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第八話 青い糸の先へ

治療所の戸を開けると、セナは、すでに起きていた。


ミレイさんと、調査班の男が、俺の後ろから入ってくる。


「……何か、見つかったのね」


セナの声は、静かだった。


でも、ミレイさんの手の中の小さな包みを見た瞬間、その肩が、びくりと動いた。


「お見せします」


ミレイさんが、布を開いた。


青い糸の巻かれた矢が、そこにあった。


セナは、すぐには手を出さなかった。


膝の上で、指を握って、ゆっくり開いて、それから、矢に触れた。


「……持っても、いい?」


「どうぞ」


セナは、矢を両手で持って、ランプの方へ傾けた。


矢羽根の根元。青い糸。糸の端の始末。矢尻。


一つずつ、確かめていく。


「糸の巻き始めが、二重結び。端は、羽根の軸に沿って折り込んである」


「あの子の癖、ですか」


俺が聞くと、セナは小さくうなずいた。


「それに、矢尻の、ここ。小さく欠けてる」


指先が、矢尻の縁をなぞった。


「前に、岩に当てて欠けたって言ってた。笑って、これでも当たるって」


声が、ほんの少し、揺れた。


「……あの子の矢だと思う。ほぼ、間違いない」


「ほぼ」


「同じ糸は、街でも売ってる。巻き方を真似る人もいるかもしれない。似た欠けも、ありえる」


セナは、顔を上げた。


「でも、全部が重なってる。だから、私は、あの子のだと思う」


「分かりました。記録します」


ミレイさんが、うなずく。


「ただし」


セナは、矢を膝の上へ下ろした。


「これは、生きてる証拠じゃない」


誰も、何も言わなかった。


「崩れる前に落とした矢かもしれない。崩れたときに、飛んだのかもしれない」


静かな声だった。


でも、矢を握る指に、力が入りすぎていた。


俺は、何も言わなかった。


慰めの言葉は、浮かばなかった。


ただ、そこにいた。


しばらくして、セナが、息を吸った。


「聞かせて。この矢が、どこに、どんなふうに落ちてたか」


調査班の男が、一歩、前へ出た。


「崩れた壁の手前、三歩ほどの床。矢先は、壁の方を向いてた」


「壁の方……」


「壁の隙間から、冷たい風が来てた。水の音は、その向こう。壁の手前の床は、乾いてた」


「壁は、石? 土?」


「石だ。大きいのが、積み重なってる。人の力だけじゃ、どけられん」


セナは、目を閉じた。


「矢先が壁の方を向いてたなら……撃った矢かもしれない。壁の向こうへ、あるいは、壁に向かって」


「あるいは、崩れたときの勢いで、そっちへ飛ばされたか、だ」


「ええ」


セナは、目を開けた。


もう、揺れていなかった。


「ありがとう。教えてくれて」


それから、俺を見た。


「カイ」


「はい」


「整理して。今、分かったこと」


俺は、荷札の板を出して、炭で書いた。


「矢は、あの子のものの可能性が高い。落ちていたのは、崩れた壁の手前、三歩。矢先は壁の向き。床は乾いてた。壁は石で、大きくて、人の力ではどけられない。水の音は、壁の向こう」


