第十八話 歪んだ狼
その頃、クラウスの様子がおかしいことに、周囲も気づき始めていた。
「近頃、坊ちゃんの当たりが強くてよ」
「ちょっとしたことで、怒鳴り散らすようになった」
世話係の兵たちが、困惑した様子で囁き合っていた。
その噂は、やがてバルドゥインの耳にも届いた。
誰も気づかぬ物陰、ふと影が揺れた。
そこにいたのは、誰でもない、誰の目にも留まらぬ女だった。
緑色の瞳が、遠く、バルドゥインの息子クラウスの後ろ姿を見つめている。
「……良い具合に、育っている」
その声は、誰にも届かなかった。
女は、満足げに口の端を上げると、また闇に紛れるように姿を消した。
その日の夕刻、バルドゥインはクラウスを呼び出していた。
「近頃、お前の評判が良くない」
開口一番、そう告げられ、クラウスは俯いた。
「兵に当たり散らし、些細なことで癇癪を起こす。……次期当主が、そんな体たらくでどうする」
「……申し訳、ありません」
「詫びる暇があるなら、少しは頭を使え」
バルドゥインの目には、失望の色が滲んでいた。
「ヴィルヘルムを見習え、とまでは言わん。だが、あの男の半分でも、周囲から信を得られるようになれ」
その名を出された瞬間、クラウスの拳が、強く握りしめられた。
「……はい」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
天幕を辞したクラウスは、行くあてもなく、陣内をふらついていた。
そこへ、折悪しく、ヴィルヘルムが通りかかった。
「クラウス様」
声をかけられ、クラウスは顔を上げた。
「先日のミダース戦、お怪我はもう」
「……お前には、関係ないだろう」
「いえ、部隊の仲間として、心配していました。よろしければ、傷薬を」
ヴィルヘルムが、何気ない気遣いから、懐の薬包を差し出す。
それは、純粋な親切心からの行動だった。
だが、クラウスの中では、その意味合いが全く違って響いていた。
(こいつは、俺を憐れんでいるのか)
(父上に見放され、兵にも呆れられ、こんな男にまで、施しを受けるのか)
「……いらん」
クラウスは、震える声でそれを払い除けた。
「お前の、施しなど……!」
その瞬間、クラウスの中で、何かが弾けた。
バルドゥインからの失望。
兵たちの嘲笑。
そして、目の前の男の、屈辱的なまでの善意。
積もりに積もった感情が、限界を超えて溢れ出す。
「あああああッ!」
絶叫と共に、クラウスの体が、禍々しい輪郭を帯び始めた。
本来の狼化であれば、顔つきが鋭く変わり、肌に体毛が浮かび、瞳が金色に輝くだけのはずだった。
だが、クラウスの変化は、その一線を大きく超えていた。
体毛は金色ではなく、濁った黒。
顔の輪郭そのものが歪に伸び、牙が口から溢れんばかりに突き出し、もはや人の顔とは呼べない形に変わっていく。
瞳は金色ではなく、血走った赤黒い色に染まり、全身からは、どす黒い瘴気が立ち上っていた。
それは、父の持つ澄んだ狼化とは、似ても似つかぬものだった。
「クラウス様……!」
ヴィルヘルムが、咄嗟に身構える。
目の前には、もはや人の形を保ちきれていない、歪んだ獣の姿があった。
「うおおおおおおッ!」
理性を失ったクラウスが、ヴィルヘルムめがけて飛びかかる。
ヴィルヘルムは、咄嗟に身をひねってそれを躱した。
「クラウス様、正気に……!」
呼びかけも、もはや届いている様子はなかった。
濁った爪が、大気を切り裂き、地面を深くえぐる。
その一撃を目にした瞬間、ヴィルヘルムの視界が、ふと割れた。
分岐の中に、次に振るわれる爪の軌道が、僅かに視える。
(――右から来る)
とっさに体を捻り、紙一重で爪をやり過ごす。
だが、力任せの一撃は、掠っただけでも骨まで軋むほどの重さだった。
「くっ……!」
その騒ぎに、周囲から兵たちが次々と駆けつけてくる。
「な、なんだあの化け物は……!」
「クラウス様が、あんな姿に……!」
悲鳴と怒号が、陣内に広がっていく。
「槍を持ってこい! いや、待て、あれは坊ちゃんだぞ……!」
敵でも味方でもない、主君の息子という立場が、誰の手も鈍らせていた。
誰も、迂闊に手出しできずにいる。
その均衡を破ったのは、駆けつけたジークハルトだった。
「隊長、下がれ!」
割り込むように、ジークハルトが自らの得物でクラウスの一撃を受け止める。
衝撃に、彼の体が僅かに軋んだ。
「馬鹿力が……! これが、あの坊ちゃんの力か!?」
「歪んでいます。あれは、本来の狼化とは、何かが違う……!」
ヴィルヘルムは、視界を割りながら、必死に分岐を追っていた。
だが、理性を失った獣の動きは、これまでのどの敵よりも予測がつかなかった。
「クラウス様! どうか、正気を……!」
その声すらも、獣と化した少年には届かない。
騒ぎを聞きつけたバルドゥインが、天幕を飛び出してくる足音が、遠くから響いてきた。
(第十九話へ続く)




