第十七話 望まれた道
テオドールとイルゼが発つ朝、部隊の多くがその見送りに顔を出した。
「世話になった。……この恩は、忘れない」
テオドールの言葉に、ヴィルヘルムは首を振った。
「こちらこそ、助けられました。また、何かあれば」
ヴィルヘルムは、少し言葉を継いだ。
「それに、今度はあなた方に何かあれば、俺が駆けつける番です。一方的に助けられるだけでは、気が済みませんから」
その言葉に、テオドールは僅かに目を見開き、それから柔らかく笑った。
「ああ。すぐに駆けつける」
イルゼが、名残惜しそうにエルサやリーゼルと言葉を交わしている。
「また会いましょう、姉さん」
「お前は、誰にでも姉さん付けるのか……」
エルサが呆れながらも、その口元は緩んでいた。
二人の姿が丘の向こうに消えるまで、皆はしばらくその場に立ち尽くしていた。
それから数日、部隊には久方ぶりの、穏やかな時間が流れていた。
大きな戦の予定もなく、コンラートたち新入りとの顔合わせも進み、陣中には緩やかな空気が満ちている。
焚き火を囲みながら、ヴィルヘルムはふと、先日のテオドールとイルゼの姿を思い出していた。
寄り添い、笑い合い、互いを気遣う二人の様子。
「……なあ」
ふと、ヴィルヘルムの口から、場違いなほどのんびりとした言葉が漏れた。
「俺も、婚約者とか欲しいなあ」
その場にいた面々が、一斉に彼を見た。
「……隊長、今、何と?」
エルサが、目を丸くしていた。
「珍しいな、隊長がそんな言葉遣いをするなんて」
「あ……いや」
ヴィルヘルムは、自分の発言に遅れて気づき、頬を赤らめた。
(やばい、平和すぎて前世の口調が出た……)
常であれば、こんな緩んだ言葉遣いをすることはない。
それだけ、この数日の穏やかさが、彼の張り詰めていた気を緩ませていたのだろう。
「まあ、気持ちは分かるがな」
ジークハルトが、笑いながら割って入った。
「だが隊長、お前がもし本当に王にでもなったら、婚約どころの話じゃないぞ」
「……どういうことです」
「王族なんてのは、大抵、妻を何人も迎えるもんだ。世継ぎのためにも、後ろ盾のためにもな」
その言葉に、ヴィルヘルムは露骨に顔を引き攣らせた。
「え……何人も、ですか」
「そういうもんだ」
リーゼルが、興味津々といった様子で身を乗り出した。
「えー、隊長ってばそんなに奥さん欲しいんですか?」
「いや、違う、そういう話じゃなくて……!」
慌てて否定するヴィルヘルムに、周囲からどっと笑いが起こる。
「隊長の慌てっぷり、珍しいもの見たな」
「意外と初心なんですね、隊長」
からかいの声が飛び交う中、ヴィルヘルムは慌てて話を打ち切ろうとした。
「王になんて、なるつもりはありませんから。そんな話は、気にしなくて結構です」
その一言に、その場の空気が、ふと静かになった。
ジークハルトが、真剣な顔でヴィルヘルムを見据えた。
「……別に、無理に簒奪しろと言っているわけじゃない」
「ジークハルトさん」
「だが、もし時代がお前を望むなら……その時は、なってくれ」
その言葉に、ヴィルヘルムは息を呑んだ。
「俺たちのために、な」
エルサも、静かに頷いた。
「奪う側にも、奪われる側にも、うんざりしてきた者は、この陣中に山ほどいる。……お前のような奴が上に立つなら、少しは違う世界が見えるかもしれん」
「私からも、お願いします」
リーゼルも、いつもの明るさとは違う、真剣な声で言った。
「隊長の下でなら……安心して、槍を振れます」
その場に集まった皆の視線が、静かにヴィルヘルムへと向けられていた。
それは、命令でも、期待の重圧でもなかった。
ただ、心からの願いだった。
ヴィルヘルムは、しばらく言葉を失っていた。
(俺は……)
王になりたいと、思ったことはなかった。
それでも、目の前にいる仲間たちの願いを、無下にすることもできなかった。
「……分かりました」
ヴィルヘルムは、静かに答えた。
「今すぐの話ではありませんが……その時が来たら、逃げません」
その言葉に、皆の顔に、それぞれの安堵と決意が浮かんだ。
それは、笑いに満ちた空気とはまた違う、静かで確かな絆の瞬間だった。
その賑やかな輪から、少し離れた場所。
バルドゥインの息子――クラウスは、一人、木陰に座り込んでいた。
遠くから聞こえる笑い声が、やけに耳障りだった。
「……何が、婚約者だ」
誰にともなく、吐き捨てる。
だが、耳に流れ込んできたのは、それだけではなかった。
「時代がお前を望むなら……その時は、なってくれ」
「俺たちのために、な」
ジークハルトの声が、風に乗って届く。
クラウスは、その意味を理解するのに、しばらくかかった。
「……王に? あの、平民の小僧が?」
声が、震えた。
次期当主として生まれ、それでも父から一度も、心からの信頼を向けられたことのない自分。
それなのに、血統もない男の下には、こうも自然と人が集まり、心からの願いまで捧げられる。
「なぜだ……なぜ、俺じゃないんだ……!」
命を救われて以来、あの男への感情は、日に日に歪んでいくばかりだった。
感謝と、憎悪と、劣等感が、渦を巻いて胸を焼いていた。
ふと、掌に目を落とす。
父から受け継いだ血。
まだ、満足に発現すらしていない、未熟な力。
「俺にだって……この血が、流れているのに」
握りしめた拳の輪郭が、僅かに、獣めいた歪みを帯びる。
それは、これまで彼自身も気づいていなかった、狼化の兆しだった。
だが、それは父の持つ力とは、どこか違う色をしていた。
澄んだ狼の目ではなく、濁った、どす黒い光を宿していた。
「……見てろよ」
クラウスは、誰に言うでもなく、そう呟いた。
その声には、これまでとは違う、昏く歪んだ響きが混じっていた。
(第十八話へ続く)




