第十四話 崩れる陣
陣太鼓の音と共に、両軍が動き出した。
平野の中央で、二千二百のバルドゥイン本軍と、千八百のゴルデンハイム軍が正面からぶつかり合う。
大半の兵は、粗末な服に皮の胸当て程度の装備で、鉄鎧を纏っているのは、両軍とも指揮官格の一部だけだった。
槍衾が交錯し、盾がひしゃげ、絶叫と怒号が幾重にも重なった。
「押し込め、押し返されるな!」
「怯むな、隊列を崩すなよ!」
至る所で、穂先が肉を裂き、血飛沫が舞う。
転がる骸を踏み越えながら、両軍の兵士たちは、ただ生き残るために槍を振るい続けていた。
「行くぞ!」
ヴィルヘルムの号令で、三百の部隊が本軍の一翼として前進した。
本軍の指揮は、バルドゥインの副官格の将に委ねられていた。
対するゴルデンハイム軍もまた、ミダースとは別に、実務を担う将――グラムという古参の武将が、後方から指揮を執っていた。
「閣下は、ミダースの首だけを狙う。他は、俺たちで抑えろ」
副官の声に、兵たちが気を引き締める。
バルドゥイン自身は、馬を飛び降りると、狼化した体で戦列を離れ、地を蹴った。
その速さは、もはや人のそれではなかった。
一瞬にして数十メートルを踏破し、行く手を阻む敵兵の群れへ、槍も使わず素手で突っ込んでいく。
振るわれる拳と蹴りの一撃ごとに、敵兵の体が紙屑のように吹き飛んでいった。
「これが、閣下の力か……」
味方の兵たちが、遠巻きにその暴威に息を呑んでいた。
まるで一頭の狼が、羊の群れを蹂躙していくような光景だった。
ヴィルヘルムの部隊は、本軍左翼、ちょうどミダースが陣取る中央に近い位置を任されていた。
「くっ……!」
目の前の敵兵が、槍を突き出しながら迫ってくる。
(――振れば、間合いが取れる)
ハンスの教えを思い出しながら、ヴィルヘルムは自らの槍を大きく横に振るった。
敵の穂先が、間合いの外へと弾かれる。
その隙を逃さず、返す一手で相手を突き伏せた。
一人、また一人と、目の前に迫る敵を、槍の間合いを活かして着実に退けていく。
「隊長、右手が薄い! 崩れます!」
「伝令、後方のエルサに予備の槍を回すよう伝えろ! ジークハルトさん、右翼に回ってください!」
「承知した」
ジークハルトは短くそう答えると、フリッツと共に右翼へと駆けていった。
「フリッツ、隊列の乱れを直せ! 俺が前に出る!」
「承知」
フリッツの指示で、崩れかけていた右翼の隊列が瞬く間に立て直される。
その隙間を縫うように、ジークハルトが敵陣へと斬り込んでいった。
「どけェッ!」
大槍を横一文字に薙ぐと、三人の敵兵がまとめて吹き飛ばされる。
常人離れした腕力に、敵兵が明らかに怯む。
気の練り方一つとっても、平民の身体強化とは、まとう気迫の質からして違っていた。
幾人もの敵を薙ぎ払った衝撃で、槍の柄に亀裂が走る。
バキリ、と乾いた音を立てて、槍が真っ二つに折れた。
「――替えを!」
折れた槍を無造作に投げ捨てると同時、傍らを駆ける旧知の部下が、間髪入れずに新たな槍を放り投げる。
かつての傭兵団としての、息の合った連携だった。
「悪いな!」
受け取った槍を片手で構え直すと、ジークハルトは再び敵陣へと切り込んでいった。
「さすがは、元傭兵隊長だな……!」
味方の兵が、思わず声を漏らすほどの手際だった。
フリッツもまた、寡黙ながら着実に側面を支え、ジークハルトが切り込むたびに生まれる隙を、的確に埋めていく。
二人の連携で、右翼の劣勢は、みるみる押し返されていった。
怒号の飛び交う中、ヴィルヘルムは視界の端で、バルドゥインの動きを捉えていた。
誰よりも早く、バルドゥインはミダースの眼前に到達していた。
道すがら、行き倒れた敵兵の一人が落とした槍を、片手で拾い上げていた。
「待たせたな、化け物」
「ほう、まさか私の元まで、生きて辿り着くとはな」
ミダースは、悠然と笑いながら、その細い腕を構えた。
ガリガリの体躯からは想像もつかない不気味な余裕が、その笑みには滲んでいた。
