第九話 再び、下層へ
翌朝、オルトは、日の出前から昇降台の前にいた。
昇降台の枠を叩き、鎖の一つ一つを手で確かめ、巻き上げ装置の歯車に油を差す。
その間、誰も、口を出さなかった。
荷役場の隅で、俺とドランさんは、その作業を見ていた。
「どうだ」
ドランさんが聞いた。
「地上側は、問題ない」
オルトは、手についた油を、布でぬぐった。
「鎖も、歯車も、枠も、使える。だが、下は別だ。見えないものは、見えない」
「はい」
「昼前、ギルドから書状が届いた。下層側の現地調査の許可が、連名で出ている。条件は、そろった」
オルトは、俺を見た。
「明朝、出発だ」
「……はい」
夕方、治療所に寄った。
セナは、ベッドの上で、窓の外を見ていた。
「点検は、問題なしでした。許可も、出ました。明日の朝、降ります」
「そう」
セナは、窓から目を離さなかった。
「無理は、しないで」
「はい」
「危ないと思ったら、引き返して。引き返すのも、仕事のうち」
「はい」
「それと」
セナは、俺の方を向いた。
「何か見つけたら、持って帰って。小さいものでいい。糸でも、布の切れ端でも」
「分かりました」
「声が聞こえたら、すぐ知らせて」
「はい」
少しの沈黙のあと、セナは、小さく言った。
「……必ず見つけて、なんて、言わない。言えない」
「はい」
「だから、あなたも、言わなくていい」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「必ず帰って、報告します。見つけたものも、見つけられなかったことも、全部」
「……それでいい」
セナは、ようやく、少しだけ笑った。
「カイ」
「はい」
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
翌朝、荷役場に、先遣隊の六人が集まった。
「ギルドの調査班、バルトだ。先遣隊の指揮を取る」
調査班の男が、そう名乗った。
「斥候が一人、盾持ちが一人、それにギルドの技術者。荷運び組合から、ドランとカイ。以上の六名だ」
斥候の女性が、軽く手を上げた。盾持ちの大男は、黙ってうなずいた。技術者は、いつもの顔で、荷の確認をしている。
荷は、強度と用途の確認が済んだ短い補強材と、縄、滑車、工具。
背負い板に、斜めに固定してある。
縄の掛け方は、試験のときと同じだ。
昇降台の脇で、オルトが待っていた。
「降下中の巻き上げは、俺が見る。合図は、鎖を二度引け。それで、すぐ引き上げる」
「了解した」
バルトが答える。
オルトは、最後に、一度だけ、俺を見た。
「降りたら、まず扉だ。確認が済むまで、誰も先へ進むな」
「はい」
昇降台に乗り込む。
六人と荷で、台が、ぎしりと鳴った。
鎖が、動き出す。
地上の光が、頭の上で、遠ざかっていく。
縦穴の壁を、荷運びの印が、ゆっくり流れていく。
この穴を、俺は、上がってきた。
セナの寝息を聞きながら。
今度は、下りる。
「大丈夫か」
隣で、ドランさんが、小声で言った。
「……はい」
「顔、こわばってるぞ」
「降りるのは、初めてなので」
嘘では、なかった。
ごとん、と台が底についた。
闇の中に、ランプの光が、揺れる。
石と鉄の二枚の扉が、開いたままになっていた。
その向こうに、長い廊下が見える。
扉の中央、鍵穴の上に、拳ほどの丸い台座があった。
中身は、空だ。
あそこに、赤い光があった。
手を伸ばした。熱が、腕を上った。
息が、少し、浅くなった。
「動くな」
バルトが、低く言った。
「確認が済むまで、誰も先へ進むな」
斥候の女性が、床と、扉の蝶番を調べる。
ドランさんが、昇降台の取っ手と、鎖の根元を見る。
技術者は、扉の中央の台座に、顔を近づけた。
「……台座が、空だな。ここに、何かを嵌める作りだ」
「番人の核、ってやつか」
斥候の女性が言った。
「外れたのか、壊れたのか」
「どっちでもいい」