「……合ってる」


「抜けてることは、ありますか」


「ない」


セナは、小さくうなずいた。


「ミレイさん」


「はい」


「お願いがある」


「何でしょう」


「この荷運びのこと。私を連れて、下から戻ってきた。道の特徴も、覚えてる。救助隊の協力者として、推薦したい」


俺は、息をのんだ。


「雇うって話じゃなくて」


セナは、俺の方を見ずに続けた。


「最終判断は、ギルドと組合に任せる。それでも、推薦する」


「承りました。正式に、記録します」


ミレイさんが、書き留める。


セナは、やっと、俺を見た。


「一人で降りない。約束は、そのまま」


「はい。守ります」


「隊で動くなら、止めない」


「……はい」


その目には、さっきまでの揺れは、なかった。


矢を握る手だけが、まだ、少し震えていた。




翌朝、荷運び組合の掲示板の前が、ざわついていた。


探索者ギルドからの、正式な協力依頼書が、貼り出されている。


下層崩落現場への救助用装備の運搬、および補助。必要人数、六名。支柱、縄、滑車、工具。


「来たか」


ドランさんが、依頼書の前で、腕を組んでいた。


「ドランさん」


「話は、聞いてる。お前、行きたいんだろ」


「……はい」


ドランさんは、すぐには何も言わなかった。


しばらくして、低い声で言った。


「荷物を運ぶのと、人を連れて帰るのは、違うぞ」


「はい」


「荷は、落としたら壊れる。人は、落としたら戻らねえ」


「分かってます」


「分かってる、って顔じゃねえな」


ドランさんは、俺の目を、まっすぐ見た。


「なんで、行く」


「強いから、行くんじゃないです」


「ほう」


「俺は、強くないです。でも、あの道を、通ったことがあります。足場も、曲がり角も、覚えてます。荷物を運ぶ仕事なら、できます。それが必要なら……それは、俺の仕事だと思います」


