第十話 壁の向こうの声
風が、止まった。
ランプの火が、ゆっくり起き上がる。二つは、消えていた。
「火をつけ直せ! 全員、壁から離れろ! 下がれ!」
バルトの声が、通路に響いた。
俺は、後ろへ下がった。足が、水をはね上げる。
「点呼。順に、名乗れ」
「斥候、無事」
「盾、無事」
「技術者、無事だ」
「ドラン、無事」
「……カイ、無事です」
「俺を入れて六。全員、いるな。負傷は」
誰も、答えなかった。
「よし」
バルトが、息を吐いた。
斥候の女性が、火打ち石を鳴らして、ランプに火を戻す。
壁が、橙色に浮かび上がった。
大きな石の壁は、さっきと同じに見えた。
でも、どこかが、違う。
「技術者」
「見る。……全員、壁から五歩離れてろ」
技術者が、そっと近づいた。
石の隙間をのぞき、指で縁をなぞり、天井を見上げる。
濡れた床にしゃがんで、水の筋を目で追った。
しばらくして、低い声で言った。
「石が、動いた。向こう側で」
「崩れたのか」
「崩れたとまでは、言えん。奥で積み重なってた石が、ずれた。それで、隙間の通り道が変わった」
技術者は、足元を指さした。
「水の筋を見ろ。さっきまで、一本だった。今は、二本に分かれてる」
見ると、床の窪みの水が、確かに、二筋になっていた。
一本は、壁の右下の隙間から。もう一本は、左下の、さっきまで濡れていなかった所から。
「水の道が、変わってる」
「ああ。さっきまで安全だった低い所に、水が集まり始めてる。今は、足首にも届かん。だが、向こうで次に何かが動けば、ここは、危ない」
「……どのくらい、持つ」
「分からん。今すぐ押し寄せるほどじゃない、というだけだ」
バルトは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「引き返すことも、考える」
誰も、口を挟まなかった。
「俺たちの仕事は、安全の確認と、本隊の準備だ。ここまでで、必要な情報は、そろってる。崩落現場は、ここ。奥に、空洞がある可能性が高い。水が増えてる。石が、動いてる。これを持って帰れば、本隊が組める」
筋は、通っていた。
分かっている。
でも。
「待ってください」
声が、出ていた。
全員が、俺を見た。
足が、前へ出かけていた。
壁へ。あの音のした方へ。
……止めた。
一人で、走らない。
セナと、約束した。
「あの打音が、気になります」
「規則的だった、と言いたいんだな」
「はい。もし、あれが、人の出した音なら。今も、誰かが、向こうにいるかもしれません」
「分かってる」
バルトの声は、低かった。
「だが、お前の一言で石をどけたら、どうなる」
「どけません」
俺は、言った。
「石は、動かさないです。壁には、触らずに、音だけで確かめる方法があります」
「方法」
「荷役場の、合図です」
荷役場では、二階の倉と下の荷車の間が、離れている。声が届かないとき、縄を張って、棒や指で叩いて、合図を送る。
短く二つ、長く一つ。「聞こえるか」。
同じ拍で返せば、「聞こえた」。
荷運びなら、誰でも知っている決まりだ。
「技術者さんが決めた、動かない大きな石を、木槌の頭で、軽く叩きます。その石の角に、縄を一巻きして、ぴんと張って、指を当てておきます」
「縄は、壁の向こうまで、届かんぞ」
技術者が言った。
「はい。縄は、補助です。石を伝わってきた震えを、指で拾うだけです。返事かどうかを決めるのは、耳です。水の音に紛れて、聞き逃しそうなときに、指も使えば、気づきやすいと思います」
「耳で聞いて、指で確かめる。二つを合わせる、ってことか」
「そうです」
バルトは、腕を組んだ。
「石は、動かさない」
「動かしません。叩くのは、技術者さんが、安定していると判断した石だけです」
「……俺が決めるのか」
「はい。俺には、石の安定は、分かりません。そこは、お願いします」
技術者が、苦笑した。
「いいだろう。見てやる」
バルトは、しばらく、壁を見ていた。
「助けたい気持ちは、俺にもある」
ぽつりと、言った。
「だが、気持ちだけで石をどければ、向こうの人間ごと、潰す。俺の仕事は、お前たち全員を、地上へ帰すことだ」
「はい」
「だから、条件を付ける」
バルトは、指を三本、立てた。
