第十一話 届いた合図
水は、足首より上まで来ていた。
先遣隊は、来た道を、急ぎ足で戻っていた。
下ってきた坂は、今は上りになる。濡れた石が、靴の底を、何度も滑らせた。
「足を止めるな。縄を離すな」
バルトが、前から声をかける。
「カイ、先頭を頼む。足場は、お前の判断だ」
「はい」
石の床の部屋に出た。
来たときより、水が、床一面を薄く覆っていた。
張り綱は、まだ、向こう岸と入り口の間に張られたままだった。
でも。
「印が」
斥候の女性が、足元を見て、舌打ちした。
炭でつけた印が、水で流されて、ところどころ消えている。
来るときに傾いて止まった石の列が、斜めの帯みたいに、水の下へ沈んでいた。
俺は、しゃがんで、水の中の継ぎ目を見た。
細い継ぎ目の石と、太い継ぎ目の石。
仕掛けが働かなくなった今も、傾いた石は、傾いたままだ。踏めば、足が取られる。
「壁際の縁を、まっすぐ行きます」
「縁は、水の下だぞ」
「はい。棒で突いて、確かめながら行きます」
荷の中から、長い棒を一本、抜いた。
荷運びは、見えない足場を、棒で確かめる。暗い倉庫で、水に濡れた床で、何度もやった。
最初の一歩。
水の中の縁を、こつ、と突く。
固い。動かない。
「ここ」
二歩目。
「ここ。右の継ぎ目は太いので、安全です」
「了解」
斥候の女性が、すぐ後ろについた。
三歩目で、棒が、空を切った。
「待ってください」
「どうした」
「ここ、縁が、欠けてます」
水の下で、縁の石が、半分、崩れていた。
来たときは、なかった。
「どうする」
「一つ内側の、太い継ぎ目の石へ。来るときに、動かなかった石です。壁から二筋目の、入り口から四つ目」
頭の中の格子を、たどった。
棒で、突く。
固い。
「ここです」
「……確かに、動かん」
技術者が、足でそっと確かめて、うなずいた。
「お前の覚えてる通りだ」
一歩ずつ、水の中を渡っていく。
誰も、滑らなかった。
最後の一人が、向こう岸に着いたとき、全員が、息を吐いた。
昇降台の底に着いた。
扉の台座は、空のまま。昇降台も、来たときと同じに、そこにあった。
「異常、なし」
バルトが言って、鎖を、二度、引いた。
遠くで、巻き上げ装置が唸った。
昇降台が、ゆっくり、上がり始める。
ごとん、ごとん、と、鎖の鳴る音。
縦穴の壁を、荷運びの印が、流れていく。
上へ。
地上の光が、見えた。
昇降台が、地上の縁に着いた。
オルトが、巻き上げ装置の横に立っていた。
「全員、いるか」
「六。全員、無事だ」
バルトが答える。
オルトは、昇降台と鎖に、素早く目を走らせた。
「台、鎖、問題なし。……下は」
「扉と昇降台は、異常なし。ただ、扉の台座が、空だ」
バルトが言った。
「降りたときから、空だった。記録してある」
オルトの視線が、一瞬、俺の方へ動いた。
胸が、少しだけ、締まった。
「その件は、あとだ」
オルトは、短く言った。
「今は、救助が先だ。報告は、ギルドで。全員、着替えて、飯を食え」
それだけだった。
追及は、なかった。
疑われているのか、そうでないのか。
やっぱり、読めなかった。
夕方、ギルドの奥の部屋に、人が集まった。
ミレイさんが、帳面を広げている。隣に、ギルドの上の者が一人。向かいに、オルト、バルト、技術者、ドランさん、それに、俺。
「先遣隊の報告を」
バルトが、立ち上がった。
「崩落現場に到達。壁の奥から、規則的な返答あり」
「規則的な返答」
「荷役場の合図を、こちらから送った。三度目で、同じ拍が返った。続けて『待て』を送ると、同じ『短く三つ』が、弱い間隔で返った。最後に、撤退中に、一つだけ」
部屋が、静かになった。
「返答者の正体は、不明だ」
バルトは、はっきり言った。
「だが、水でも石でもない。人が、意図して返した可能性が高い」
「技術者」
ミレイさんが、促した。
技術者が、立ち上がった。
「崩落壁は、一番下の大きな石が、全体を支えてる。奥で、石がずれた。水の流れが、変わった。それと」