バルトが言った。
「番人が働かないなら、むしろ助かる」
「妙だな」
技術者が、小さくつぶやいた。
「普通は、勝手に外れるものじゃない」
誰も、それ以上は、言わなかった。
俺は、握った手のひらが、汗でぬれているのを感じた。
ドランさんが、俺の顔を見た。
「カイ。顔色が悪いぞ」
「降りたばかりで、少し、酔ったみたいで」
「荷運びが、昇降台で酔うか」
「……少しだけ」
ドランさんは、鼻で息を吐いた。
それだけだった。
「昇降台、扉、周辺。大きな異常は、ない」
バルトが、そう宣言した。
「進む。ただし、この台座の件は、帰ったら報告する」
「記録しておく」
技術者が、うなずいた。
扉の向こうは、長い廊下だった。
太い柱が、左右に並んでいる。
天井の穴から、細い鎖が、何本も垂れていた。
刃は、どこにもない。
「罠の部屋だな」
斥候の女性が、鎖を見上げた。
「刃を振る仕掛けだ。それが、一本も残ってない」
「古い罠は、ときどき勝手に壊れる」
バルトが言った。
「壊れてるなら、通りやすい。進もう」
俺は、何も言わなかった。
言わないことと、嘘をつくことは、違う。
でも、胸が、少し痛んだ。
廊下の先の石の門にも、天井に、細い切れ目と鎖が残っていた。
門を抜けると、通路は、ゆるく下り始めた。
「一つ目」
俺が小声で言うと、前を歩く斥候の女性が、振り返った。
「何が」
「曲がり角です。数えてました。図より多い、って、前に言ったので」
「お前の証言か」
バルトが言った。
「確かに、図にはなかった曲がりだ。この先も、調査のときから、少しずつ下ってた」
二つ目。
坂が、強くなる。
三つ目。
一番、狭い角だった。
角を曲がった先で、壁に、空っぽのくぼみが、一列に並んでいた。
矢の罠の跡だ。
床には、割れた穴が、黒く口を開けている。
見覚えがあった。
あの日、俺が、落ちかけた穴だ。
「端を踏まないでください。縁が崩れます」
「どうして分かる」
バルトが、目を向けた。
「……前に、ここで、落ちかけたので」
嘘じゃない。
「そうか」
バルトは、壁のくぼみを見回した。
「ここも、罠の跡か。セナは、よく、生き残ったな」
「はい。……本当に、そう思います」
それは、俺の、本心だった。
矢の罠の跡を過ぎたあたりから、足の裏の感じが、変わった。
靴の底が、ほんの少し、滑る。
床を見ると、継ぎ目が、黒く濡れていた。
「待ってください」
俺は、手を上げた。
「ここから、床が濡れてます。さっきまで、乾いてたのに」
バルトが、しゃがんで、指で床をなでた。
「……水だな。薄い」
「荷が、滑ります。特に、下り坂で」
荷を見る。
短い補強材が、背負い板に、斜めに固定されている。
試験のときは、乾いた板の上で、問題なかった。
でも、濡れた石の上で、後ろから押されたら。
「運び方を、変えさせてください」
「どう変える」
「荷の順番と、縄です。重い荷は、坂では前に置かない。後ろの人が、縄を必ず持つ。先頭は、荷を持たずに、足場を見る役に」
「荷を持たない先頭は、誰がやる」
「俺が、やります。足場を見ながら、先に行きます。その代わり、荷は、ドランさんと、盾持ちの人で、分けてもらえると」
盾持ちの大男が、無言でうなずいた。
ドランさんが、にやりと笑った。
「いい判断だ。やれ」
バルトは、ほんの少し考えて、言った。
「採用する。カイ、先頭。足場の判断は、お前に任せる。ただし、危ないと思ったら、すぐ止めろ」
「はい」
縄を、増やした。
腰に二重にかけて、坂の途中では、後ろの人が必ず持つ。縄の端は、引けばほどける結びだ。
先頭に立って、一歩ずつ、足の裏で、石を確かめた。
濡れた石は、継ぎ目の幅が広いほど、滑りにくい。
荷運びの足は、それを覚えている。
「ここ、右に寄ります。左は、水が溜まってます」
「了解」
隊は、一本の縄みたいに、ゆっくり進んだ。
誰も、滑らなかった。