ドランさんは、鼻で息を吐いた。


「……生意気言うようになったな」


「すみません」


「謝るな。悪くねえ答えだ」


大きな手が、俺の肩に置かれた。


「だが、念を押す。下は、地上の荷役場とは違う。灯りも、足場も、逃げ道も、全部が違う。軽く考えたら、死ぬぞ」


「はい」


「俺も行く。お前一人にはさせねえ」


「ドランさん」


「勘違いすんな。荷運び班の責任者として、だ」


照れ隠しみたいな顔だった。


そのとき、後ろから声がした。


「依頼書は、読んだか」


オルトだった。


「はい」


「救助が、最優先だ。昇降路の件と、救助の件は、別の問題として扱う」


オルトは、淡々と言った。


「ただし、荷役用の昇降路を使うなら、安全確認が先だ。明朝、俺が地上側を点検する。昇降台、鎖、巻き上げ装置だ」


「地上側、ですか」


「下層側の扉や設備は、地上からは見えん。そっちを確かめるには、正式な許可を取った現地調査が要る。地上側が問題なくても、下が無事だとは限らん」


喉が、少しだけ、鳴った。


迷宮側の扉。


あの扉の核は、もうない。


「地上側で異常が出たら、出発は延期だ。確認が済むまで、誰も下へは降りない」


オルトは、俺の顔を、じっと見ていた。


疑っているのか、確かめているのか。


やっぱり、読めなかった。


「カイ」


「はい」


「お前の参加は、まだ決まっていない。決めるのは、俺とドラン、それとギルド側だ」


「分かりました」


「今日の午後、荷役場で運搬の試験をする。ギルドの者も見に来る。そこで、見せてもらう」


「……はい」




午後の荷役場には、いつもと違う空気が流れていた。


荷役場の端に、板と樽で、細い通路が組まれていた。


曲がり角が、三つ。


傾けた板が、ゆるい下り坂を作っている。


「カイの証言と、調査班の話をもとに、組合の者で再現した」


オルトが、説明した。


「曲がり角の数と、下りの傾きは、証言に合わせてある。幅は、調査班が通った一番狭い所に合わせた」


通路の脇には、ミレイさんと、調査班の男、それにギルドの技術者らしい男が一人、立っていた。


「試験の荷は、これだ」


荷車の上に、細長い支柱が、横たえられていた。


長い。


三メートル近い。


「現場の補強に使う、支柱だ。これを、下まで運ぶ」


年配の荷運びが、腕を組んだ。


「二人で前後を持って、まっすぐ進めばいい。簡単だろう」


「やってみろ」


オルトが言った。


最初の組は、年配の荷運びと、もう一人の荷運びだった。


二人は、支柱の前と後ろを持って、通路へ入った。


一つ目の曲がり角。


何とか、回った。


二つ目の曲がり角で、柱の先が、樽の壁に引っかかった。


「止まれ! 前、止まれ!」


「止まってる! 後ろが、押してくる!」


下り坂だった。


後ろの荷運びの足が、板の上で滑る。


柱が、前へ押し出される。


前の荷運びが、樽の壁と柱の先に、挟まれそうになった。


「くそっ!」


見ていられなかった。


気づいたら、走っていた。


柱の先端の下へ、肩を入れる。


「上げます! 前、抜けてください!」


柱を、下から押し上げた。


肩が、軋む。


先端が、樽の壁の上へ、ぐっと持ち上がる。


前の荷運びが、身をよじって、抜けた。


「後ろ、止まって!」


後ろの荷運びが、足を踏ん張って、止まった。


静かになった。


誰も、怪我をしていない。


試験用の通路だから、挟まれても、大事にはならない隙間だった。


でも、本番なら。


あの狭い、暗い下りの通路で、同じことが起きたら。


オルトが、低い声で言った。


「これが、本番の危険だ」


「……はい」


ミレイさんが、うなずいた。


「問題が、はっきりしました。曲がり角で支柱が引っかかり、下り坂で後ろから押される。逃げ場の少ない通路では、致命的です」


「どうする」


年配の荷運びが、腕を組んだまま、うなった。


「柱を短く切るしかないか」


「短くすれば、補強の強度が落ちる」


技術者が、首を振った。


沈黙が、広がった。


俺は、柱を見ていた。


柱の重さ。曲がり角。坂。


頭の中で、あの道を、もう一度、歩いた。


三つ目の曲がり角は、一番狭かった。


あそこを、この長さの柱は、回れない。


「あの」


「何だ」


オルトが、俺を見た。


「柱を、二本に分けて運ぶことは、できませんか」


「分ける?」


「半分の長さなら、曲がり角を回せます。現場でどう使うかは、俺には分かりません。でも、運ぶだけなら、分けた方が、ずっと安全です」


技術者が、目を細めた。


「……運ぶ方法としては、筋がいい。ただ、分けた柱を現場でつないで使えるかどうかは、別の話だ。強度が分からん」


「はい。そこは、俺が決めることじゃないので」


「強度の試験は、続ける。結果が出るまで、分けた柱は、実際の崩落現場の補強には使わん」


「それでいい」


オルトが言った。


「運べる方法と、使える方法は、別に確かめる」


「それと、運び方も」


俺は、荷縄を手に取った。


「柱は、一本ずつ、背負い板に斜めに固定します。前の人は、柱の先を持ち上げて運ぶ。後ろの人は、縄を腰にかけて、体重で柱の押し出しを受ける。曲がり角では、後ろの縄を一度ゆるめて、前が回りきってから、締め直す」


「やってみせろ」


オルトが言った。


俺は、半分の長さに切った柱を、背負い板に斜めに固定した。


縄の掛け方は、荷崩れしない結び。ほどけないけれど、緊急のときは、一引きでほどける形。


「ドランさん、後ろ、お願いします」


「おう」


ドランさんが、後ろの縄を腰にかけた。


俺は、前に立った。


通路へ入る。


一つ目の曲がり角。


「回します」


「おう」


縄が、ゆるむ。


前を上げて、回す。


後ろが、縄を締める。


二つ目。


坂が、強くなる。


「引いてください」


「引いてる」


縄が、柱の押し出しを、ちゃんと受け止めている。


三つ目。


一番狭い角。


俺は、柱の先を、ぎりぎりまで持ち上げた。


肩が、軋む。


でも、柱の重さは、思ったより、手に馴染んだ。


どこを持てばいいか、分かる。


荷には、必ず、持ちやすい場所がある。


重さが釣り合う、点。


「……回った」


「回ったな」


通路を抜けた。


柱は、傷一つなく、荷役場の床に下ろされた。


見ていた荷運びたちが、息を吐いた。


「一往復、か」


年配の荷運びが、うなった。


「新入りの癖に」


「新入りじゃないです」


「口の減らねえやつだ」


でも、その顔は、笑っていた。


ドランさんが、俺の背中を叩いた。


「見たか。うちの荷運びだ」


「ドランさん、痛いです」


「うるさい」


ミレイさんが、近づいてきた。


「ありがとうございます。具体的で、助かる提案でした。運び方としては、成功です。ギルドも、組合も、評価します」


「運び方は、組合として採用する」


オルトが、短く言った。


「ただし」


ミレイさんが、続けた。


「分けた支柱の強度は、技術者の確認が済むまで、現場の補強には使えません。先遣隊には、すでに強度と用途が確認されている短い補強材を、この運び方で持たせます。分けた支柱は、本隊で使えるかどうかの候補として、試験を続けます」


