第十九話 狙われる者、守る者
遠くから響いていた足音が、瞬く間に近づいてきた。
「何事だ……!」
バルドゥインが、天幕を飛び出して駆けつける。
目に飛び込んできたのは、黒い毛並みと血走った赤黒い瞳を持つ、異形の獣だった。
「な、なんだ、あの化け物は……!」
バルドゥインが、思わず後ずさる。
その時、傍らにいた兵の一人が、震える声で叫んだ。
「バルドゥイン様! クラウス様が……! 天幕を出られた後、あの姿に……!」
その言葉に、バルドゥインは目を見開いた。
「な……っ、あれが……あれが、クラウスだと言うのか!?」
よく見れば、獣の首元には、クラウスが常に身につけていた紋章の首飾りが、辛うじて残っていた。
声が、明らかに震えていた。
息子の変わり果てた姿に、バルドゥインは束の間、動けずにいた。
「うおおおおおおッ!」
咆哮と共に、獣と化したクラウスが、再びヴィルヘルムだけを目掛けて突進する。
「くっ……!」
ヴィルヘルムは、辛うじてその爪を躱した。
(やはり……俺だけを、狙っている)
味方の兵が割って入ろうとしても、クラウスの意識は、決してそちらには向かなかった。
まるで、憎悪の矛先が、ヴィルヘルム以外には向けられないかのようだった。
「クラウス……! やめろ、正気に戻れ……!」
バルドゥインの叫びにも、獣は一切反応を見せなかった。
それどころか、父の声を聞くたびに、瘴気が一層濃くなっていくようにさえ見えた。
(父親の言葉すら、届かない)
ヴィルヘルムは、視界を割った。
分岐の中に、あらゆる説得、あらゆる攻撃を試した末路が視える。
だが、そのどれもが、同じ結末に収束していた。
(何をしても、止まらない……)
唯一視えたのは、力を使い果たし、獣の姿を維持できなくなって、崩れ落ちるクラウスの姿だけだった。
「隊長、これを!」
駆けつけたコンラートが、予備の槍を放り投げた。
「助かります!」
とっさに受け取り、ヴィルヘルムは槍を構え直した。
「……このまま、凌ぐしかない」
攻めるのではなく、ひたすら躱し、いなし、時間を稼ぐ。
消耗させ、力尽きるのを待つしかない。
その頃には、騒ぎを聞きつけた仲間たちが、次々と駆けつけていた。
「隊長!」
エルサが、駆けながら叫ぶ。
「狙いは、俺だけです! 攻撃はしてこなくても、邪魔をすれば払われます、気をつけて!」
ヴィルヘルムが、爪を躱しながら叫び返した。
「クラウス様の足元を狙ってください! 拘束できれば、俺も凌ぎやすくなる!」
「了解した!」
ジークハルトが、真っ先に動いた。
クラウスの意識がヴィルヘルムだけに向いている隙に、側面から回り込み、足を薙ぎ払う。
「ぐるるるるッ!」
邪魔をされたクラウスが、苛立たしげに唸り、太い後ろ足でジークハルトを蹴り飛ばした。
「くっ……!」
吹き飛ばされながらも、ジークハルトはすぐに体勢を立て直す。
だが、クラウスはそれ以上深追いせず、すぐにヴィルヘルムへと向き直った。
「ハンス、リーゼル! 縄を、足に絡めろ!」
「合点だ!」
ハンスとリーゼルが、太い縄を手に、獣の足元へと駆け寄っていく。
縄が足に触れた瞬間、クラウスは苛立ったように尻尾を振り払い、二人を弾き飛ばした。
「うわっ……!」
それでも、致命傷には至らない一撃だった。
狙いはあくまでヴィルヘルムであり、他の者への攻撃は、あくまで邪魔者を払う程度に留まっているようだった。
フリッツもまた、駆けつけたヴィルヘルムの部隊の兵たちを統率し、退路を塞ぐように包囲網を狭めていく。
「隊長を、一人で戦わせるつもりはない!」
弾き飛ばされ、殴られながらも、誰もがひるまず行動を続けていた。
命の危険こそ薄いとはいえ、決して無傷では済まない。
それでも、ヴィルヘルム一人に背負わせるわけにはいかなかった。
攻防は、それから長く続いた。
爪が空を切り、槍が受け流し、また爪が振るわれる。
一撃ごとに、大地が抉れ、木々が薙ぎ倒されていく。
「くっ……!」
掠っただけの一撃でも、骨が軋むほどの衝撃が腕を伝った。
それでも、ヴィルヘルムは攻めなかった。
ただひたすらに躱し、いなし、致命の一撃だけを避け続ける。
その間に、ジークハルトたちが縄を絡め、少しずつクラウスの動きを鈍らせていった。
「足に、縄が絡んだぞ!」
「今のうちだ、隊長!」
縄によって身動きが鈍った分、爪の速さも目に見えて落ちていく。
誰もが、その場で息を詰めながら、ヴィルヘルムを見守り続けていた。
ヴィルヘルムの息は、既に上がり切っていた。
だが、獣の動きにも、次第に精彩が欠けていく。
「……もう、少しだ」
予知の中で視えた、崩れ落ちる瞬間が、少しずつ近づいていた。
やがて、クラウスの咆哮が、次第に弱々しいものへと変わっていった。
濁った瘴気が、薄れていく。
「が……あ……」
巨躯が、大きくよろめいた。
そして、力尽きたように、その場に崩れ落ちた。
獣の輪郭が消え、そこに残されたのは、涙と涎にまみれた、ただの少年の姿だった。
「クラウス!」
バルドゥインが、駆け寄って息子を抱き起こす。
だが、クラウスは、ぐったりと意識を失ったまま、ぴくりとも動かなかった。
「……気を失っているだけだ。息はある」
駆けつけたエルサが、脈を確かめながらそう告げた。
バルドゥインは、それでもしばらく、放心したように息子を抱きしめていた。
ヴィルヘルムは、槍を杖代わりに、崩れるようにその場に膝をついた。
「……終わった、のか」
荒い息を吐きながら、そう呟く。
だが、この一件が、これから何を引き起こすのか。
ヴィルヘルムには、まだ何も見えていなかった。
(第二十話へ続く)