少し、言葉を切った。
「水位が、短時間で、足首まで上がった。今、現場の水がどこまで来てるかは、分からん。確かめてないからな」
「現状の資材では」
「安全な救助は、できん。補強材、縄、滑車、追加の作業員が要る」
ギルドの上の者が、腕を組んだ。
「運ぶ手段は」
「カイ」
バルトが、俺を見た。
荷札の板を、机に置いた。
「運搬上の問題は、三つです。曲がり角が三つ。濡れた下り坂。それと、石床の部屋」
「順に」
「曲がり角は、長い補強材が通りません。短い補強材なら、背負い板に斜めに固定して、一人で運べます。濡れた坂は、後ろの人が縄を腰にかけて、押し出しを受ければ、安全です。石床の部屋は、水で印が薄れていたので、棒で足場を突いて確かめながら、壁際を、一人ずつ渡る必要があります」
「一人ずつ、か」
「はい。八人以上の作業員を、石床の部屋で渡すには、時間がかかります。縄で足場を確保して、順番に」
「どのくらいかかる」
「慣れた人で、一人、数分。全員で、半刻ほど、見ておいてください」
ギルドの上の者が、ミレイさんを見た。
「ミレイ。待つ余裕は」
ミレイさんは、少しの間、黙った。
「……ないかもしれません。でも、急いで二次崩落を起こしたら、すべてが、無駄になります」
「両方、本当だ」
バルトが言った。
「だから、急ぎつつ、順番は守る」
夜、治療所に寄った。
セナは、起きていた。
「おかえり」
声が、少しかすれていた。
「ただいま戻りました。全員、無事です」
「……そう。よかった」
セナは、ほっと息を吐いてから、俺の顔を見た。
「何か、あったのね」
俺は、椅子に座った。
荷札の板を、膝の上に置いた。
「壁の向こうから、返事がありました」
セナの指が、ぴくりと動いた。
「荷役場の合図を、石を叩いて、送りました。短く二つ、長く一つ。三回目で、同じ拍が、返ってきました」
「……同じ拍」
「次に、『待て』を送りました。短く三つ。返ってきました。ただ、弱くて、間隔が長かったです」
セナは、息を止めていた。
「最後に、帰る途中で、もう一つ。『こん』と、一度だけ、聞こえました」
「誰が、返したの」
「分かりません」
俺は、はっきり言った。
「まだ、直接会えていません。誰が叩いたのかは、分かりません。水や石の音じゃない、とは、技術者さんも言っていました。でも、あの二人かどうかは、分かりません」
セナは、しばらく黙っていた。
それから、小さく、息を吸った。
「……本当に、あの二人なのか、って、考えてしまう」
「はい」
「違ったら、って」
「はい」
「他の誰かでも、助けたい。でも……あの二人であってほしい。それが、本音」
声が、かすれていた。
「それで、いいと思います」
「……うん」
セナは、窓の方を向いた。
「弓の子はね、毎晩、矢の青い糸を、巻き直してたの」
ぽつりと、言った。
「野営の火の前で、一本ずつ。ほどけかけてないか、確かめて。そんなに丁寧にしなくていいって言ったら、『これが、私のお守りだから』って」
「お守り」
「うん。……それだけ。思い出した」
セナは、目を閉じた。
涙は、流れなかった。
でも、握った手が、白かった。
「期待させるようなことは、言いません」
俺は、言った。
「準備は、始まってます。補強材と、縄と、人手を増やして、もう一度行きます。ただ、いつ届くか、届いたときに何があるかは、約束できません」
「……約束は、いらない」
セナは、目を開けた。
「あなたが、正確に伝えてくれた。それで、十分」
「はい」
「弱かった、って、ちゃんと教えてくれて、ありがとう」
「……はい」
「カイ」
「はい」
「行ったら、無理はしないで。あなたも、帰ってきて」
「必ず、とは、言えません」
「知ってる」
セナは、少しだけ、笑った。
「だから、お願いだけ」
「分かりました。お願いは、聞きます」
翌朝、荷役場は、荷車と人であふれていた。