「試験は、今夜から始める」


技術者が、うなずいた。


「ギルド側の安全審査も、今回の試験と、ドランさんの同行で、必要な条件は満たします」


「当然だ」


ドランさんが、胸を張った。


調査班の男が、肩をすくめた。


「荷運びにゃ、敵わねえな」


「いえ。本番は、これからなので」


「分かってるじゃねえか」




夕方、荷役場の事務室に、ミレイさんが駆け込んできた。


「少し、よろしいですか」


オルト、ドランさん、俺、それに技術者と調査班の男が、部屋に集まった。


ミレイさんが、帳面を机に広げた。


「調査班の報告を、詳しく確認しました。気になる点が、二つ出ました」


「二つ」


「一つ目は、ギルドの古い調査記録です。崩落現場の付近について、水に関する記述は、ありませんでした。水音は、以前は、なかったことになります」


「記録が、抜けてただけかもしれん」


調査班の男が、言った。


「その可能性も、あります。ただ、二つ目が」


ミレイさんは、調査班の男を見た。


男は、頭をかいた。


「……戻る直前、壁の手前の床に、うっすら、水が出てたんだ。来たときには、乾いてた」


部屋が、静かになった。


「どのくらい」


「指の幅ほど。広がってるかは、分からん。気のせいかもしれんが、音も、少し大きくなった気がする」


オルトが、腕を組んだ。


「原因は」


「分かりません」


ミレイさんが、答えた。


「地下水の流れが変わったのか、崩落で水路が開いたのか、別の理由か。まだ、何も言えません。水が増えているのかどうかも、確定していません」


「だが、無視はできん」


「はい」


ミレイさんは、顔を上げた。


「急ぐ必要が、あります。でも、確認しないまま突入して、全滅するわけにもいきません」


オルトが、うなずいた。


「ギルドの判断は」


「先遣隊を、先に出します。水音と床の状態を、確認する。それから、本隊の準備を整える。順番を踏みます」


「現実的だな」


ドランさんが、うなった。


「その先遣隊に、荷運びは」


ミレイさんは、ドランさんを見て、それから、俺を見た。


「探索者三名、ギルドの技術者一名。それと、荷運び組合から、二名。荷物は、強度と用途の確認が済んだ短い補強材と、縄、滑車を、必要最小限。ドランさんと、カイさん。ご協力を、お願いできますか」


「分けた支柱は、持たせん」


技術者が、念を押すように言った。


「試験の結果が出るまで、あれは地上に残す」


「はい」


ミレイさんは、うなずいた。


「降下したら、最初に、下層側の扉と昇降台まわりを、探索者と組合の者で確認します。異常があれば、先へは進まず、引き返します」


俺は、息を止めた。


オルトの顔を見た。


「決めるのは、組合だ」


オルトが言った。


「ドラン」


「俺は、同行する。カイも、連れて行く」


「カイは」


オルトは、俺を見た。


長い沈黙。


「……明朝の地上側の点検で、問題がなかった場合。それと、下層側の現地調査の許可が、ギルドと組合の連名で、正式に出た場合。その二つが、そろったら、許可する」


「ありがとうございます」


「勘違いするな。疑いが晴れたわけじゃない」


オルトの声は、変わらなかった。


「お前を連れていくのは、お前の観察が必要だからだ。それ以外の理由は、ない」


「はい」


「条件がある。ドランと、離れるな。ギルドの探索者の指示に従え。単独行動は、しない」


「約束します」


「昇降台の操作は、組合の管理者だけだ。降下中も、地上の巻き上げは、俺が見る。合図があれば、すぐ引き上げる。お前は、荷に専念しろ」


「分かりました」


胸の奥が、じんと熱くなった。


セナとの約束も、同じだ。


一人で降りない。


みんなで、降りる。


ミレイさんが、帳面を閉じた。


「出発は、明後日の朝を予定しています。ただし、地上側の点検と、現地調査の許可が、そろった場合に限ります。それまでに、水音の件を、もう一度、整理します」


部屋を出たとき、夕暮れの空が、赤かった。


荷役場の端の縦穴が、黒く開いている。


その方向に、胸の奥の重さが、ほんの少しだけ、傾いた。


指の幅ほどの水。


それが、いつから、どれくらい増えているのか。


誰にも、まだ分からなかった。

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