坂を下りきると、広い部屋に出た。
床一面に、四角い石が、敷き詰められている。
継ぎ目が、格子みたいに並んでいた。
「前に来たときは、ここは、普通に通れた」
バルトが言った。
「ここだけ、罠の気配が、なかった」
「でも、今は」
斥候の女性が、足で床を軽く押した。
ぎい、と、石が鳴った。
「音が違う。前は、鳴らなかった」
技術者が、しゃがんで、継ぎ目をのぞきこんだ。
「水が染みてる。床の下の仕掛けが、錆びたか、緩んだか……分からん。分からんが、前と同じと思うな」
俺は、床を見た。
継ぎ目の太さが、石によって、違う。
細い継ぎ目の石と、太い継ぎ目の石。
それから、ほこり。
セナは、言っていた。ほこりの薄い所は、誰かが踏んで動いた跡。
でも、ここは、水で流されている。
「ほこりは、当てになりません。継ぎ目の細さで、見ます」
「継ぎ目?」
「細い継ぎ目の石は、下に仕掛けがある可能性が高い、と思います。太い継ぎ目の石と、壁際の縁は、動かない。確かじゃないですが」
「確かじゃないものを、信じろと」
「信じなくていいです。でも、確かめながら行く道としては、これが一番、安全だと思います」
斥候の女性が、鼻で笑った。
「悪くない見立てだ。試してみる」
彼女は、壁際の縁を、足で押した。
動かない。
次の、太い継ぎ目の石。
動かない。
「……いけるぞ」
「炭で、印をつけます」
荷札用の炭で、通る石に、小さな印をつけた。
壁際から、柱の脇、太い継ぎ目の石へ。
道ができた。
「命綱を、使います」
まず、斥候の女性が、印の上を渡って、向こう岸の柱に、張り綱を結んだ。
各自の腰の縄を、その綱に、輪でつなぐ。
「軽い人から、順番に。荷は、最後に、滑車で渡します」
「理にかなってる」
バルトが言った。
俺は、入り口の壁際の縁に、残った。
ここは、石が動かない。荷を積み上げて、滑車にかける準備をするのが、俺の役目だった。
斥候。盾持ち。バルト。ドランさん。
一人ずつ、印の上を渡っていく。
向こう岸で、四人が、張り綱を握っていた。
最後に、技術者が来た。
「印の通りに」
「分かってる」
技術者は、背負い袋を抱えて、石を踏んだ。
一つ目。
二つ目。
三つ目の石で、靴の底が、つるりと滑った。
「うおっ!」
体が、左へ流れる。
転ぶ。そう思った瞬間、技術者の足が、とっさに、横へ出た。
印のない、細い継ぎ目の石を、踏んだ。
ぎぃ、と、床が鳴った。
技術者の足の下の石が、すうっと、傾いた。
隣の石も、その隣も、連なって、傾き始める。
ひとつの大きな板みたいに、床が、ゆっくり、抜けていく。
「技術者! 縄!」
「持ってる!」
向こう岸で、ドランさんたちが、張り綱を引いた。
技術者の体が、傾く石の縁で、止まる。
でも、傾きは、止まらない。
石が、一枚、また一枚、抜けていく。
綱を引くドランさんの足が、濡れた石の上で、じりじりと、前へ引きずられた。
「踏ん張れ!」
バルトが叫んだ。
斥候と盾持ちが、ドランさんの後ろに、飛びつく。
向こう岸の全員が、技術者と綱に、目を向けていた。
その隙に、俺は、見つけた。
俺の足元。荷の山の陰。壁の割れ目に、赤い光が、弱く瞬いていた。
核だ。
水で、光が、くすんでいる。
でも、しゃがめば、手が届く。
一瞬、迷った。
人が、いる。
でも。
揺れで荷が崩れないよう、押さえるふりで、しゃがんだ。
荷の山と、俺の背中が、手元を隠す。
向こう岸のランプの光は、こちらまで届かない。技術者も、縄と足元しか見ていない。
割れ目に、手を入れた。
熱。
赤い光が、指へ絡み付く。
腕を上り、胸の奥へ落ちる。
石の傾きが、止まった。
ぎぃ、と最後に一度だけ鳴って、床は、動かなくなった。
「……止まった?」
「引け! 今のうちだ!」
技術者が、石の縁から、引き上げられる。
背負い袋が、石にぶつかって、大きな音を立てた。
静かになった。
「生きてるか」