「合図は、三回まで。反応がなければ、撤退する。水が足首を超えたら、撤退する。俺が引けと言ったら、すぐ引く。いいな」
「はい」
「ドラン」
「おう」
「縄の扱いを、見てやれ」
「分かってる」
バルトが、短く、指示を出した。
「斥候。周りの危険と、音の来る方向を見ろ。盾。退路を確保して、天井を見張れ。技術者。叩いていい石を決めろ。ドランとカイは、縄だ」
「了解」
技術者が、壁の前で、石を一つずつ確かめた。
手のひらで押す。木槌の柄で、軽く叩く。耳を近づける。
「……ここだ。この大きな石は、動かん。壁の土台に近い」
膝の高さの、大きな石だった。角が、床の方へ突き出している。
「ここに、縄を回します」
ドランさんが、縄の端を、石の角に一巻きした。
「結び目は」
「引けばほどける結びで。石に傷をつけないように」
「分かってる」
縄の反対の端は、ドランさんと俺で、ぴんと張る。
指を、縄に当てた。
冷たい。
濡れた縄の向こうから、石のかすかな冷たさが、伝わってくる。
「斥候さん。音の方向を、お願いします」
「分かった」
斥候の女性が、壁に耳を寄せるほど近づいた。
「……左下から、聞こえてた気がする。もう一度聞けば、分かる」
「始めます」
技術者から借りた木槌を、手に取った。
深く、息を吸う。
倉の上と下で、縄を挟んで立つ。
最初に教えられた合図。ドランさんに。
短く、二つ。長く、一つ。
決められた石の、角の少し上を、木槌の頭で、軽く叩く。
こん、こん。
こーん。
石が、鳴った。
指先に、自分の叩いた震えが、縄を伝って戻ってくる。
静かだった。
水の音。
ごぽ。
待つ。
一つ。
二つ。
三つ。
何も、返ってこない。
「……もう一度」
バルトが、うなずいた。
こん、こん。
こーん。
石が、鳴る。
水の音。
何も。
心臓が、うるさい。
三回まで。
ここで、返らなかったら。
最後の一回。
俺は、木槌を握り直した。
こん、こん。
こーん。
水の音。
ごぽ。
静かだった。
「……三回だ」
バルトが、低く言った。
「撤退だ」
そのとき。
遅れて、石から、音が返ってきた。
こん、こん。
こーん。
耳で、はっきり聞こえた。
指先にも、かすかな震えが、伝わった。
全員が、息を止めた。
同じ拍だった。
短く二つ。長く一つ。
俺が送った合図と、同じ。
「……今の」
「ああ」
斥候の女性が、壁から顔を離した。
「左下。間違いない。音は、あの辺りから来た」
「縄の震えは、石が鳴ったってことしか、教えてくれん」
技術者が、静かに言った。
「人かどうかは、拍で決める。水が、あんな拍で石を叩くか。石が崩れるなら、あんな間は置かん」
バルトが、ゆっくり、口を開いた。
「……意図して、応えた者がいる」
誰かが、向こうにいる。
そう言い切れるわけじゃない。
でも、さっきまでとは、違う。
水でも、風でも、石でもない。
誰かが、聞いて、返した。
「ドランさん」
「おう」
「あの合図、まだ覚えてたんだな」
ドランさんが、ぼそりと言った。
「ドランさんが、最初に教えてくれたので」
「……こんなところで、役に立つとはな」
その声が、少し、かすれていた。
「もう一度、送れ」
バルトが言った。
「何を送る」
「お前が決めろ。荷運びの合図なら、お前の方が詳しい」
俺は、少し考えた。
「短く、三つ。『待て』です。荷役場では、『すぐ行くから待て』って意味でも、使います」
「いい。送れ」
こん、こん、こん。
石が、鳴る。
水の音。
ごぽ。
……
……こん。
……こん。
……こん。
返ってきた。
耳で、聞こえた。
短く、三つ。
でも、さっきとは違った。
間隔が、長い。音も、弱い。
「……弱ってる」
斥候の女性が、小さくつぶやいた。
「ああ」
バルトが、うなずいた。
「誰かが、いる。弱ってはいるが、意図して、返してる。それは、確かだ」
「セナさんの、仲間……」
「かもしれん」
バルトは、遮るように、続けた。
「だが、決めつけるな。誰かが、いる。それだけだ」
「はい」
胸が、熱かった。
でも、足は、止まっていた。
壁には、触らない。
「バルトさん」
「何だ」
「石を、どかしたら、助けられますか」
「どかせる、とは言ってない」
バルトは、技術者を見た。
「技術者。どうだ」
