムは、荒い息を吐きながら答えた。
「……これなら、最初から逃げていれば良かったですね」
力の抜けたその一言に、ジークハルトが呆れたように笑った。
「今更、それを言うか」
「……もう、後戻りはできませんね」
バルドゥインとの関係は、もはや修復不可能な段階まで来ていた。
その事実を、誰もが痛感していた。
(第二十一話へ続く)