バルドゥインの一撃が、唸りを上げて振り下ろされる。
だが、ミダースはそれを受け止め、素手で槍の穂先を掴み取った。
「もらった」
「なにっ……!」
バルドゥインが咄嗟に槍を手放し、後方へ跳び退る。
一瞬の判断が、彼を救った。
手放された槍が、ミダースの手の中で溶けるように消えていく。
ミダースの体が、また一回り膨れ上がった。
「奪う、というのは……そういうことか」
バルドゥインは、剣を抜き放ちながら、忌々しげに舌打ちした。
「厄介な、化け物め」
それでも、狼の俊敏さで距離を詰め、剣を幾度も叩き込んでいく。
だが、真っ向から打ち合うほど、ミダースはその一部を奪い取り、着実に力を増していった。
一進一退の攻防が、膠着し始めていた。
その膠着を、若さゆえの焦りが破った。
バルドゥインの息子は、本来なら後方で待機しているはずだった。
だが、父の苦戦を見て、居ても立ってもいられなくなったのだろう。
護衛の目を盗み、単身で前線へと飛び出していた。
「俺が……! 俺が、あの化け物を討てば……!」
「待て、馬鹿な真似を……!」
バルドゥインの制止も届かず、少年は槍を構えたままミダースへと突っ込んでいく。
「小僧が、生意気な」
ミダースが、片手で無造作にその一撃を払った。
少年の体が、あっけなく吹き飛ばされる。
「がっ……!」
地に叩きつけられ、槍を取り落とした少年は、迫るミダースの巨腕を前に、腰を抜かしたように後ずさった。
「た、助けてくれ……!」
その悲鳴は、ちょうど交戦していたヴィルヘルムの部隊のすぐ近くまで届いていた。
その顔に、ヴィルヘルムは気づいた。
(あれは……バルドゥインの、息子)
因縁のある相手だった。
だが、迷いは一瞬もなかった。
「そこの部隊、援護に回れ! 見捨てるな!」
ヴィルヘルムは、目の前の敵兵を部下に任せ、自ら槍を構えて駆け出した。
「な……なぜ、お前が……!」
助けに入ったヴィルヘルムを見て、少年は驚愕に目を見開いた。
「お前がどう思っていようと、今この場で見捨てる理由にはならない」
それだけ答えると、ヴィルヘルムは迫る一撃を槍で払い、少年を庇うように前に立った。
損得を弾き出す前に、目の前で助けを求める者を、放っておけなかっただけだった。
「下がっていてください」
少年を後方に控えていた護衛の兵に預けると、ヴィルヘルムは改めてミダースと向き直った。
「奪われた者を、よく見ろ!」
ヴィルヘルムは、視界を凝らしながら部隊に叫んだ。
「あいつは、"見て"、"奪おう"と定めた相手からしか力を奪えない! かすっただけの一撃には、反応していない!」
その観察に、部隊が僅かにどよめいた。
「じゃあ、隊長……」
「死角から仕掛ければ、奪われない」
ヴィルヘルムは、槍を握り直しながら、視界を割った。
分岐の中に、ミダースの意識がどこに向いているか、その揺らぎが薄っすらと視える。
(視ている先にだけ、あいつの"奪う"は発動する)
これまでの攻防で、ミダースの巨躯は、既に十メートルにも達しようかという、化け物じみた姿になっていた。
だが、その姿は、もはや人型と呼べる代物ではなかった。
全身のいたる所から、これまで奪い取った剣や槍の穂先が、まるで体毛のように無数に突き出している。
膨れ上がった巨体を、もはや二本足で支えることもできず、四肢を地について、獣のように這いつくばっていた。
「ハーッハッハ! どうだ、これが力というものだ!」
武具が突き刺さったままの太い腕が、大地を揺るがしながら振り下ろされる。
バルドゥインが辛うじてそれを避けながら、忌々しげに吼えた。
「小僧、何をしている! 早く手を貸さんか!」
「今です!」
ヴィルヘルムは、その声を合図に部隊へ指示を飛ばした。
「正面から力で挑むな! 一部は見せ駒として奴の正面に留まり、残りは真後ろと両脇の三方向から死角を突け!」
死角組の兵たちが、三手に分かれて展開していく。