「……ああ。助かった」
技術者は、床に座り込んで、荒い息をした。
「すまん。足を、取られた」
「お前のせいじゃない」
バルトが言った。
「濡れた床と、動く仕掛けが、重なっただけだ。印の道は、正しかった」
「ああ。外れたのは、滑った一瞬だけだ」
「にしても、運がいい。水で仕掛けが噛んだのか、錆びて止まったのか」
「そんなところでしょう」
斥候の女性が、傾いた石を、足でつついた。
俺は、何も言わずに、立ち上がった。
手のひらが、まだ、熱かった。誰にも見えないように、握りしめた。
胸の奥には、巨大な核の重さが、そのまま、あった。
その隣に、これまでとは違う、小さな重さが、一つ増えていた。
あの床の罠を、取り込んだのだと分かった。
どれだけ入るのか、これが何なのか、俺には、まだ分からない。
向こう岸から、ドランさんが、こちらを見ていた。
残りの荷を、滑車で渡して、最後に、俺も、印の上を渡った。
傾いた石の横を通るとき、足が、少しだけ、震えた。
「カイ」
渡りきったところで、ドランさんが、小声で言った。
「さっき、しゃがんでたろ。荷は、無事か」
「はい。崩れそうだったので、押さえてました」
「そうか」
ドランさんは、それ以上、何も言わなかった。
「何も聞かねえ」を、守っている顔だった。
部屋を抜けた先で、通路は、細く、暗くなった。
水音が、聞こえ始めた。
初めは、かすかな音。
進むほど、はっきりと。
床の隅に、細い水の筋ができていた。
靴の底が、ひたひたと濡れる。
「水が、増えてる」
バルトが、低く言った。
「前は、指の幅ほど、壁際に溜まってただけだ」
通路の突き当たりに、崩れた壁があった。
大きな石が、天井まで積み重なっている。
その隙間から、細い水が、床へ染み出していた。
床の窪みに沿って、細い流れができている。
足首には、まだ届かない。
でも、確かに、前より広い。
「ここだ」
バルトが、石の壁に手を当てた。
「矢が落ちてたのは、この手前だ」
俺は、床を見た。
矢は、もうない。持ち帰られたから。
でも、ここに、あの子の矢が落ちていた。
セナの声が、頭の中で響く。
何か見つけたら、持って帰って。
「調べます」
技術者が、壁に近づいた。
石の大きさ、積まれ方、隙間。
指で、石の縁をなぞる。
濡れた手のひらを、顔の前にかざす。
「風が、出てる。……冷たい」
「向こうに、空間がある」
「ああ。広いかどうかは分からんが、閉じ切ってはない。水が通って、空気も通ってる。人が入れる大きさの空洞が、ある可能性は、高い」
「人がいるかは」
「分からん」
技術者は、首を振った。
その場の空気が、少し重くなった。
でも、望みが、消えたわけじゃない。
俺は、水の音を聞いていた。
ちょろちょろ、と流れる音。
壁の奥で、ごぽ、と空気が抜ける音。
その合間に。
こん。
何か、違う音が、混じった。
「……静かに」
俺は、手を上げた。
「何だ」
「音が、します。水の音と、違う」
全員が、息を止めた。
水の音だけが、続く。
ちょろちょろ。
ごぽ。
……こん。
聞こえた。
「今の」
斥候の女性が、眉を寄せた。
「石が、鳴ったか」
「違うと思います。間隔が、一定で」
こん。
少し間をおいて、また。
こん。
「……誰かが、石を叩いてる」
声に出してから、怖くなった。
確証は、ない。
石の隙間に、水が落ちる音かもしれない。
何かが、天井から垂れているのかもしれない。
でも。
「もう一度、聞く」
バルトが、静かに言った。
「全員、動くな。息も、殺せ」
水の音。
ごぽ。
こん。
ごぽ。
……こん。
ドランさんが、小さく、唾をのんだ。
その直後。
壁の奥から、ずん、と、重い音が響いた。
床が、かすかに揺れた。
石の隙間から、冷たい風が、勢いよく噴き出した。
ランプの火が、いっせいに、横へ倒れた。
こん、こん、という音は、それきり、聞こえなくなった。