補強材。縄。滑車。工具。水を含んだ荷を拭く布。
「カイ、これ、どこに置く」
「そこの、札の一番の山です。壁の補強材」
俺は、荷札に、炭で、数字と場所を書き込んでいた。
一番は、壁用の補強材。二番は、曲がり角用の縄と滑車。三番は、濡れた坂の補助縄。四番は、石床の部屋用の長い縄と棒。
荷運びの仕事は、何を、どこで使うか、分かるように運ぶことだ。
下へ降りてから、迷わないように。
「分けた支柱は」
ドランさんが、積んである束を、指さした。
「強度の試験が、終わってない。構造用には、使わない」
技術者が、そばで、帳面を見ながら言った。
「壁の補強には、確認済みの短い補強材だけだ。分けた支柱は、念のため、持っていく。使うかどうかは、結果が出てからだ」
「分かりました」
積み上がった荷を、札の順に、並べ直す。
「これだけの荷、一度には、無理だな」
年配の荷運びが、荷の山を見て、うなった。
「昇降台に、全部は載らん」
オルトが、昇降台の脇に立っていた。
「昇降台の限度は、荷と人を合わせて、これだけだ」
オルトは、石板に、数字を書いた。
「補強材、縄、滑車、工具、それに人。全部を合わせると、限度を超えてる」
「……」
「超える分は、何度かに分けて運ぶ。ただ、鎖と巻き上げ装置の負担を考えると、無駄に動かすわけにはいかない」
俺は、荷の山を、見つめた。
重さ。順番。誰が、どこで、受け取るか。
「あの」
「何だ」
「人と資材を、分けませんか。重い補強材は、人を乗せずに、先に降ろす」
「無人の便か」
「はい。降ろしたところで、下に、受け取る人が待ってる。先に降りた、先発の四人です」
「その先発に、荷を受け取る荷運びを入れる、ということか」
「はい。ドランさんと、俺。それに、バルトさんと斥候さん。先発が、扉と昇降台のまわりを確かめてから、荷を受けます」
「荷を降ろしたあと、昇降台は、どうやって戻す」
「オルトさんが、地上から戻します。下で荷降ろしが終わったら、下から、鎖を二度、引きます。『終わった。引き上げてくれ』の合図です。オルトさんが、それを確認してから、戻してください。下から、勝手に動かすことは、できません。操作は、オルトさんだけです」
オルトは、少し黙った。
「異常があったときは」
「先発が、扉と昇降台のまわりを確かめて、おかしければ、荷降ろしを始めずに、鎖を二度引きます。全員、引き上げてもらいます。そのときは、計画を、そこで止めます」
「引き上げたとき、台に人が乗っていれば、鎖の重さで分かる」
オルトが言った。
「乗っていれば、そのまま上げて、中断する」
「はい」
「……いいだろう」
オルトは、石板に、チョークを走らせた。
「一便目。先発の四人。バルト、斥候、ドラン、カイ。軽い荷」
「二便目から四便目。補強材。無人」
「五便目。盾持ち、技術者、荷運び二人。軽い荷」
「六便目。縄、滑車、工具。無人」
「七便目。残りの荷運び四人」
「四、四、四で、十二人」
俺が言うと、オルトは、うなずいた。
「全員、降りられる。七便降ろして、荷降ろしのたびに、昇降台は、空で戻す。最後の七便目だけは、下に残す。引き上げるのは、撤退のときだ」
「降ろす七回と、戻す六回で、昇降台は、十三回、動く」
「そうなる」
オルトは、鎖と巻き上げ装置を、見た。
「検証する。便ごとの重さに合わせて、砂袋を積んで、昇降台を降ろして、戻す。重さは、どの便も、限度の八割までだ」
砂袋が、昇降台に積まれた。
一番重い、補強材の便の重さ。
次に、人を乗せた便の重さ。
オルトが、巻き上げ装置の操作を、確かめる。
鎖が、鳴る。昇降台が、縦穴へ沈む。
しばらくして、空で戻ってくる。
オルトは、鎖の張りと、枠のきしみを、一つずつ確かめた。
「採用する」
短く、言った。
「ただし、積み方は、俺が見る。カイ、札の順を、そのまま守れ。便の番号も、札に書け」
「はい」
俺は、荷札に、便の番号を書き足した。