技術者は、壁を見上げて、長く息を吐いた。
「正直に言う。無理に石を抜けば、上が崩れる。この壁は、一番下の大きな石が、全体を支えてる。どこか一つを動かせば、全体が動く」
「補強材は」
「今、持ってきた分では、壁全体を支えられん。短い補強材は、小さな崩れを防ぐには使えるが、この壁の重さは、受けきれん」
「……」
「石を抜くなら、先に、抜く石の上に乗ってる重さを、別の所で受ける必要がある。それが、できてない」
俺は、思わず口を開いた。
「縄と、滑車で、重さを分けられませんか」
「分ける?」
「石を動かす前に、上の石を、縄で吊って、別の所で受ける。荷役場で、荷を持ち上げる前に、荷重を分散させるのと、同じ考えで」
技術者は、俺を見た。
「……構造の判断は、俺がする。縄だけで、石の重さは受けきれん。縄を掛ける固定点が、必要だ。天井の梁か、頑丈な柱か」
「はい」
「だが、考え方は、悪くない。荷重を、石を抜く前に、逃がす。吊り上げで受けて、そこへ補強材を足していく」
技術者は、指を折った。
「それには、補強材が、今の持ち込みの、五倍は要る。縄と、滑車も、増やす。作業員は、石をどける者と、支える者で、最低でも、八人」
「本隊を、呼ぶ理由が、できたな」
バルトが、言った。
「はい」
「カイ」
「はい」
「運ぶ側の問題は」
俺は、荷札の板を出した。
「三つの曲がり角と、濡れた下り坂は、前の運び方で通れます。短い補強材は、背負い板に斜めで、一人運ぶ。分けた支柱は、強度が確認できたら、本隊で使えます。ただし、滑車と縄は、人数が増えるぶん、順番を決めて、渡さないと、石床の部屋で詰まります」
「分かった。記録しろ」
そのときだった。
壁の石の隙間から、水が、ざあっと、一度に流れ出した。
床の水が、一気に、足首まで上がった。
「水!」
斥候の女性が叫んだ。
「バルトさん、水が!」
「足首を、超えたな」
バルトの声は、落ち着いていた。
「撤退だ。全員、荷を持て。縄は、ほどく。急げ」
俺は、迷った。
壁の向こうの人。
さっき、弱く、返してくれた人。
でも。
「……はい」
ドランさんが、縄を石からほどく。
盾持ちが、退路を確保する。斥候が、先頭に立つ。
撤退の支度の間に、俺は、荷札の板に、炭で書きつけた。
立ったまま。手が、濡れて、震える。
水が、強くなった場所。壁の右下と、左下。
石の状態。膝の高さの土台石は、動かない。上は、ずれてる。
打音の位置。左下、壁の根元の近く。返事は、弱い。
必要なもの。補強材、追加で五倍。縄、滑車、作業員八人。石をどける者と、支える者。
運搬。曲がり角三つ。濡れ床。荷は、二人一組で、縄。石床の部屋は、印の通り、壁際。
退路。来た道。足首を超えたら、撤退。
荷札の板が、いっぱいになった。
「カイ」
バルトが、呼んだ。
「行くぞ」
「はい」
壁に背を向けて、歩き出した。
水が、足首をなでる。
荷を背負った隊が、一列になって、通路を戻っていく。
壁から、十歩ほど離れたところで、俺は、前を歩くバルトの背中に、声をかけた。
「バルトさん。歩きながら、一度だけ、送らせてください」
バルトは、振り向かなかった。
しばらく、歩く足音だけが、続いた。
「……この通路の壁は、あの崩れた壁と、つながった岩だ。ここからでも、音は、届く」
「はい」
「足は、止めるな。叩くのは、一度だけだ。壁には、近づくな」
「はい。ありがとうございます」
俺は、歩きながら、通路の壁に、木槌の頭を当てた。
「待て」。
すぐ、戻る。
こん、こん、こん。
叩いた手を、すぐに引いた。
足は、止めない。
水の音。
ごぽ。
……
返事は、なかった。
唇を、かんだ。
「行くぞ」
ドランさんが、後ろから、俺の背中を押した。
歩き続ける。
壁が、遠ざかる。
そのとき。
こん。
一つだけ。
遠くで、石が、鳴った。
足が、一瞬、止まりそうになった。
止めなかった。
胸の奥の重さが、動いた。
縦穴の方へ傾いたときとは、違う。
下じゃない。
まっすぐ、崩れた壁の向こう。
ぐっと、引かれた。
なぜかは、分からない。
ただ、引かれる。
「カイ!」
ドランさんの声で、我に返った。
俺は、前を向いて、足を速めた。
胸の奥の重さは、最後まで、壁の方を向いていた。