「見えている方は、あえて姿を晒して注意を引け! それ以外は、死角から一気に足元へ!」
数名の兵が、あえてミダースの正面に立ち、槍を打ち鳴らして注意を引きつける。
「こっちだ、化け物!」
「ほざけ、虫けらが!」
ミダースの巨体が、そちらへと向き直った、その瞬間。
「今だ!」
死角に回り込んでいた一団の先頭で、ハンスが低く吠えた。
「突けッ! 狙うはそこだけだ!」
巨大な足の腱めがけ、ハンスが鋭く槍を突き込む。
深々と貫かれた腱に、ミダースが絶叫を上げた。
「ぐああああッ!?」
「父さん、もう一撃!」
リーゼルが、ハンスの背を追うように駆け込み、同じ場所へ二の太刀を突き込んだ。
「上出来だ、リーゼル!」
ハンスの声に、僅かな誇らしさが滲んでいた。
巨体が、大きくよろめく。
その隙を、狼が見逃すはずもなかった。
「終わりだ」
体勢を崩したミダースの喉元に、バルドゥインの剣が深々と突き立てられた。
「ぐ……ぼ……ッ」
巨躯が、ゆっくりと地に伏していく。
断末魔と共に、ミダースの姿は、まるで蝋が溶けるように縮んでいった。
総大将を失ったゴルデンハイム軍だったが、指揮官のグラムが声を張り、崩れかけた統率を辛うじて繋ぎ止めていた。
「怯むな! ミダース様は倒れても、まだ我らは……!」
その声が、次の瞬間、驚愕に変わった。
敵陣の後方で、ひときわ大きな喊声が上がる。
「寝返るぞ! ゴルデンハイムの旗を、下ろせ!」
敵軍の後方を固めていた一団が、次々と武器を捨て、あるいは味方であったはずの部隊に矛先を向け始めていた。
その先頭に立つのは、旅装のままのテオドールだった。
「今だ! 手筈通り、一気に崩す!」
その光景に、ヴィルヘルムの脳裏に、開戦前のやり取りが蘇る。
――出陣を控えたあの夜、テオドールが静かに切り出した話だった。
「私の領地の民の何人かは、イルゼを案じて、ここまで付き従ってきてくれている。彼らを介して、ゴルデンハイム側に徴発されていた兵たちに、密かに繋ぎを取っている」
「奪う異能に怯え、渋々従っていた者も多い。……ミダースが倒れた瞬間に寝返らせる。それが、私にできる戦支度だ」
「イルゼの伝手と、私の商いの人脈があってこそだ」
隣に座るイルゼが、静かに頷いていた。
「ジークハルトさんにも、傭兵時代の伝手で、寝返り側の指揮を頼んである」
「古い顔馴染みが、何人か向こうにいてな」
ジークハルトが、肩をすくめながらそう答えていたのを、ヴィルヘルムは覚えている。
「奪う化け物さえ討ち取れば、勝てる算段だ。あとは、隊長の"目"がどこまで戦局を動かすか、それ次第だな」
――計画通りだ。
ヴィルヘルムは、込み上げる笑みを堪えながら、視界を割った。
分岐の中に、浮足立った敵の指揮系統が、いくつもの綻びを見せているのが視えた。
「全軍、中央に圧をかけろ! 敵はもう、まとまりを保てていない!」
その指示に、部隊がどよめいた。
「なぜ、そこまで分かるんだ……」
「隊長の"目"は、伊達じゃねぇってことだ」
ヴィルヘルムの読み通り、指揮官のグラムでさえ制御しきれない混乱の中、敵軍は抵抗らしい抵抗もできぬまま、瞬く間に瓦解していった。
統率を失った敵兵たちが、我先にと戦線を離脱していく。
副官の声が、勝機を逃さず戦場に響いた。
「敵軍、崩れたぞ! 追い討ちをかけろ!」
静寂の後、遅れて戦場に響いたのは、割れんばかりの歓声だった。
「や、やったぞ……! あの化け物を、討ち取ったぞ!」
「隊長の采配のおかげだ!」
「ハンスさんとリーゼルの一撃も、決め手だったな!」
「それに、寝返った連中もだ……! 一体、いつの間に……!」
兵たちの歓喜と困惑の混じった声が、次々と広がっていく。
ヴィルヘルムは、その輪の中で、安堵と共に大きく息を吐いた。
(終わった……)
だが、その視線の先で、一人の少年だけが、複雑な表情でその光景を眺めていた。
(第十五話へ続く)