「悪くない」
そう言って、オルトは、巻き上げ装置の方へ、戻っていった。
ドランさんが、俺の背中を、ばんと叩いた。
「ほらな」
「痛いです」
「荷運びの仕事だ」
周りの荷運び仲間が、笑った。
昼過ぎ、荷役場の事務室に、技術者が、帳面を持って入ってきた。
「バルト。ミレイ。オルト。少し、いいか」
全員が、集まった。
技術者は、先遣隊の記録を、机に並べた。
「水の流れが、変わったこと。短時間で、足首まで上がったこと。壁の隙間から、一度に、水が流れ出したこと」
「ああ」
「これは、仮説だ。確かめようがないから、仮説だと言っておく」
技術者は、一度、息を吸った。
「もし、奥で水が、せき止められているなら。さらに石が動いたとき、一度に流れ出す可能性がある」
部屋が、静かになった。
「つまり」
「壁の向こうにいる者は、水の影響を受けてる可能性がある。逆に、壁が崩れたとき、俺たちも水を浴びる」
「いつ、とは」
「分からん。今日かも、明日かも、何日も先かも」
バルトが、低く言った。
「準備を、急げ」
「急ぐと、ミスが出る」
オルトが言った。
「分かってる。だが、待っていれば、向こうの人間は、もっと弱る」
「資材を、減らせば」
「安全な作業が、できん」
技術者が、首を振った。
「急ぎすぎれば、二次崩落を招く。時間をかければ、待ってる者に、間に合わん。どっちも、本当だ」
誰も、すぐには、答えなかった。
ミレイさんが、静かに言った。
「……順番を、守りましょう。急ぎます。でも、手順は、省きません」
「ああ」
バルトが、うなずいた。
「夜明けと同時に、出発する。今夜のうちに、準備を終わらせる」
夕方、ギルドと荷運び組合が、連名で、本隊の出発を決定した。
「本隊は、探索者三名、技術者一名、荷運び組合から八名。計十二名」
ミレイさんが、読み上げた。
「現場の指揮は、バルト。構造の判断は、技術者。昇降台の運用は、組合のオルト。荷運び班の責任者は、ドラン」
「俺か」
「はい」
「分かった」
ドランさんが、胸を張った。
「カイは、荷運び班として、参加します。荷の順番と、札の管理を担当。正式な指揮権は、ありません」
「はい」
俺は、うなずいた。
十分だった。
「出発は、明朝の夜明け。昇降台の運用は、七便。オルトの検証済みの手順に従う」
セナは、治療所で、待機する。
もう、決まっていた。
準備が、ほとんど整ったときだった。
夜の荷役場で、俺は、荷札を、最後に確かめていた。
オルトが、一人で、昇降台の前に立っていた。
「……オルトさん」
「カイか」
オルトは、振り向かなかった。
「七便、だな」
「はい」
「七回降ろして、六回、空で戻す。合わせて、十三回。十三回、確実に動く保証は、ない」
オルトが、低く言った。
「地上側は、問題ない。鎖も、巻き上げも。だが、下は別だ。下層側の扉の台座は、空。鍵の記録のない運行が、一度、あった。理由は、まだ、分かってない」
「……」
「原因の分からん異常が、二つある。昇降台を何度も動かすたびに、また出ない、とは言えん」
胸の奥の重さが、ずしりと、沈んだ。
あの扉の核は、俺が、取った。
それが、昇降台と関係あるのかは、分からない。
関係ないのかもしれない。
でも、もし。
「もし、途中で、止まったら」
俺は、聞いた。
「下に、先に降りた人と荷だけが残って、止まる。上にも、降りていない人が、残って止まる」
「そうだ」
オルトは、やっと、俺を見た。
「だから、今夜、空の昇降台を、何度か往復させて見る。動き続けるか、確かめる。動かなければ」
オルトは、言葉を切った。
「動かなければ、七便どころか、そもそも、降りられん」
荷役場の夜は、静かだった。
縦穴が、暗く、口を開けている。
補強材。縄。滑車。工具。人手。
助ける準備は、できた。
でも、そこへ届ける方法に、問題がある。
胸の奥の重さは、動かなかった。
ただ、縦穴の方へ、ほんの少しだけ、傾いていた。




